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コロサイ3:1-4「上にあるものを思う」(使徒信条No.7)

  序 今日は 9 月の第一主日ですので、年間聖句と年間目標に関連するみことばにともに聴いていきましょう。はじめに年間聖句をともに読みましょう。「 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです 」(ローマ人への手紙 10 章 9-10 節)。この聖句、そして「信仰告白に生きる教会」という目標から、私たちが毎月告白している使徒信条に関連するみことばを順に学んでいます。 前回は「十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり」の部分の中でも特に「よみにくだり」という告白について、 1 ペテロのみことばに聴きました。今日はその続き、「三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして、全能の父である神の右に座しておられます」という部分を一気に扱います。ただこちらも前回と同様、よみがえり(復活)についてはここ最近学ぶ機会が多くありましたので、今日は特に最後の「全能の父である神の右に座しておられます」という告白に焦点を当てながら、コロサイ人への手紙のみことばにともに聴いていきましょう。   全能の父の右の座 「全能の父である神の右に座しておられます」、これはキリストの今現在のお働きに関する告白です。「聖霊によってやどり」から「天にのぼられました」まではすべてキリストの過去のお働きについての告白でした。 2000 年前に完了したお働きです。では、キリストは復活し、天にのぼられた後、今現在何をしておられるのか。その答えが「全能の父である神の右に座しておられる」です。 「右に座っているから何なんだ」と思われる方もおられるかもしれませんが、大事なのはそこに込められている象徴的な意味です。「右」というのは聖書の中で「力」を象徴する表現としてよく出てきます。神さまの偉大な力のことを「あなたの右の手」と表現している箇所も多くあります。またそれとも関連して、世界では古くから権力者から見て右が上位、左が下位という概念が存在しています。実は日本は例外で、日本では古くから左の方が上とされているようですが、世界的には右が上というのが常識になっています。ですからイエスさまが天にのぼられた後、神の右の座に着かれたというのは、父なる神さまと王座を共有しな

マルコ16:1-8「失敗続きの歩みでも」

  不思議なエンディング? 3 年以上読み進めてきたマルコの福音書も、いよいよ最後の章に入りました。予定では、今日含めてあと 2 回でこの章を読み終える予定です。私自身、説教者としては初めて一つの書を丸々説教し終えることになりますので、感慨深い思いでいます。 ただ、このマルコの福音書の最後というのは実は大きな問題を孕んでいる箇所でもあります。パッと見てお気づきになられている方も多いと思いますが、章の後半部分を見ると、 9 節以降は少し間を空けて長い括弧の中に入れられています。またその手前にも 5 行ほど括弧の中に入れられている段落があります。詳しいことはこの箇所を扱うマルコの福音書の次回の説教でお話しできたらと思いますが、簡単に言えば、この括弧に入れられている箇所はほぼ間違いなくオリジナルのマルコの福音書には含まれていなかったと考えられています。印刷技術の発明は 15 世紀ですから、それより前の聖書は基本的に人の手で書き写されることによって代々受け継がれてきました。そのプロセスのどこかで、 2 世紀前半という説が有力なようですが、この括弧の箇所が書き加えられた可能性が非常に高いということです。ですから新改訳聖書ではこの箇所を括弧の中に入れて区別しているわけです。 ではなぜそんなことが起こったのか。その理由は 8 節の内容にあります。 8 節「 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである 」。現状判明しているマルコの福音書の最後はこの 8 節で終わります。どうでしょうか。「こんな終わり方でいいのか」と思われる方も多いのではないでしょうか。昔の人々もそう思ったわけです。そこで、当時すでに存在していたマタイの福音書やルカの福音書などを参考にしながら、最後の部分を書き加えていったのではないかと考えられています。 私たちからすると、聖書に書き加えるというのはとんでもない暴挙であるように感じます。けれどももしかしたらそこには理由があったのかもしれません。実際、学者の中には、オリジナルのマルコの福音書には 8 節以降の続きがあったはずだという意見もあります。マルコの中には「わたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」( 14:28 )というイエスさまの約束がありますから

1ペテロ3:13-22「キリストの勝利宣言」(使徒信条No.6)

