マルコ14:27-31「羊飼いイエス」

先週の箇所はいわゆる「最後の晩餐」、新しい過越の食事についてでした。イエス・キリストの十字架の恵みがギュッと凝縮された、非常に味わい深い箇所でした。けれども今日の箇所は一転、再び暗い雰囲気に包まれます。27節「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたはみな、つまずきます。』」また弟子たちの裏切りの話か、そう思われる方もいるかもしれません。先月、私たちはこの前にあるユダの裏切りを予告する箇所を読みました。またイースターの時には、ペテロの裏切りとそこからの回復について、ヨハネの福音書のみことばに聴きました。実際、新約聖書には福音書が四つ残されていますが、弟子たちの裏切りの場面、そしてペテロがイエスさまを三度知らないという場面はすべての福音書に共通して記録されています。これは何を意味しているか。イエス・キリストの十字架と復活を語るに当たって、弟子たちの裏切りは決して見逃すことのできない、ある意味重要な出来事であったということです。私たちはこの弟子たちの姿から教えられるべきことが、聴くべき神のことばがたくさんある。ここに私たちの姿がある!そのような視点をもって今日の箇所に向かっていきたいと思います。

 

つまずきと回復の予告

あなたがたはみな、つまずきます」。この前の食事の場面で、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切る」というイエスさまのことばを聞いて、弟子たちは「まさか自分ではないだろう」と思っていたはずです。しかし食事を終え、オリーブ山に向かう途中で、「実は一人だけではない。あなたがたはみなつまずく」と言われたイエスさま。そしてその後、こう続けました。「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。」二重鉤括弧の部分、これは旧約聖書のゼカリヤ書からの引用です。ぜひ後ほど脚注から元の箇所を確認してみてください。ここで言う「わたし」は神さまのことです。羊飼いを打つ、このイエスさまの十字架の出来事は、神さまによってなされること。すると、イエスさまに従っていた羊たち、弟子たちは散り散りになっていく。旧約聖書ですでに語られていたことが、これから実現しようとしている。

しかしイエスさまのことばはそこで終わりませんでした。イエスさまはこう続けます。28節「しかし、わたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」つまずいたらそこでもう終了ではない。よみがえった後、散り散りになった羊、弟子たちを再び集めてくださる。「ガリラヤへ行きます」、この「ガリラヤ」は、イエスさまと弟子たちが長い時間をともに過ごした思い出の地です。そこに先に行って、弟子たちを待っていてくださる。もう一度ともに歩んでくださる。イエスさまの豊かな愛と憐れみがこのことばに表れています。

 

反論するペテロ

けれどもペテロはそれに対して何と答えたか。29節「するとペテロがイエスに言った。『たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。』」イエスさまのことばを認めようとしませんでした。するとイエスさまはペテロ個人に向けて、具体的なつまずきの内容を予告します。30節「イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。』」しかしペテロはさらに強く否定します。31節「ペテロは力を込めて言い張った。『たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。』皆も同じように言った」。「たとえご一緒に死ななければならないとしても」、弟子たちはイエスさまに死の危険が近づいていることを察していました。十字架の意味を理解していたということではありません。ただ、パリサイ人や律法学者たちがイエスさまを陥れようと様々な策を練っていることは弟子たちも分かっていたはずですから、敵陣の本営であるエルサレムにいれば、いつかイエスさまは捕まえられてしまうかもしれないというのは容易に予測できたはずです。「しかしたとえそのような場面になっても、自分は最後まで絶対にイエスさまについていく!」ペテロは力を込めて言い張り、他の弟子たちも同じように主張しました。

 

