マルコ14:10-21「いのちの引き渡し」

 

今日の箇所は、いわゆる最後の晩餐の直前の場面を描いています。ここで一際目を引くのは、イスカリオテのユダの裏切りの企てです。14章の冒頭には祭司長たちと律法学者たちはイエスを殺すための良い方法を探していたとありましたけれども、彼らは今日のところで最高の協力者を得ました。時期はちょうど過越の祭りというユダヤで一番大事なお祭りの真っ最中でしたから、民衆から慕われている人気者のイエスを大勢の人がいるところで捕らえるわけにはいきません。そこで、イエスの一番近くにいる弟子をスパイとして送り込んで、イエスが人目につかないところにいくタイミングを伺い、そこでイエスを捕えるという方法をとることにしました。そのスパイの役を買って出たのがイスカリオテのユダです。ユダがなぜイエスさまを裏切ることになったのか、マルコの福音書はその理由を記していません。何らかの理由でイエスさまに失望していたのかもしれませんし、お金に目が眩んでいたのかもしれません。詳しいことは何も分かりませんけれども、ユダは神の子イエス・キリストを裏切るという大きな罪を犯してしまった。それは否定しようのない事実です。

 

大罪人ユダ?

このユダは十二弟子の中でも一際目立つ存在ですので、ユダにまつわる物語は歴史の中で多く生み出されてきました。その中で最も有名なものの中に、イタリア文学最大の詩人と言われるダンテ・アルギエーリという人が書いた「神曲」という作品があります。この作品は「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」という三つのパートからなっていまして、ダンテ自身が主人公として、地獄、煉獄、天国を順番に旅していくという話です。その中でユダはどこに出てくるかと言いますと、やはり地獄篇です。ダンテが描く地獄は九つの層に分かれていまして、罪が軽い人から順番に一層目、二層目と降っていくのですが、ユダはどこにいるのかと言いますと、一番下の九層目です。そこにはルシファーと呼ばれるサタンもいて、そのルシファーがイエスを裏切ったユダと、カエサルを裏切ったブルータスとカッシウス、この3人を口で噛み締めしているという様子が描かれています。あらゆる罪の中で裏切りが一番重い罪だという理解です。ユダはそこで、歴史上最も重い罪を犯した人物の一人とされている。もちろんこの作品はダンテの空想に基づいていますから、聖書にはそのようなことは一切書かれていません。けれども歴史の中で教会がユダをそのように見てきたというのは事実です。自分たちはあのユダと違って、天国に入ることが保障されている。ユダのようでなくて感謝します。決してユダのようであってはいけない。

ユダが大変な罪人であるということは確かにそうでしょう。ユダは神さまからしかるべき裁きを受ける、それも言えるでしょう。けれども、「ユダは歴史上最も重い罪を犯した大罪人だ!」自らは高いところにいながら、遥か下、地獄の最下層にいるユダを見下ろしていく、それは果たしてイエスさまが求めておられる姿勢なのだろうか。そこで目を留めたいのが、18節以降のイエスさまのことばです。18節「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります」。そして20節「十二人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している者です」。イエスさまはここでユダの名前を出しません。「あなたがたのうちの一人」、「十二人の一人」、その場にいた十二人の弟子たちなら誰でも当てはまるような言い方です。「わたしと一緒に手を鉢に浸している者」とありますが、当時はスープが入っている一つのボウルに集っている者が皆パンを浸して食べるというのが一般的な食事でしたから、おそらくその場にいた弟子たちは全員イエスさまと一緒に手を鉢に浸していました。だからこそ弟子たちは動揺しました。「まさか私ではないでしょう」、イエスさまに向かって次々に言い始めた。「まさか、自分がそんなことをするはずがない。これまでずっと一緒にやってきたのに、今になって裏切りを企てている奴がいるなんて!」弟子たちの間には緊張した空気が走ったことでしょう。犯人探しが始まりそうになったかもしれない。ユダはどのような思いでその場にいたのだろうか。色々と想像が膨らみます。

しかし、その結末はどうなったか。ページをめくると、「まさか私ではないでしょう」と口々に言った弟子たちの成れの果てが記されています。ユダの企ては成功しました。祭司長たちの思惑通りです。では他の弟子たちはどうだったか。イエスさまを必死に守ろうとしたのか。50節を見ると、「皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあります。そして何とか後をついていったペテロも、最終的には自らの身を守るために、イエスさまのことなんか自分は知らないと誓い始める始末。これを裏切りと呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。確かにユダは自ら積極的に裏切りを企てたという意味で他の弟子たちとは違ったでしょう。しかし、他の弟子たちは果たしてユダ一人を責めることができる立場にあったのか。決してそうではないでしょう。積極的であろうと、消極的であろうと、十二人の弟子たちは最終的に全員イエスさまを裏切ったのです。「まさか私ではないでしょう」、そのまさかが十二人全員の現実になった。「人の子を裏切るその人はわざわいです」。イエスさまに「わざわい」であると言われるほどの罪を全員が犯したのです。

 