  序 今日は月に 1 回の、年間聖句と年間目標に関連するみことばにともに聴いていく礼拝です。はじめに年間聖句をともに読みましょう。「 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです 」(ローマ人への手紙 10 章 9-10 節)。この聖句、そして「信仰告白に生きる教会」という目標から、教会の信仰告白である使徒信条に関連するみことばを順に学んでいます。 前回は「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」という告白を扱いました。今日はその後、「十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり」の部分を一気に扱います。ただ、十字架でのイエスさまの死、そして葬りについては普段のマルコの福音書でこの 1 ヶ月間学んできましたので、今日は特に「よみにくだり」という告白に焦点を当てていきます。   「よみ」? 「よみにくだり」、これは使徒信条の中でも理解が難しい告白の一つかもしれません。まず、「よみ」とは何でしょうか。これはよくある誤解なのですが、「よみ」はいわゆる「地獄」とは別物です。いわゆる「地獄」ということばが指している最終的なさばきがある場所は、新約聖書の中では「ゲヘナ」と呼ばれています。一方、「よみ」というのは聖書の中で一般的に、死者がいる場所として言及されています。「死者の国」と言うこともできるでしょうか。ヘブル語では「シェオル」、ギリシア語では「ハデス」と呼ばれます。ただこの「よみ」が具体的にどういう場所であるかは聖書の中であまり詳しく語られていません。最低限言えるのは、「よみ」は本来神から遠く離れた領域であるということ、そしてそこには死の力が満ちているということです。 では、その「よみ」にイエスさまが降ったというのはどういうことなのでしょうか。そこで開いているのが今日の 1 ペテロの箇所です。この箇所には直接「よみ」ということばは出てきませんが、この箇所は使徒信条の「よみにくだり」という告白との関連でよく読まれてきたという歴史があります。ただ同時に、この箇所は多くの誤解、誤った理解が存在する箇所でもあります。そういった誤解は多くの場合、 1 節か 2 節だけを切り取って読むときに起こります。今日の箇所の場合、 19-20 節だけ

1コリント15:50-57「死に勝利した主」

序 おはようございます。改めて、本日は召天者記念礼拝にようこそお越しくださいました。今日もみなさんには港南福音教会の召天者名簿をお配りしています。この方々のことをおぼえながら、ともにいのちの主権者なる神さまを礼拝できることをうれしく思っております。 先週、この名簿にお一人の名前が加えられました。昨年この教会に転入会されたKさんです。Kさんは 10 年近く洞爺温泉病院で療養生活を続けてこられましたが、先週月曜日、 7 月 31 日の夜、この地上での生涯を走り終え、天の神さまのもとへ召されていきました。 81 歳でした。先週の木曜日に前夜式、金曜日に葬式が行われ、今日はご遺族の皆さまもこの礼拝に来られています。ご遺族の皆さまに主の慰めが豊かに注がれるようお祈りしています。   死を超える救い 今日は先ほどお読みした聖書のことばから、キリスト教、聖書の死生観についてお話しします。先日、 NHK 出版から出ている『宗教のきほん ­ :なぜ「救い」を求めるのか』という本を読みました。今年の春に出たばかりの一般向けの書籍で、島薗進という宗教学者が書いた本です。この本では、様々な宗教の中でも明確な「救い」の教えをもつ宗教(「救済宗教」と呼ばれます)における「救い」の概念について、比較宗教学の立場から様々な考察がなされています。扱われているのは主にキリスト教、イスラム教、仏教の三つです。島薗先生はそういった救済宗教が掲げる「救い」の教えにはいくつかの共通点があると言います。その中の一つは、「死を超える」という教えです。死というのは世界中すべての人が例外なく経験する出来事です。また愛する人の死というのは、この世界の悲しみ、苦しみ、痛みの頂点であると言うこともできるでしょう。だからこそ宗教は「死を超える救い」を語り続けてきた。 では聖書はその「死を超える救い」について何を語っているのでしょうか。聖書の一番初め、創世記を読むと、神が造ったこの世界には元々死は存在しなかったと書かれています。神はこの世界を非常に良い世界として創造した。そこに死が入り込む余地はありませんでした。けれども、あることがきっかけでこの世界に死が入り込みました。それが人間の「罪」です。罪というのは簡単に言うと、この世界を造られた神から離れて神に反逆すること、または神を無視して自我に生きることです。初めの人、アダムは蛇

マルコ15:40-47「葬られたキリスト」

証人としての女性たち 今日の箇所でまず目に留まるのは女性たちの存在です。 40-41 節「 女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上ってきた女たちがたくさんいた 」。マルコの福音書の中で、イエスさまに付き従う女性たちの一団の存在が明かされるのはここが初めてです。彼女たちは「弟子」とまでは言われていませんが、「イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった」とありますから、ガリラヤ時代からずっとイエスさまと行動をともにし、陰ながらイエスさまを支え続けていたのでした。 そんな彼女たちは十字架を「遠くから見ていた」とあります。愛するイエスさまが十字架の上で孤独に息絶えるのを遠くから見守ることしかできなかった。自分たちの無力さを感じていたことでしょう。けれども、それでも彼女たちはその様子をしっかりと見ていました。目も当てられないほどの悲惨なイエスさまのお姿。しかしそれでも遠くから「見ていた」。 ここには、男性の弟子たちとの対比が描かれています。当時は今以上に男性中心の社会です。イエスさまの十二弟子もみな男性でした。彼らがいつも前に出ていた。しかしいざイエスさまが十字架にかかる時、彼らはどこにいたか。みなイエスさまを見捨てて逃げていました。イエスさまが十字架の上で息絶える時、そこには誰もいなかった。一方、普段は陰に隠れて、マルコの福音書の中でも一切言及されることのなかった女性たちは、最後までイエスさまに従おうとした。 先ほど「見ていた」ということばを少し強調して言いましたが、このことばは 47 節にももう一度出てきます。「 マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められるか、よく見ていた 」。この「よく見ていた」は 40 節の「見ていた」と同じことばで、単に「見る」という以上に、「注意深く観察する」という意味をもったことばが使われています。これは何を意味しているか。彼女たちはイエスさまの死と葬りの「目撃者、証人」となったということです。いつも中心にいた十二弟子ではなく、女性たちこそがイエスさまの死と葬り、そしてこの後 16 章に出てくる復活の第一の証人となった!

