ヨハネ21:15-19「あなたはわたしを愛していますか」

 

イースターおめでとうございます。イエス・キリストは死からよみがえられた!この喜ばしい知らせ、福音を特別におぼえる日が今日のこのイースター、復活祭です。今日私たちが開いているのは、ヨハネの福音書の最後、復活のキリストが十二弟子の筆頭、シモン・ペテロとことばを交わす場面です。ペテロに対し「あなたはわたしを愛していますか」と三度問いかけるイエスさま。それに対し、「私があなたを愛していることはあなたがご存じです」と答えるペテロ。するとその答えに対し、「わたしの羊を飼いなさい」と語りかけるイエスさま。同じやり取りが三度も繰り返されている、大変印象的な場面です。

今日の箇所を理解するためには、ここに至るまでの話の流れを知らなければなりません。ともに開きましょう。ヨハネの福音書1337節からです(新213)。この直前、イエスさまは弟子たちに対して、「これから自分が行くところにあなたたちは来ることができない」告げますが、37節からそれに続くイエスさまとペテロの会話が記されています。「ペテロはイエスに言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。』」「あなたは三度わたしを知らないと言う」。このイエスさまの予告は、この後ヨハネの福音書18章で現実になります。三度目のところだけ確認しましょう。18章の26, 27節です(新223)。「大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言った。『あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。』ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。」「あなたのためならいのちも捨てます」とまで言ったペテロが、三度もイエスさまを否定してしまった。愛する主を裏切ってしまったのです。

 

罪と正面から向き合う

このペテロの三度の裏切りを踏まえて、もう一度今日の箇所、21章に戻りましょう。15節「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛しますか」。ペテロはどのような思いでこの問いかけを聞いたのでしょうか。「他の弟子たちがあなたを見捨てても、わたしだけはいのちを捨ててでもあなたに従い抜きます!」以前そのように豪語したペテロに対し、「この人たちが愛する以上に、わたしを愛しますか」と問うイエスさま。しかも一度ではなく、二度、三度、その問いが繰り返されていく。17節では「ペテロは、イエスが三度目も『あなたはわたしを愛していますか』と言われたので、心を痛めてイエスに言った」とあります。「イエスさまは明らかに自分のあの三度の裏切りを意識して問いかけておられる」。トラウマが抉られるような思いをペテロはしたはずです。

なぜイエスさまはこのようにペテロに問いかけたのか。実はまだペテロのことを赦してはいないのではないか。実はまだ根に持っているのではないか。けれども考えてみてください。もしイエスさまがあのペテロの大失態に全く触れないまま天に帰ってしまわれたら、ペテロの心の内には何が残ったでしょうか。おそらく過去の癒えない痛みをずっと抱えたまま生涯を終えていったと思うのです。「自分が犯したあの大きな過ちを、イエスさまは果たして赦してくださったのだろうか。こんな自分に使徒を名乗る資格はあるのだろうか。こんな自分が教会を率いていっていいのだろうか」。過去に自分が犯した大きな罪への後悔、自責の念、良心の呵責をいつも抱えながら、苦しい人生を歩まなければならなかったはず。だからこそイエスさまはここで、自分が犯した罪と真正面から向き合うよう、ペテロに迫ったのではないでしょうか。三度にもわたるイエスさまの問いかけ。その背後には、「罪の赦しを確信し、罪の支配から解放され、もう一度顔をあげ、わたしと一緒に生きていこう」という、ペテロに対するイエスさまの深い愛があったはずです。

 

主の前に弱さをさらけ出す

では、ペテロはイエスさまの問いかけに対してどのように答えたか。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」。この短い答えに、どれほどのペテロの思いが込められているのか、想像してみてください。イエスさまを裏切る前のペテロであれば、「もちろん愛していますとも!いますぐその愛を証明してみせましょう」、自信満々に答えたはずです。しかし、今のペテロはどうか。ペテロはイエスさまを愛してはいたはずです。そして、「この主を愛していきたい」という思いは以前にも増して強くなっていたはず。だからこそ彼は「はい、主よ」とまず答えました。けれども同時に、彼は自分の愛がどれほど脆く崩れやすいものであるかを知っていました。知っていたというよりも、あの三度の裏切りを通して、自分の愛の現実をまざまざと見せつけられました。イエスさまのことを愛したい!このお方に生涯を通して従っていきたい!その意志は間違いなくある。けれども、その意志を全うするだけの強さが自分にはない。困難に陥れば揺らいでしまう、イエスさまよりも自分自身を優先してしまう、不完全な愛。