「決して」

この後の展開を知っている私たちからしたら、この弟子たちの主張は滑稽に見えるかもしれませんが、ぜひ彼らの立場に立って想像してみてください。たとえば、自分が尊敬している人から、あるいは一生の仲を誓い合った友人から、もしくは夫婦の契りを交わしたパートナーから、「あなたはこれから私を裏切るだろう」と言われたらどんな思いがするでしょうか。「何を言っているんですか!そんなわけないじゃないですか!」間違いなくそう思うはずです。自分はそんなに信用されていないのか。そんなに弱く頼りなく見えるのか。場合によっては侮辱されているように感じ、怒りすらおぼえるかもしれません。それは相手がたとえイエスさまであってもそうだったと思うのです。「イエスさま、確かにあなたは何でも知っておられます。あなたの言うことは全部その通りになってきました。ただ流石にそれはないでしょう。自分たちを舐めないでください!」弟子たちは力を込めて主張したはずです。

ただ、一度そのような主張を始めると、必要以上に自分を大きく見せたくなってしまうのが人間の性というものです。ペテロはそのままの勢いで、「たとえ一緒に死ななければならないとしても自分は決してあなたを知らないとは言わない!」、強いことばで宣言してしまいました。そして他の弟子たちも相乗効果でそれにのっていってしまった。「自分も決してそんなことはしない!」「決して」、「決して」、「絶対に」、「絶対に」。

ただ、この数時間後、彼らの「決して」「絶対に」は見事に崩れ去っていきます。彼らはこの自分たちの発言を振り返ってどのように思ったでしょうか。激しく後悔したはずです。「何で自分はあんな大それたことを言ってしまったんだ。自分は思っていたほど強くなかった。自分はこんなに弱い人間だったのか」。自分自身を深く恥じ、自分自身に絶望したはずです。

このような弟子たちの姿から私たちは何を学ぶべきか。神さまの前で、私たちが「決して」「絶対に」、そのように主張できる事柄はないということです。私たちの内には、自分を強く見せたいという欲があります。自分を大きく見せたいと願う欲がある。人間関係においてはもちろん、神さまとの関係においてもです。その中で、「決して」「絶対に」、強いことばで自分を武装したくなることがあります。しかし絶対者なる神さまを前にして、果たして誰が「決して」「絶対に」などと口にできるでしょうか。私たちの内に「絶対」はない、そう言わざるを得ないのが現実です。

 

弱さをさらけ出す

しかし、これは同時に福音であるとも思うのです。私たちは神さまの前では強がる必要がない!人間関係においては、どうしても強がらなければ生きていけない現実があるかもしれない。弱みを見せていたら生きていけない、悪が蔓延る今の世界の現実はそうかもしれない。でも、少なくとも神さまの前では違う。無理をして、背伸びをして、自分は大丈夫、自分はへこたれない、自分は強い人間だ、虚勢を張らなくてもいい。強いことばで自分を武装しなくてもいい。自信をもたなくてもいい。なぜか。神さまは私たちの弱さをすでにご存知だからです。人前では決して見せられない弱い私たちの姿。神さまはそれをすべてご存知の上で、私たちとともにいてくださる。決して私たちを見捨てない。それが私たちの主、イエス・キリストです。

今日の箇所と同じ場面を描いているルカの福音書の箇所では、もう一つイエスさまのことばが記されています。お読みします。「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。「しかしわたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」。このイエスさまの祈りに、私たちは支えられています。どんなことがあっても、たとえつまずきをおぼえることがあったとしても、信仰がなくなることのないように、神さまから完全に離れることがないよう、イエスさまはいつも私たちのために執りなし祈っていてくださる。そして、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」、弱い私たちが再び立ち上がることができるように、そして今度は周りにいる兄弟姉妹に手を差し伸べることができるようにしてくださる。愛と配慮に満ちたイエスさまの御手が私たちを包み込んでいます。

このイエスさまの姿を覚えながら、最後に28節にもう一度目を留めましょう。「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」。たとえ一度散り散りになったとしても、再び戻ってくることができるよう、イエスさまは先回りして私たちを待っていてくださる。私たちの先に立って、私たちを導いてくださる。先立って進んでくださるイエスさまがおられる。この羊飼いなるイエスさまに今週も従っていきましょう。

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