マルコ14:32-42「弱さから祈りへ」

 弱々しいキリストの姿

先週は、イエスさまによるつまずきの予告に対して、「自分たちは決してそんなことをしない!」、自分たちの弱さを決して認めようとしなかった弟子たちの姿を見ました。ただ続く今日の箇所では、そんな弟子たちと対照的なイエス・キリストの姿が描かれています。33節の後半から34節。「イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。』」弟子たちはこんなイエスさまの姿を見るのは初めてだったでしょう。33節前半には、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけが一緒に連れて行かれたとありますが、同じ3人組は以前にも出てきました。マルコの福音書9章に記されている、山の上でイエスさまの姿が変わったという出来事です。イエスさまが目の前で白く輝く衣をまとって、エリヤとモーセが現れて、雲が周りを覆い、「これはわたしの愛する子」という声が天から聞こえてきた。「これぞ神の子の姿だ!」と言わんばかりの出来事でした。ただし今回はどうか。あの時のイエスさまとは比べられないほど弱り果てた神の子の姿があります。ある翻訳は33節の後半から34節をこのように訳しています。「(イエスは)(急に)おびえ出し、おののきながら彼ら(弟子たち)に言われる、「『心がめいって、』『死にたいぐらいだ。』ここをはなれずに、目を覚ましていてくれ」。無教会の塚本虎二という人による翻訳ですが、これは決して誇張ではありません。十分ありえる翻訳です。おびえ出し、おののきながら、「心がめいって死にたいぐらいだ」、弟子たちに言われた。「イエスさまは一体どうしちゃったんだ」。弟子たちからしたらショックだったはずです。

また38節にはこうあります。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」これは「目を覚ましていなさい」と言われたにもかかわらず眠りこけてしまった弟子たちに対するイエスさまのことばです。「霊は燃えていても肉は弱い」、あれだけイエスさまについていくと豪語していたのに、早速眠ってしまっているではないか。リアルな人間の姿があります。

しかし、今回この箇所について調べている中で、興味深い解説に出会いました。その解説によれば、このことばは弟子たちだけではなく、イエスさまご自身にも当てはまるというのです。確かにそうだと思いました。イエスさまの霊は燃えていました。自分は神さまのご計画を全うするために自分の身をささげるのだ!十字架にかかりに行くのだ!霊は熱く燃えていた。しかし、肉は弱かった。イエスさまは恐れを抱いていました。深く悩み、もだえ、悲しみのあまり死ぬほどだった。心が滅入って死にたいぐらいだった。「霊は燃えていても肉は弱い」、イエスさまご自身がまさにその経験のただ中におられたのです。

 

人となった神

ここに私たちは、神のひとり子が人としてこの地上に来てくださったことの意味を思い起こします。キリスト教信仰の中核は何でしょうか。ある人は、イエス・キリストが神であると信じることだと言います。確かにそうです。イエス・キリストは神である、この信仰なくしてキリスト教はあり得ません。私たちの信仰の中核です。ただ、それだけではありません。もう一つ重要なことがあります。それは何か。神がイエスという人になってくださったということです。「人のような存在になってくださった」のでも、「人の皮を被ってくださった」のでもありません。真の人になってくださった。神が人となり、この地上に来てくださった。この信仰なくしても、キリスト教はあり得ません。

神が人となってくださったとはどういうことか。それは、私たちと同じ肉をとってくださったということ、もっと言えば、私たちが抱える弱さをまとってくださったということです。新約聖書のヘブル人への手紙にはこのようなことばがあります。「私たちの大祭司(これはキリストのことです)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように、試みにあわれたのです。」(4:15)神のひとり子、イエス・キリストは罪を除き、すべての点において私たちと同じようになってくださった。私たちと同じ弱さを、試みを、その身をもって経験してくださった。イエスさまが経験された試みとは何でしょうか。それは、神さまのご計画など忘れて、今すぐ十字架の道から逃げ去りたいという誘惑です。だからこそイエスさまは深く悩み、もだえ、悲しみのあまり死ぬほどだった。

