イザヤ40:27-31「全能の父なる神」(使徒信条 No.2)

 

今日は4月の第一主日ということで、年間聖句と年間目標に関するみことばにともに聴いていきます。はじめに年間聖句をともに読み上げましょう。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです」(ローマ人への手紙109-10節)。この箇所から「信仰告白に生きる教会」という目標を立て、私たちの教会が毎月礼拝の中で告白している使徒信条を順番に学んでいます。

前回は1回目ということで、使徒信条とはそもそも何か、そして私たちが信仰を告白するというのはどういうことなのかについて年間聖句のみことばに聴きました。今日は2回目で、実際に使徒信条の内容に入っていきます。週報の裏面に記載されている使徒信条をご覧ください。この使徒信条は、大きく分けて三つの部分から成っています。第一に「父なる神」についての告白、「わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます」の部分です。第二に「子なる神」についての告白、「わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」から、下から3行目の「そこからこられて、生きている者と死んでいる者をさばかれます」までの部分です。そして第三に「聖霊なる神」についての告白、「わたしは聖霊を信じます」から「永遠のいのちを信じます」までの部分です。「父なる神」、「子なる神」、「聖霊なる神」、この三位一体の神さまを信じるというのが、この使徒信条で言い表されている信仰です。

 

創造と摂理

その中で今日私たちははじめの部分、「わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます」という「父なる神」についての告白を見ていきます。ことば自体は決して難しくはないので、みなさん意味はよく分かると思います。「天地の造り主」、この「天地」というのは「天」と「地」の間にあるものすべて、つまりこの世界すべてを指す表現です。この世界はすべて神さまによって造られた。創世記11節で語られていることです。また、今日の箇所の28節にも「地の果てまで創造した方」と出てきます。この「創造する」ということばはヘブル語で「バーラー」と言いますが、聖書の中で神さまだけを主語として使われることばで、何もないところからの創造、「無からの創造」を意味することばです。神さまは無から有を造り出された。それが天地創造の御業です。

ただし、神さまの御業は創造では終わりません。信仰告白ではその後、「全能の父である神」と出てきます。実はキリスト教の歴史を見ると、17世紀後半頃から、前半の「天地の造り主」は信じるけれども、後半の「全能の父である神」は信じないという人々が出てきました。当時は科学の発展に伴って、「啓蒙主義」と呼ばれる、人間の理性を絶対視する思想が広まっていました。その中で人々はこう考えたわけです。「神はこの世界を創造した後、この世界から手を引かれた。この世界は今、様々な物理法則によって動いている。だから今の時代、神の御業なんてものはないんだ。物理法則の下、人間がこの歴史を動かしていくんだ!」このような考え方は「理神論」と呼ばれます。現代人にも大きな影響を及ぼしている考え方です。

しかし聖書が語る神さまは違います。「天地の造り主」である神さまは、今も「全能の父」としてこの世界に、私たちに関わり続けてくださっている!「全能」、神さまに不可能はないということです。その「全能」なるお方が、私たちの「父」、天のお父さまでいてくださる。父親が子どもを大きな愛をもって教え諭し、導くように、全能の父なる神は今この時も私たちをその大きな手で包み、導いてくださっている。この世界には神さまの御業が溢れている!この神さまの御業を「摂理」と言います。この世界を「創造」した神さまは、今も「摂理」のうちにこの世界を保ち、治めておられる。「創造」と「摂理」の神さま。それが使徒信条に表されている私たちの信仰です。

 

神に見過ごされている?

ここまで、「わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます」という告白の意味を確認してきました。この信仰の告白について考えるとき、まずその意味を正確に知るのはとても大事なことです。けれども、そこで終わってはいけません。もっと大事なのは、それを信じて生きるというのはどういうことなのか、ということです。この信仰は、私たちの生き方にどのような違いをもたらすのか。知識で終わる信仰ではなく、生き方につながっていく信仰。それを私たちに教えているのが、今日開いているイザヤ書の箇所です。

27節「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ言い張るのか。『私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている』と」。このイザヤ書は、イスラエルの民のバビロン捕囚と、そこからの解放について語っている預言書です。ここでは、異国の地で捕囚のただ中にある民の叫びが想定されています。バビロン捕囚というのはそもそも、イスラエルの民が神さまに反逆し続けた結果、神さまから懲らしめとして与えられたものでした。民自身が招いた結果です。しかし彼らはそのようなことさえ忘れ、現実にある苦しみを前に、神さまに叫んでいた。「神よ、あなたは何をしておられるのですか。私たちのことを目に留めてくださらないのですか。私たちの訴えを、叫びを聞いてくださらないのですか」。

