マルコ14:22-26「味わい、見つめる」

 

今日は聖餐礼拝です。3月までは三浦先生が来られる第四主日が基本的に聖餐礼拝でしたが、来月からはそれ以前の形に戻し、基本的に第一主日に聖餐礼拝を行います。ただ4月も第一主日にすると、3月の第四主日から二週連続の聖餐になるということで、少し間を置くために、今月は第三主日の今日を聖餐礼拝としています。そして図らずも、今日の聖書の箇所は聖餐の最も重要な原型である、いわゆる「最後の晩餐」の場面です。私自身、不思議な導きを感じています。

洗礼と聖餐、この二つは一般的に聖なる礼典と書いて「聖礼典」と呼ばれます。キリスト教会が2000年間ずっと大切に受け継いできている儀式です。日本語で「儀式」というとどうしても形式的なイメージが先行してしまいますが、洗礼と聖餐、この二つの聖礼典にはイエス・キリストが私たちにもたらしてくださった福音、恵みのエッセンスが凝縮されています。教会に欠かすことのできない大切な儀式です。聖礼典についてまたは追々お話しできたらと思いますが、今日はその中でも「聖餐」に表されている恵みについて、聖書のみことばに聴いていきましょう。

 

新しい過越

22節冒頭「さて、一同が食事をしているとき。これは何の食事でしょうか。この前の文脈を見ると、この食事は単なる食事ではなく、特別な食事であったことが強調されています。同じページの上の段、12節「種なしパンの祭りの最初の日、すなわち過越の子羊を屠る日、弟子たちはイエスに言った。『過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。』」今日の箇所でもたれているのは「過越の食事」という特別な食事です。ユダヤ人は今でもこの過越の食事を毎年守っていますけれども、この食事は旧約聖書に記されている出エジプトの出来事を記念する食事です。出エジプトというのは、旧約聖書における救いの最大の出来事です。エジプトの地で奴隷として苦しめられていた民を、神さまご自身が力強い御手をもって救い出してくださった!この神さまの救いを毎年特別におぼえ、記念するために過越の食事をもちなさいということが旧約聖書の出エジプト記で命じられています。ですから、イエスさまの時代もすべてのユダヤ人がこの食事を守っていました。今日の箇所に描かれている食事自体は、どの家庭でも行われていたはずです。ただ、一つ大きな違いがありました。それは食事の時に語られたことばです。通常の過越の食事では、家長がパンやぶどう酒などをもちながら、過去に起こった救いの出来事、出エジプトの出来事について集まっている家族に語るということが行われます。しかしイエスさまはここで、過去の救いの出来事については語りませんでした。代わりに何を語ったか。これからご自身を通して起こる新しい救いの出来事について語ったのです。新しい過越の食事。それが私たちが毎月もっている聖餐の本質です。

 

子羊イエス

そこで目を留めたいのは、この新しい過越の食事に欠けているものです。旧約の過越の食事を知っている者であれば、イエスさまが行った新しい過越の食事には決定的なものが一つ足りないということに気づくはずです。それは、子羊のいけにえです。この場では開きませんが、ぜひ後ほどご自分で出エジプト記12章をお読みになってみてください。そこには、出エジプトの際、イスラエルの民は家ごとに子羊のいけにえを用意し、それを屠り、その血を家の門柱と鴨居に塗り、その肉を食べなければならないと書いてあります。なぜか。その夜、神さまの使いがエジプトに裁きを下すために家々を回るけれども、子羊の血が家の門に塗られている家は裁きから守られるからです。子羊のいのちの犠牲によって、身代わりの死によって、イスラエルの民は裁きから守られ、エジプトから救い出された!そのことを記念するために、過越の食事では必ず子羊の肉が食されていました。マルコ1412節に「種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日」とあるのはそのためです。しかし、食事場面を描く今日の箇所で、子羊は出てきません。代わりに何と書かれているか。22節「さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだです。』」イエスさまはパンを裂き、「これはわたしのからだです」と言い、弟子たちにパンを取って食べるよう命じられた。このイエスさまのことばは何を意味しているのか。イエスさまご自身が過越の子羊であるということです。旧約の過越では子羊の肉が身代わりの犠牲として裂かれましたが、新しい過越においては、イエスさまのからだが身代わりの犠牲として裂かれることになる。十字架の出来事です。そしてイエスさまは単にパンを裂かれたのではありません。それを弟子たちに与え、「取りなさい」と言われました。十字架の恵みに与りなさいということです。「本来、あなたたちはその罪深さゆえに神さまの裁きを受けなければいけない存在。けれども、そんなあなたたちを救い出すために、あなたたちの身代わりとして、わたしはこれから十字架にかかりにいく。どうかそのことを覚えてほしい。そしてこのパンを食べることを通して、わたしの十字架の恵みに与ってほしい。神さまの救いを受け取ってほしい」。イエスさまによる救いへの招きがここにあります。

