1ペテロ3:13-22「キリストの勝利宣言」(使徒信条No.6)

 

今日は月に1回の、年間聖句と年間目標に関連するみことばにともに聴いていく礼拝です。はじめに年間聖句をともに読みましょう。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ人への手紙109-10節)。この聖句、そして「信仰告白に生きる教会」という目標から、教会の信仰告白である使徒信条に関連するみことばを順に学んでいます。

前回は「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」という告白を扱いました。今日はその後、「十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり」の部分を一気に扱います。ただ、十字架でのイエスさまの死、そして葬りについては普段のマルコの福音書でこの1ヶ月間学んできましたので、今日は特に「よみにくだり」という告白に焦点を当てていきます。

 

「よみ」?

「よみにくだり」、これは使徒信条の中でも理解が難しい告白の一つかもしれません。まず、「よみ」とは何でしょうか。これはよくある誤解なのですが、「よみ」はいわゆる「地獄」とは別物です。いわゆる「地獄」ということばが指している最終的なさばきがある場所は、新約聖書の中では「ゲヘナ」と呼ばれています。一方、「よみ」というのは聖書の中で一般的に、死者がいる場所として言及されています。「死者の国」と言うこともできるでしょうか。ヘブル語では「シェオル」、ギリシア語では「ハデス」と呼ばれます。ただこの「よみ」が具体的にどういう場所であるかは聖書の中であまり詳しく語られていません。最低限言えるのは、「よみ」は本来神から遠く離れた領域であるということ、そしてそこには死の力が満ちているということです。

では、その「よみ」にイエスさまが降ったというのはどういうことなのでしょうか。そこで開いているのが今日の1ペテロの箇所です。この箇所には直接「よみ」ということばは出てきませんが、この箇所は使徒信条の「よみにくだり」という告白との関連でよく読まれてきたという歴史があります。ただ同時に、この箇所は多くの誤解、誤った理解が存在する箇所でもあります。そういった誤解は多くの場合、1節か2節だけを切り取って読むときに起こります。今日の箇所の場合、19-20節だけを切り取ることによって、多くの誤った解釈が生まれてきました。そのことについてはまた後ほど触れたいと思います。ただそういった理由から、今日は13-22節という少し長い箇所を読んでいただきました。聖書を正しく解釈するためには、文脈の中で読んでいくことが必要不可欠だからです。そのため今日は13-22節のすべての節を詳しく見ることはせずに、文脈を捉えながら、特に18節以降に焦点を当ててともにみことばに聴いていきたいと思います。

 

キリストも一度

まず、この箇所の背景にあるのは、キリスト者に対する迫害です。この手紙が書かれた当時はまだローマ帝国レベルでの迫害はありませんでしたが、地方レベルでの迫害は各地で起こっていました。その中で、殉教、信仰ゆえに命を落とすまでの危険に直面しているキリスト者も多くいました。そういったキリスト者たちに対する様々な勧告、アドバイスが語られているのがこのペテロの手紙第一です。14節を見ると「人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません」。15節には「だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」。17節には「神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです」。迫害の中にあっても善を行い続けるようペテロは勧めています。

ただ、それは決して簡単なことではありません。「いったいいつまでこんな迫害に耐えなければいけないんだ」、人々は思うでしょう。そこで、ペテロはイエス・キリストを指し示していきます。18節前半「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです」。「キリストも一度」。あなたたちだけではなく、キリストもこの世界の罪のために苦しみ受けられた。しかもそれは、正しくない者たちのための身代わりの苦しみであった。キリストの苦しみの大きさを今一度見るようにペテロは促します。

そして18節後半「それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした」。「肉において」、これは「肉によって」とも訳せることばです。「肉によって死に渡された」。肉に支配された罪人たちの手によって、キリストは十字架の上で死なれた、ということ。しかし、そこで終わりませんでした。「霊においては生かされて」。これはもちろん幽霊として生き続けたということではありません。これは脚注にもありますが、「御霊によって生かされて」とも訳すことのできることばです。キリストは罪人たちの手によって死に渡された。しかしその後、御霊によって、神の力によって、新しいからだをもってよみがえられた、復活されたということです。

 

悪しき霊たち

このキリストの死と復活というテーマのもとに19節以降を読んでいくことが大事です。19-20節「その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました」。ここが問題の箇所です。どういう問題があるか。ある人たちはこの箇所から、キリストを知らずに死んだ人々の救いの可能性について語ります。ノアの時代に従わなかった霊たち、これはキリストを知らずにこの地上を去り、今はよみにいる人々のことを指している。キリストがよみに降ったというのは、そういう人々のところに行って福音宣教をしたということなのだ。だからキリストを知らずに死んだ人々にもまだチャンスはある。そういった人々がよみでキリストを信じることができるよう祈ろう。そういった解釈が存在します。これは一般的に「セカンドチャンス論」と呼ばれる考え方です。どこかで耳にしたことがある方もおられるかもしれません。日本でもこの「セカンドチャンス論」を強く主張する人たちはいます。