その中で、彼らは何に頼り始めたか。ページを一つ戻って、4018-20節をお読みします。「あなたがたは神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。鋳物師は鋳造を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。貧しい者は、奉納物として朽ちない木を選び、巧みな細工人を探して、動かない彫像を据える」。民が頼り始めたのは、偶像でした。偶像というのは、神さまを目に見えるかたちにしたものです。どこにいて何をしているか分からない、目に見えない神をただ信じるのはあまりにも不安。だから神さまを目に見える偶像で表したくなる。自分の手元に神さまを置いて、安心感を得たい。偶像というのは、神を自分たちの意のままに操りたい、そのような人間の願望の現れです。

私たちはどうでしょうか。イスラエルの民のように像を造るということはしないかもしれません。しかし、目に見えるものに安心を、平安を求めるというのはどうだろうか。神さまを信じていると言いながらも、結局のところ、目に見えるものに頼り、それがあるかないで一喜一憂する、そのような心がないだろうか。目に見えるもの、お金であったり、人間関係であったり、地位や名誉、人の目であったり、様々なものが私たちの偶像になり得ます。私たちは自分の安心を、平安をどこに求めているだろうか。心を探られます。

 

あなたは知らないのか

そのような私たちに対し、神さまはこう言われます。ページを戻って28, 29節「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる」。「天地の造り主、全能の父であるこのわたしがいるではないか!」主のことばです。「私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」、イスラエルの民は言い張っていました。しかし、事実は逆です。「神の道が人に隠れ、神の訴えが人に見過ごされている」。神さまが私たちを理解していないのではない、私たちが神さまを理解していないのだ!神さまはこの世界のすべてを創造し、摂理のうちに今もこの世界を保ち、治めておられるお方。そして、私たちの父なる神として、大きな愛をもって私たちを包み込んでくださっている。「あなたはそれを知らないのか。聞いたことがないのか」。神さまは私たちに迫っておられます。

30, 31節「若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」。どんなに若くても、どんなに逞しくても、人間には限界があります。やがて必ず力尽き、つまずき倒れます。しかし、主を待ち望む者は違う。待ち望むとは、希望を置くということです。天地を造られた神さまは、全能の父なる神として私たちを守り導いてくださっている。この神が私たちの味方でいてくださるなら、何を恐れることがあるだろうか。

そして目を留めたいのは、この箇所は「主を待ち望む者をこの世界を抜け出し天国にひとっ飛びで行くことができる」とは言っていないということです。そうではなく、「鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」。主を待ち望む者は、主から新しく力を得て、大空に羽ばたいていくことができる!この人生を力強く走り続け、歩き続けることができる!なぜか。天地の造り主、全能の父である神さまがすべてを最善へと導いてくださると確信するからです。私たちの歩みは不完全です。多くの弱さや欠けをもつ私たちです。しかし、主はそれをすべてご存じの上で、私たちを最善の道へと導き続けてくださる。この神さまとともに歩む先には、必ず栄光に輝くゴールが待っている。主を待ち望む信仰によって、私たちはこの人生を力強く走り抜くための力が与えられるのです。

 

主を待ち望んで生きる

最後に、一つのことばをご紹介して説教を閉じたいと思います。祈り会で学んでいる『ハイデルベルク信仰問答』の問28です。『信仰問答』の中で最も深く私の心に刻まれている問答です。お聞きください。

 

28 神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益を受けますか。

答 わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできないからです。

 

「逆境においては忍耐強く、順境においては感謝する」。「どんな被造物も神の愛からわたしたちを引き離すことはできないと確信できるようになる」。これが「天地の造り主、全能の父である神」を信じる私たちの生き方です。この神さまを待ち望みつつ、最後に使徒信条を、私たちの信仰の告白として、声を合わせともに告白しましょう。

 

わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。

わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。

主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。

そして、全能の父である神の右に座しておられます。

そこからこられて、生きている者と死んでいる者をさばかれます。

わたしは聖霊を信じます。

きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。

アーメン

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