マルコ15:33-39「この方こそ神の子」

  序 「 エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ 」、「 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか 」。マルコの福音書に記されたイエスさまの最後のことばです。衝撃的な最後です。他の福音書を見ると、もっと穏やかなイエスさまのことばが記されています。ルカの福音書では「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」。ヨハネの福音書では「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」、「わたしは渇く」、そして「完了した」。これぞイエスさまの最後のことばにふさわしいと思えるようなことばが記されています。それに比べてマルコの福音書はどうか。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。「イエスさまのこんな悲痛な叫びなんて聞きたくない!」「こんなイエスさまのお姿なんて見たくない!」そのように感じる方もおられるのではないでしょうか。一体なぜイエスさまはこんな悲痛な叫び声をあげたのか。なぜマルコの福音書は十字架上のイエスさまのことばとして、この衝撃的なことばだけを記したのか。なぜルカやヨハネのようにもっと穏やかなイエスさまのお姿を残さなかったのか。   神なき世界に来られた神の子 「 エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ 」。これは旧約聖書の詩篇 22 篇 1 節のことばです。ともに開きましょう。詩篇 22 篇 1 節(旧 952 )「 わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか 」。この箇所を元のヘブル語で読むと「エリ、エリ、ラマ、アザブタニ」となります。マルコの福音書のイエスさまのことばと少し違うことに気づかれたでしょうか。実はイエスさまが口にされたのは、先ほどお読みしたヘブル語の原文を、当時民衆の間で一般的に話されていたアラム語という言語にしたものでした。イエスさまは単に十字架の上でこの詩篇 22 篇のことばを「引用」したのではなく、いつも話しているアラム語を用いて、ご自身の奥底にあるたましいの声を、この詩篇のことばにのせて叫ばれたのでした。 この詩篇 22 篇、よく読んでいくと、十字架の出来事に重なる描写がたくさん出てきます。 6-8 節「 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑みの的です

マルコ15:16-32 (II) 「ともに十字架を負う」

序 先週はこの箇所から、ここに神の国の王としてのキリストのお姿が現されていること、そのキリストが王として治めておられる神の国に今私たちは生かされていることを学びました。その中で、マルコの福音書 10 章 45 節「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」という箇所もともに味わいました。 これまでも何度か申し上げて来ましたが、マルコの福音書は全体が十字架に向かっていくように構成されています。十字架の出来事をクライマックス、山の頂上として、あらゆる出来事がそこに向かっていくということです。ですから今日の十字架の箇所は単体でももちろん十分味わい深い箇所ですけれども、福音書でこれまで何が語られてきたかということを踏まえて、マルコ全体の文脈の中で読んでいくと、さらに深く十字架の出来事を味わうことができるようになります。その観点から、今日は二つのことに目を留めていきたいと思います。一つ目はイエスさまの両脇で十字架につけられた二人の強盗について、そして二つ目はイエスさまの十字架を無理やり背負わされたクレネ人シモンについてです。   二人の強盗 まずは二人の強盗についてです。 27 節「 彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた 」。ここで「強盗」と訳されていることばは「革命家」とも訳すことのできることばです。十字架というのは通常ローマ帝国への反逆者に科された刑でしたので、おそらくこの二人もローマ帝国に対する革命を企てていた過激派グループのメンバーだったと考えられます。ローマ兵からしたら、せっかく「ユダヤ人の王」を自称するイエスという男を十字架にかけるなら、その両脇で革命家二人も一緒に処分してしまおうという魂胆だったのかもしれません。 いずれにせよ、ここでマルコは「二人の強盗をイエスの両脇で十字架につけた」と書けばいいものを、わざわざ「一人は右に、一人は左に」という書き方をしています。なぜマルコはこんな書き方をしたのか。そこで思い起こされるのは、マルコ 10 章での出来事です。ともに開きましょう。マルコの福音書 10 章 35-40 節(新 89 )。「 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。『先生。私たちが願うことをかなえていただきたいの