だからこそペテロはこう続けたのです。「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」。そして三度目の問いにはさらにこう答えた。17節「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます」。イエスさまは、ペテロの内に何があるかをすべて知っておられました。ペテロの内にある熱い思い。しかし、その熱い思いを支えるだけの十分な愛が彼の内にはないこと。裏切られた当事者ですから、イエスさまはペテロの弱さを一番よく知っていたはずです。ペテロはそのイエスさまの前に、自分の弱さをさらけ出しました。「主よ、あなたはすべてをご存じです」。「イエスさま、あなたは誰よりも私の弱さを知っているはず。しかしそれでも復活した後、私に会いに来てくださった。弱い私を見捨てないでいてくださった。イエスさま、そんなあなたに今度こそ従っていきたいのです。あなたを誰よりも愛していきたいのです。弱く不完全なこの私の愛を、あなたは良しとしてくださいますか」。

 

イエスさまの招き

わたしの羊を飼いなさい」。それがイエスさまの答えです。「あなたにはもうわたしの羊を飼う資格はない」ではない。「あなたの不完全な愛は到底受け入れられない」でもない。「わたしの羊を飼いなさい」。これは、イエスさまの招きです。「確かにあなたは大きな罪を犯した。そしてこれからも罪を犯すだろう。しかし、わたしの十字架はそのあなたの罪のためだった。わたしはすでにあなたの罪を赦している。あなたがわたしを愛する前に、わたしがあなたを愛している。だから顔を上げて立ち上がりなさい。もう一度わたしと一緒に歩いていこう」。イエスさまは、ペテロの弱く不完全な愛を良しとしてくださったのです。

わたしの羊を飼いなさい」、これは何もいわゆる牧会者になりなさいというだけの意味ではありません。イエスさまは以前このように言われていました。お聞きください。ヨハネ1011節「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」。良い牧者のモデルはイエスさまご自身。ではイエスさまはどのようにしてご自身の羊たちを飼われたのか。羊たちに仕えることを通してです。その究極の形として、イエスさまは私たちの罪のために、十字架の上でいのちを捨てられた。人に仕える者として。同じように、ペテロも、そして私たちも、イエス・キリストの羊を飼うように、互いに仕え合うように招かれています。「あなたはわたしを愛していますか」と問われ、「あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます」と答えたペテロに対し、「今度はその愛を、わたしが愛する羊たちのために用いていきなさい。わたしへの愛をもって、今度は人々を愛し、人々に仕えていきなさい」、イエスさまは招かれた。キリストへの愛をもって、人々を愛していく。それがペテロの、私たちの新しい歩みです。

18節では、ペテロのその後の生涯に関することが語られます。「しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます」。これは殉教のことです。実際にペテロは皇帝ネロの迫害の下、ローマで殉教の死を遂げたと言われています。なぜイエスさまはここでその予告をされたのか。一見、イエスさまを裏切ったことに対する罰であるかのようにも思えます。しかし、「わたしの羊を飼いなさい」という招きの後にこのことばが来ているということに私たちは目を留めなければいけません。ここに示されているのは、羊飼いとしての生涯を全うするペテロの姿です。彼はかつて、「あなたのためならいのちも捨てます」と豪語したにもかかわらず、その直後、イエスさまを裏切ってしまいました。しかし、復活の主と出会い、「わたしの羊を飼いなさい」との招きを受け、今再出発しようとしているペテロは、今度は死に至るまでイエスさまに従い続けることができるようになる。イエスさまは、「あなたのためならいのちも捨てます」というペテロの覚悟を、精一杯の愛を受け入れ、良しとしてくださったのです。そして、ペテロは決してその道を一人で歩んでいくのではありません。18節に示されているのは、真の牧者であるイエスさまご自身が歩んだ道でもあります。死に至るまでキリストに従い続ける歩みを、これからは復活の主ご自身が支えてくださる。ペテロの弱く不完全な愛を、復活の主が完成させてくださる。この地上での苦難の道を、十字架の道をともに歩んでくださる。だからこそイエスさまは19節の最後、改めて「わたしに従いなさい」とペテロを招いたのです。

この復活の主イエス・キリストのお姿を私たちは今日、改めておぼえていきましょう。たとえ大きな過ちを犯し、「こんな自分は決して赦されることがない」、人生のどん底にいたとしても、復活の主イエス・キリストは私たちの前に現れてくださる。私たちを真実な悔い改めへと導き、イエスさまを再び愛する人生へと立ち上がらせてくださる。そして今度はキリストへの愛をもって、互いに仕え合い、互いに愛しあう歩みへと私たちを押し出してくださる。さらには、死に至るまでキリストに従い歩むことができるよう、私たちを支え、十字架の道をともに歩んでくださる。それが復活の主、イエス・キリストです。「あなたはわたしを愛していますか」。イエス・キリストは今日も私たち一人ひとりに問いかけておられます。

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