そういった解釈はとても魅力的かもしれません。「イエスさまを知らずに死んだ私の先祖はどうなんだろう」、多くの人が抱くそういった疑問に明確な答えを提供することができます。しかし当然のことながら、私たちは聖書が語っている以上のことを語ることはできません。私たちが聖書に何を語らせたいかではなく、神さまが聖書を通して何を語っておられるのかを追い求めていかなければなりません。

ではこの19-20節はいったい何を語っているのでしょうか。まず、「捕らわれている霊たち」ですが、新約聖書の中でこの「霊」ということばが死者に対して使われることはほとんどありません。あるとしても、そうと分かるようにはっきりと書かれています。ですから新約聖書全体を踏まえて考えるとき、この「捕らわれている霊たち」というのは、人々を神への不従順へと向かわせる悪しき霊たちのことを指していると思われます。悪の力と言うこともできるでしょう。そしてここではその代表として、ノアの時代に働いた悪しき霊たち、悪の力に言及されています。

なぜ急にノアの時代が出てくるのかと私たちは思いますけれども、実は当時の人々の間では、ノアの時代の不従順な霊、悪しき霊たちに関するよく知られた伝承があったということが分かっています。第一エノクと呼ばれている書です。実際、新約聖書のユダの手紙では、そのエノク書からの引用がなされているという事実もあります。ですから当時の人々にとっては、ノアの時代の悪しき霊たちが捕らえられているというのはよく知られたエピソードだったわけです。

 

勝利の宣言

では、御霊の力によって復活したキリストは、その霊たちのところに行って何を宣言されたのか。この「宣言する」ということばは確かに「福音を宣べ伝える」というときにも使われることばです。しかしここではどうか。そこで鍵になるのが、やはり文脈です。次のページの22節をご覧ください。こうあります。「イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです」。十字架と復活によって悪に勝利したイエスさまは、この世界のあらゆる悪の勢力をご自身に服従させた、征服したということがここで言われています。この文脈を踏まえて19節に戻るとどうなるか。19節の「宣言」というのは、「勝利の宣言」を意味していることになります。これまで我が物顔でこの世界を支配し、人々を苦しめてきた悪しき霊たち。これは「サタン」とも言い換えられるでしょうし、先週お話しした「死の力」とも言い換えられるでしょう。しかし、十字架と復活を通して悪の力を、死の力を打ち破ったイエス・キリストは、悪しき霊たちのところに行って勝利を宣言された。「悪しき霊たちよ。これからはお前たちではなくわたしがこの世界を神の愛と正義をもって治めていく!」と宣言された。それがこの19-20節が語っていることです。この箇所はセカンドチャンスの可能性ではなく、悪しき霊、サタン、死の力、そしてよみに対するキリストの完全な勝利を語っている!

そして21節には、「この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです」とあります。ノアとその家族が箱舟に乗って水を通って救われたように、私たちはバプテスマを、洗礼を通してキリストの復活に、救いに、勝利にあずかっていく。だから、迫害の中にあっても決して絶望してはいけない。死を恐れる必要はない。バプテスマを受け、キリストと一つにされたあなたがたには、キリストの勝利が約束されている!キリストのように、御霊によって復活することが約束されている!迫害の中、死の危険に瀕しているキリスト者たちに向かって、ペテロは大胆にキリストにある希望を語っているのです。

使徒信条の「よみにくだり」という告白もそうです。「よみ」とは死者の国、死の力が満ちている領域だということをはじめに申し上げました。私たちは本来そのよみをただ恐れることしかできませんでした。死を考えるとただ絶望するしかありませんでした。しかし、イエスさまは十字架の上で死んで葬られたイエス・キリストは、よみという死の力が満ちている領域にまで降って来てくださった。そしてよみを支配している死の力に対して、「これからはわたしがここを治めていく!」と勝利を宣言してくださった。だからこそ使徒信条は「よみにくだり」に続いて、「三日目に死人のうちからよみがえり」、キリストの勝利の復活を告白するのです。そして私たちはその信仰を告白しながら、バプテスマを通してキリストと一つにされた私たちも、復活の勝利に必ずあずかっていくことを確信していく。「死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり」。キリストが歩まれたこの道を私たちも歩んでいくのです。

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