1コリント15:50-57「死に勝利した主」

おはようございます。改めて、本日は召天者記念礼拝にようこそお越しくださいました。今日もみなさんには港南福音教会の召天者名簿をお配りしています。この方々のことをおぼえながら、ともにいのちの主権者なる神さまを礼拝できることをうれしく思っております。

先週、この名簿にお一人の名前が加えられました。昨年この教会に転入会されたKさんです。Kさんは10年近く洞爺温泉病院で療養生活を続けてこられましたが、先週月曜日、731日の夜、この地上での生涯を走り終え、天の神さまのもとへ召されていきました。81歳でした。先週の木曜日に前夜式、金曜日に葬式が行われ、今日はご遺族の皆さまもこの礼拝に来られています。ご遺族の皆さまに主の慰めが豊かに注がれるようお祈りしています。

 

死を超える救い

今日は先ほどお読みした聖書のことばから、キリスト教、聖書の死生観についてお話しします。先日、NHK出版から出ている『宗教のきほん­:なぜ「救い」を求めるのか』という本を読みました。今年の春に出たばかりの一般向けの書籍で、島薗進という宗教学者が書いた本です。この本では、様々な宗教の中でも明確な「救い」の教えをもつ宗教(「救済宗教」と呼ばれます)における「救い」の概念について、比較宗教学の立場から様々な考察がなされています。扱われているのは主にキリスト教、イスラム教、仏教の三つです。島薗先生はそういった救済宗教が掲げる「救い」の教えにはいくつかの共通点があると言います。その中の一つは、「死を超える」という教えです。死というのは世界中すべての人が例外なく経験する出来事です。また愛する人の死というのは、この世界の悲しみ、苦しみ、痛みの頂点であると言うこともできるでしょう。だからこそ宗教は「死を超える救い」を語り続けてきた。

では聖書はその「死を超える救い」について何を語っているのでしょうか。聖書の一番初め、創世記を読むと、神が造ったこの世界には元々死は存在しなかったと書かれています。神はこの世界を非常に良い世界として創造した。そこに死が入り込む余地はありませんでした。けれども、あることがきっかけでこの世界に死が入り込みました。それが人間の「罪」です。罪というのは簡単に言うと、この世界を造られた神から離れて神に反逆すること、または神を無視して自我に生きることです。初めの人、アダムは蛇にそそのかされ、神から食べてはならないと言われていた善悪の知識の木の実を食べてしまった。神への反逆行為です。人は神ではなく自分自身の声に従って生きることを選び取り、自ら神のもとを離れていってしまった。その結果もたらされたのが「死」です。なぜか。すべてのいのちの源である神から離れてしまったからです。いのちの源である神から離れて生きるということは必然的に、その先に死が待っていることを意味します。そのようにして、初めの人、人間の代表であったアダムが罪を犯したことによって、死がこの世界に入り込み、死がこの世界を支配するようになった。聖書はそのようにこの世界の現実を見ています。

 

イエス・キリストの復活

しかし、その現実に対する解決がもたらされた!それを語るのが先ほどお読みした新約聖書コリント人への手紙第一の15章です。誰が解決をもたらしてくれたのか。イエス・キリストです。イエス・キリストが来られるまで、人は誰も死に打ち勝つことはできませんでした。人の目から見てどんなに立派に生きた人でも、死の支配を打ち破ることはできませんでした。それほどまでに人は神から遠く離れてしまっていた。けれどもそんな私たちを何としてでも死の支配から救い出したいと願った神は、ご自身の独り子であるイエス・キリストを、私たちと同じ人としてこの世界に送ってくださいました。神から遠く離れ、死に支配されていた私たち人間を救い出すために、神の側から私たち人間のもとに来てくださった!

そしてイエス・キリストは人として十字架にかかり、一度は死なれました。すべての人と同じように、死を経験してくださいました。しかし、そこで終わりませんでした。聖書は、イエス・キリストは十字架の上で死なれた後、三日目によみがえった、復活したと語っています。これは単に生き返ったということではありません。それまで人が誰も打ち破ることのできなかった死の支配を打ち破ってくださったということです。初めの人、人類の代表であったアダムの罪によってこの世界にもたらされた死の力。イエス・キリストはその死の力に、第二のアダムとして、新たな人類の代表として戦いを挑み、打ち勝ってくださった!それがイエス・キリストの復活です。

 

完全な勝利の約束

けれどもここで疑問が湧いてきます。イエス・キリストが第二のアダムとして、新たな人類の代表として死の支配を打ち破ってくださったなら、人はいつまで死を経験しなければならないのでしょうか。死の悲しみはいつになったらなくなるのでしょうか。それに答えているのが今日の聖書の箇所です。

52節にこうあります。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」。「終わりのラッパ」、不思議な表現がありますが、これはイエス・キリストがこの世界に再び来てくださる時のことを表しています。「ラッパ」というのはファンファーレのような意味合いです。復活し、死の支配に打ち勝ったイエス・キリストは、やがてご自分の勝利を全世界に告げ知らせるために、ファンファーレとともに凱旋される。

その時、イエス・キリストがもたらした勝利がついに全世界で実現します。53節「この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです」。「朽ちるべきもの」、「死ぬべきもの」、これは死に支配された今の私たちのからだのことです。しかしイエス・キリストがこの世界に凱旋されるとき、私たちは「朽ちないもの」、「死なないもの」を必ず着ることになる。イエス・キリストが十字架の後、三日目に新しいからだをもってよみがえられたように、キリストを信じ、神のもとに立ち返った者は、やがてキリストの勝利に完全にあずかり、新しいからだをもってよみがえることになる。キリストとともに死の支配に完全に勝利することが約束されている!

54-55節はその約束を高らかに語っています。「そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。『死は勝利にのみこまれた。』『死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。』」死に敗北し続けきた私たち。抗うことのできない死の力の前に、ただ涙を流すしかできなかった私たち。しかしその私たちが、「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか」と高らかに勝利を宣言することができるようになる。もはや死を恐れる必要がなくなる。それを57節はこのようにまとめます。「しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」。

これが、聖書の語る「救い」の大切な一つの姿です。イエス・キリストによって、私たちは死に打ち勝つことができる。勝利が与えられている。だからこそ、教会は人の死を取り扱うのです。葬儀は決して教会が片手間に行うことではありません。葬儀の司式は決して牧師の副業ではありません。教会の、牧師の大切な務めです。死を超える救いを本気で信じ、死を超える希望を本気で語るのが教会の、牧師の務めだからです。この召天者記念礼拝もそうです。この礼拝は、教会にとって年に1回のとても大切な日です。ここで私たちは、ご遺族の皆さまとともに、今なお死が存在しているこの世界の現実の悲しみを、痛みを、苦しみを正面から見つめ、受け止めた上で、キリストにあって勝利が約束されていることを確信していくのです。時代が変わろうとも決して変わることのない希望を語り続けていく!そのような礼拝をこれからも毎年もっていきたいと願います。死に勝利された私たちの主イエス・キリストは、今日も私たちとともにいてくださいます。

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