礼拝前にもお話ししましたが、今日の聖餐式から私たちは食パンではなく種なしパンを用いていきます。私から役員会に提案し、承認をいただきました。皆さんにはぜひそこにある意図を知っていただきたいと思います。私が大切にしたいと思っているのは、パンの種類以上に、「裂く」という行為を皆さんの目の前で行うことです。食パンですとどうしても裂く時に潰れてしまいますから、そういう意味でぜひ種なしパンを用いたいと提案をしました。なぜか。パンが裂かれる様子を目で見ることによって、十字架の上でイエスさまのからだが私たちのために裂かれたことを思い起こすためです。ですから、ぜひこの後の聖餐式では、パンが裂かれるところをしっかりと見てください。よく見てください。そしてそこで、罪深い私たちの身代わりとして十字架にかかってくださったイエスさまのことを思い起こしてほしい。「イエスさまの十字架はこの私のためであった。この十字架の恵みに私は与っているのだ」。ぜひ「見る」ということを大切にしてください。

 

杯の意味

次に、23-24節「また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。』」パンがイエスさまのからだであるのに対し、杯、ぶどう酒は「多くの人のために流されるイエスさまの契約の血」である。このイエスさまのことばにも、旧約聖書が深く関係しています。この場では開きませんが、出エジプト記24章です。そこでは神さまと出エジプトを果たしたイスラエルの民が契約を結ぶ場面が描かれています。イスラエルの民はこれから神の民、神の家族として歩んでいくという契約です。そこで何が行われたか。まずいけにえが屠られ、その血が祭壇と民の両方に振りかけられました。罪のきよめを表す行為です。イスラエルの民が神の家族に加えられるためには、まずその罪がきよめられなければなりませんでした。そこで、いけにえの血、いのちの犠牲をもって罪のきよめがなされました。そして、契約の仲介者であるモーセがこう宣言しました。「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である」。「これからあなたたちは神の家族の一員として歩んでいくのだ」。振りかけられたいけにえの血は、罪のきよめと同時に、神の家族の契約のしるし、保証としての役割を担ったのです。

この旧約聖書の出来事を踏まえてはじめて、私たちはイエスさまのことばの意味を知ることができます。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です」。十字架の上で流されるイエスさまの血です。いけにえの血によって罪がきよめられたイスラエルの民。私たちはそれ以上の完全な罪のきよめを、完全ないけにえであるイエスさまの血に与ることによっていただくのです。そして「契約の血」とあるように、イエスさまの血は私たちが神の家族に入れられていることの確かなしるしであり、保証です。この杯を飲む度に、私たちの罪はすでにきよめられていること、すでに神の家族の一員とされていることを確信する!