私たちはとかくこの点を見逃してしまいがちではないでしょうか。「イエスさまは神なんだから、十字架に向かう道なんかへっちゃらだったでしょ」。神さまが人となってくださったということを頭では分かっていても、どうしてもイエスさまを自分たちとは違う種類の人間として、ワンランク、ツーランク上の上級人間として考えてしまう。しかし聖書が描くイエス・キリストはそうではありません。イエスさまは私たちと同じ人間になってくださった。私たちと全く同じ目線に立ってくださった。罪を除き、すべての点において私たちと同じように試みにあわれた。このイエスさまのお姿を私たちは改めておぼえたいのです。イエスさまは私たちとは遠くかけ離れたところにおられるお方ではありません。私たちが抱える様々な弱さ、悩み、苦しみを理解できないようなお方ではありません。むしろ遠いところ、天から私たちがいるこの地上に来て、私たちが抱える弱さを、悩みを、苦しみを自ら味わってくださった。神であるお方が、人となってくださった。それが私たちの信じるイエス・キリストです。

 

父なる神への信頼

自分たちの弱さを全く自覚していなかった弟子たちと、肉の弱さを深く自覚しておられたイエスさま。ではイエスさま弱さを自覚した上で、何をされたか。父なる神に祈りました。35-36節「それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。そしてこう言われた。『アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。』」弟子たちとは真逆の姿です。弟子たちは、「自分たちはそんなこと決してしない」と、自分たちの弱さを認めようとしません。祈りに向かおうともせず、肉の弱さのままに眠りこけているだけ。しかしイエス・キリストは違いました。イエスさまは弱さも含めた自身のすべてを父なる神さまの前にさらけ出していった。「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」。強がりの「つ」の字もありません。肉の弱さを抱えたありのままの姿で神さまの前に出て行かれた。正直に自分の恐れ、悩み、苦しみを打ち明けられた。なぜそれができたのか。「アバ、父よ」、天の父なる神さまに対する信頼があったからです。「アバ」というのは当時パレスチナ地域で話されていたアラム語で、子どもが父親に親しく呼びかける時のことばです。今の日本語ですと「パパ」のような感じでしょうか。イエスさまは、天のお父さま、いや、天のパパの前では自分を取り繕ったり、無理に強がったりする必要がないことを知っておられました。天のお父さんは自分のすべてを知っておられ、その上でもなお自分のことを愛してくださっている。その確信があるからこそ、自分の悩みを、苦しみを、願いを正直に神さまに打ち明けることができたのです。

ただ、イエスさまの祈りはそこで終わりません。そこからなんと続けたか。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」。自分の願いではなく、天のお父さまの願いが実現することを、神さまのご計画の中で自分が用いられることを願われた。これこそが祈りの真髄です。祈りというのは一般的に、自分の願いを神に届けることだと理解されます。それは間違いではありません。イエスさまも自分の願いを正直に天のお父さまに打ち明けました。ただ、聖書が教える祈りの到達点はそこではありません。聖書が教える祈りの到達点、それは、最終的に神の意志が実現することを願うというところにあります。それは決して、自分の願いを押し殺してということではありません。自分の願いを正直に打ち明けた上で、その自分の願いを超えたところにある神のご計画にこそ最善がある!天のお父さまへの信頼をもって祈るのです。祈りをもって自分が神を動かすのではなく、祈りの内に神の声を聴き、神によって変えられ、神の願いを自分自身の願いとしていく。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」。祈りの真髄をイエスさまは私たちに示してくださっています。

この祈りに到達するのは簡単ではありません。イエスさまご自身も苦闘されました。イエスさま三度同じことばで祈られたとあります。一度の祈りでは悩みは解決されなかった。二度、三度、同じことばで祈らなければならないほど、イエスさま深く悩み、もだえた。この苦しみは、最終的には十字架の上で頂点に達しました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。イエスさまは最後まで苦しみ抜かれた。しかし、それが分かっていながらも、自らの足で前に進んでいかれました。今日の箇所の最後、42節。「立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています」。苦しみの中にあっても、祈りを通して立ち上がっていく。天のお父さまにすがりつきながら、足を踏み出していく。「弱さから祈りへ」。真の信仰者の姿がここにあります。

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