ルカ1:26-38「恵みに応える」(使徒信条 No.4)

 

今日は6月の第一主日ということで、年間聖句と年間目標に関するみことばにともに聴いていきます。はじめに年間聖句をともに読みましょう。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです」(ローマ人への手紙109-10節)。この聖句から「信仰告白に生きる教会」という目標を立て、私たちの教会が毎月礼拝の中で告白している使徒信条を順番に学んでいます。

今日はその4回目、「主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ」という信仰の告白を意識しながら、ルカの福音書のいわゆる「受胎告知」の場面のみことばに聴いていきます。ここに記されている出来事はよく「処女降誕」と呼ばれ、使徒信条の中でも信じるのが最も難しい告白の一つと言われることもあります。クリスチャンの中にはこの出来事を科学的に説明しようと試みている人々もいるようですが、上手くいっていないというのが正直なところです。科学では説明できないことがここでは起きている。今日の37節には「神にとって不可能なことは何もありません」とありますが、最終的には神の全能の力を信じるかどうか、そこに懸かっているのだと思います。

 

創造主なる神の御業

ですから私たちにできるのは、この出来事が起こったメカニズムを解明することではなく、この出来事の意味を読み解くことです。そこで今日特に注目したいのは35節です。「御使いは彼女に答えた。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。』」イエス・キリストはどのようにしてこの地上にお生まれになったのか。天から降りてきて、赤ん坊に変身して、マリアのおなかの中に忍び込んだとは書いてありません。聖霊が臨み、いと高き方の力、神の力がマリアをおおい、マリアは男の子をみごもるとあります。聖霊の力によっていのちが生まれる。これは神さまの創造の御業です。もちろん、御子キリストという存在が新しく造られたということではありません。聖書を見ると、御子は父なる神とともにこの世界の始まりからおられる永遠のお方であると書いてあります。そこは誤解しないでください。ただ、何もないところから、人の手を介さず、神の力によっていのちが生み出される、これは創造主なる神さまの御業としか説明がつきません。あの創世記1章以来の出来事がここで起きています。

これは何を意味しているか。聖書の歴史を振り返っていきましょう。神さまははじめ、ご自身のかたちとして人を創造されました。人は神のかたちに造られた。これは表現を変えると、人は神の子どもとして造られたということになります。ここで目を向けたいのは、ルカの福音書3章の最後に記されている系図です。3章の23節以降から38節にかけて、イエスさまから始まり、先祖を遡っていく形で系図が記されています。最終的にはどこに行き着くか。38節「エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る」。実はこの箇所、ギリシア語の原文を直訳すると、「エノシュの子、セツの子、アダムの子、神の子」となります。実際、この一つ前の翻訳の新改訳第三版を見ると、この箇所の翻訳はこのようになっていました。「エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である」。はじめの人アダムは、神の子どもとして造られた。そこには神の家族、親と子どもの親しい交わりがありました。

しかしその後、神の子どもであるアダム、人はどのような歩みを送ったか。蛇の誘惑に負け、神のことばに逆らい、罪と悪の支配の下に自ら降っていきました。本来は神の子どもとして神さまとともに生きるはずが、神さまとの関係が壊れ、罪と悪に捕らわれながら生きていかなければならなくなった。それが旧約聖書の歴史です。

けれども、神さまは罪と悪に捕らわれた人をそのままにはなさいませんでした。何とかしてそこから救い出したいと、もう一度神の家族としてともに歩みたいと願われた。そこで神さまはどうされたか。創造主としての御力をもって、神の子どものオリジナルである御子キリストを、真のアダムとして、真の人としてこの地上に遣わしてくださいました。第一のアダムがなし得なかったことを成し遂げるために、第一のアダムによってもたらされた暗闇を光へと逆転させるために、真の神の子イエス・キリストが第二のアダムとして、真の人としてこの地上に来てくださった。「それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」。創造主なる神さまの新しい御業がここから始まっていくのです。

 

恵みの決断

しかし考えてみると、これは神さまにとって大きな賭けです。歴史に「たられば」はありませんけれども、もしマリアがこの神さまの御業を拒否したら神さまはどうなさるおつもりだったのだろうと私などは考えてしまいます。もちろん神さまはマリアの信仰をよくご存知だったからこそマリアを選ばれたということはあるでしょうけれども、人間がかかわる以上、そこに絶対はありません。マリアが反抗的な態度を示す可能性は十分考えられたはずです。しかしそれでも神さまはマリアという一人の人間を用いられた。ここに私たちは神さまというお方を見ます。神さまは決して人間を置いてきぼりにして、お一人で全てのことをなさるお方ではありません。神さまはこの地上でご自身の御業を現す際、私たち人間を用いられます。聖書を見ると、人間は何度も神さまに背き、何度も神さまの恵みを台無しにしてきました。しかしそれでも神さまは人を用いられる。なぜか。子どもである私たちとともに歩みたいからです。神さまと人がともに歩み、この世界を神さまの愛で、神さまの義で満たしていく。それが天地創造の時から続く天の父なる神さまの願いです。だから神さまは決して私たちのことを諦めないでいてくださった。そしてここでも、マリアという一人の女性を用いてご自身の救いの御業を起こすという決断をなされたのです。

これは、マリアだけのことではありません。もちろん、マリアはイエス・キリストを産み育てる器として選ばれたという意味で特別でしょう。しかし、マリアの上に臨んだ聖霊の力は、私たちの上に臨んでいます。先週はちょうどペンテコステでしたが、使徒の働き18節にはこのようにあります。お聞きください。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」「聖霊があなたがたの上に臨むとき」とありますが、実はそこで使われているのは、今日の箇所の「聖霊があなたの上に臨み」と同じことばです。ルカの福音書と使徒の働きはどちらもルカが書いたひとつなぎの書物ですので、ルカは意図して同じことばを用いたはずです。マリアの上に臨んだ聖霊の力、それと同じ力がペンテコステを通してすべてのキリスト者に注がれている。何のためか。神さまの新しい救いの御業を推し進めるためです。「あなたは神から恵みを受けたのです」。マリアと同じように私たちも聖霊を通して神の恵みを受けている!この恵みにどう応えていくか。「そんなこと信じられません。私にそんなことを押し付けないてください」、神さまの恵みを拒否し、無駄にしていくのか。それとも、「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」、マリアのように神さまの恵みを素直にそのまま受け入れ、この世界を救う神さまの御業に加えられていくのか。エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまでキリストの証人となっていくのか。神さまの恵みに応えていく者となりましょう。

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