ただ、それだけではありません。キリストの血を表す杯は、十字架という過去の出来事を指し示すだけでなく、将来への希望をも指し示しています。それが続く25節です。「まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません」。「最後の晩餐」と言われるように、この食事は十字架にかかる前、イエスさまと弟子たちがともに食卓を囲む最後の食事になりました。しかし、これで終わりではない!来るべき神の国で、再び同じ食卓を囲むときが必ずやってくる!イエスさまはそう約束しました。

これは私たちに対する約束でもあります。聖餐というのは、過去の十字架の出来事を思い起こすだけの儀式ではありません。聖餐は、将来の希望を表す儀式でもあります。やがて完成した神の国で、イエスさまを中心として食卓を囲むときが必ずやってくる。今の時の聖餐はその前味です。神の国での祝宴のとき、私たちはここにいる神の家族の皆さんはもちろん、すでに召された愛する兄弟姉妹の皆さんと、そして時代と空間を超えた神の家族の方々とともに食卓を囲み、神さまと顔と顔を合わせて語り合う、豊かな交わりを経験することになる。尽きることのない永遠の喜びがそこにはある。聖餐の度に私たちはその希望を見つめ、確信するのです。

 

恵みを味わう

今日この場には、まだ洗礼を受けておられない方もおられます。この聖餐はイエス・キリストを信じ、洗礼を受け、神さまとの契約に入れられた者たちの儀式ですから、まだ洗礼を受けていない方々は、今日この場で聖餐にあずかることはできません。居心地が悪く感じられるかもしれません。けれども、聖餐は決して洗礼を受けていない方々を排除するための儀式ではないということはご理解ください。むしろ逆です。もし洗礼を受けていない方を排除するための儀式であれば、教会員だけが集まっている時にすればいい話です。しかしそうではなく、私たちは洗礼を受けていない方々もおられるこの日曜の礼拝の場で聖餐を行います。なぜか。聖餐に表れる神さまの恵みがどれほど素晴らしいものであるかを知ってほしいからです。そして、ぜひそこに加わっていただきたいからです。聖餐というのは人々を排除するための食事ではなく、人々を招き入れるための食事です。ぜひそのことをご理解いただいた上で、今日この後、パンが裂かれ、杯が配られる様子をよくご覧になってください。そして、この聖餐にあずかりたいという方がいらっしゃれば、ぜひともに洗礼へと歩みを進めていきましょう。いつでもお声がけください。

そして、この後聖餐にあずかろうとしている方々。最後に、週報に印刷した「今週のみことば」をご覧ください。招きのことばでもお読みした詩篇348節のみことばです。「味わい 見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」。聖餐式ではぜひこの感覚を大切にしてください。神さまのことばは、目には見えません。その目に見えない神のことばを私たちは信仰をもって受け入れるわけですが、やはり目に見えないものを確信するということには難しさも伴います。神さまの恵みが分からなくなる、そんなときもあるかもしれません。けれども、「そんな自分は聖餐にあずかる資格などない」と思うのではなく、そんなときこそ聖餐にあずかることを大切にしてください。この聖餐は、「目に見えない神さまの恵みの目に見えるしるし」です。たとえ神さまの恵みが分からなくなっても、イエスさまの十字架が分からなくなっても、私たちはこの聖餐式を通してキリストのからだを味わい、キリストの血を見つめることによって、神さまの恵みを思い起こしていくのです。私たちがどれほど豊かな恵みの中に入れられているのかを思い起こしていく。ことばでは言い表すことのできない豊かな恵みが、福音のエッセンスがそこに凝縮されています。ぜひこの福音の恵みを、頭だけではなく、味覚、視覚、そして五感のすべてを用いて感じてください。そしてぜひ毎月の聖餐式に期待を大きな期待をもって臨んでください。礼拝に来て、週報を見て、「あ、そういえば今日は聖餐礼拝だった」と思うのではなく、大きな期待をもって聖餐礼拝に集っていただきたい。私も、聖餐の豊かな恵みをできる限りお伝えできるように、精一杯司式をしていきます。ぜひ、そこで語られることばをよく聴き、そこでなされる行為をよく見てください。

味わい 見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」。今日も神さまの恵みにともにあずかっていきましょう。

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