私たち自身の姿

今日のこの箇所は、旧約聖書の預言の成就だと言われます。18節の脚注にありますが、詩篇の41篇です。お開きになれる方はぜひお開きください。旧約聖書の975頁です。この41篇は正しい人の苦しみの祈りの詩です。神の前に誠実に歩んでいる人が敵から苦しめられている。その中で、詩人は言います。9節「私が信頼した親しい友が、私のパンを食べている者までが、私に向かって、かかとを上げます」。食卓を共にしている親しい友にまで裏切られる。その苦しみの中で、「わたしをあわれみ、立ち上がらせてください」と神さまに向かって祈りの声をあげていく。それがこの詩篇です。

今回この詩篇を改めて読む中で、私は学生時代の恩師の言葉を思い出しました。木内伸嘉という旧約聖書の先生で、私が在学中最もお世話になった先生の一人です。この3月で大学を退任されたようで、とても寂しく思っています。その先生は、詩篇の読み方について、このようなことをよくおっしゃっていました。「詩篇には正しい者と悪しき者の対比がよく出てくる。そのような詩を読むとき、私たちは無意識に正しい者の視点に立って、共感をしようとする。しかし、私たちは本当に正しい者の側に立てるのだろうか。むしろ神さまの前に、私たちはみな悪しき者なのではないだろうか。」非常に耳の痛い指摘です。「私が信頼した親しい友が、私のパンを食べている者までが、私に向かって、かかとを上げます」。私たちはここにイエスさまの姿を見て、イエスさまは何てかわいそうなんだ、ユダは何て大きな罪を犯したんだと思います。それは間違いではないでしょう。しかし、ここでイエスさまにかかとを上げているのはもしかしたら自分なのではないか、そのような意識をもったことがあるでしょうか。欲に目が眩んで、イエスさまを売るようなことをしているのではないか。忠実な弟子のふりをしていながらも、いざとなればいつでも裏切ることができるよう準備している、そのようなことがないだろうか。「まさか私ではないでしょう」と言いながら、いざ自分の身に危険が降りかかりそうになれば、平気でイエスさまを見捨てて逃げていく。イエスのことなんか知らないとイエスさまに背を向けて走り去っていく、そのようなことが絶対にないと言い切れるだろうか。私たちは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダの内に、自分自身の姿を見出すのです。

 

キリストの愛

弟子たちに裏切られたイエス・キリストはその後、不当な裁判を受け、十字架刑へと向かわれました。裏切りは成功しました。けれども、聖書はイエス・キリストの死を、予想外の裏切りの結果の死としては語りません。18節の脚注にありますが、「裏切る」と訳されていることばは「パラディドミー」というギリシア語でして、直訳すると「引き渡す」という意味になります。ユダはイエスさまを祭司長たちの手に引き渡した。しかし聖書を見ていくと、このことばは後にイエスさまを主語として使われるようになります。週報の「今週のみことば」を見てください。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」(ガラテヤ人への手紙220節)。「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった」、この「与えてくださった」はギリシア語で「パラディドミー」、「引き渡した」ということばです。イエス・キリストは、私たちを愛してくださったがゆえに、私たちのためにご自分を引き渡してくださった。人間の裏切りを承知の上で、自ら十字架に向かってくださった。それこそが聖書の語るキリストの十字架の死です。

今日のマルコの箇所もそうです。12節で「食事ができるようにどこへ行って用意をしましょうか」と尋ねた弟子たちに対して、すでに席が整えられて用意ができているからそこに向かおうとイエスさまは言われました。すべて用意ができていたのです。そして21節では、「人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます」、ご自分が死ななければならないことをイエスさまは知っておられました。その上で、自らの足で十字架に向かっていかれた。なぜか。私たちを愛してくださったからです。神さまを裏切り続けている私たちの罪深さをすべて知った上で、その私たちの罪を背負い、私たちの代わりに罪の罰を受け、罪の赦しをもたらしてくださった。本来は罪ゆえに滅びなければならない私たちを、神の国へと招き入れてくださった。悪意をもってキリストを死に引き渡した私たち、しかしキリストは私たちの悪意を遥かに超える大きな大きな愛をもってご自分を死に引き渡し、私たちのために永遠のいのちを獲得してくださった。ここに、キリストの愛があります。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。キリストの愛ゆえに、私たちは生かされているのです。

このキリストの愛を改めておぼえていきましょう。マルコの福音書はイエスを裏切ったユダの結末を記していませんが、他の福音書を見ると、ユダは後に自らのしたことを後悔し、自らのいのちを絶ったということが書いてあります。ユダはキリストの愛を知ることなしにこの地上を去って行きました。けれども私たちは今一度、キリストの十字架の赦しの前に立っていきたい。十字架の前に立ち、キリストを裏切り、死に引き渡した自分の罪を認め、悔い改めていきたい。そして「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰」を新たにしていきたいと願うのです。キリストの十字架は、今日も私たちの目の前に立っています。

このブログの人気の投稿

マルコ14:27-31「羊飼いイエス」

コロサイ3:1-4「上にあるものを思う」(使徒信条No.7)

マルコ8:11-13「十字架のしるし」