ローマ10:9-11「信じ、告白する」(使徒信条 No.1)

 

先週の午後には教会総会が行われ、そこで2023年度の年間目標と年間聖句が承認されました。早速週報の表に掲載されていますので、はじめにみなさんで確認しましょう。まずは年間聖句です。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。」(ローマ人への手紙109-10節)この箇所から、「信仰告白に生きる教会」という目標を立てました。そして毎月第一主日には、私たちが毎月聖餐礼拝のたびに告白している使徒信条に関連するみことばにともに聴いていきます。今日はその第一回目ということで、年間聖句そのものを中心に、そもそも信仰告白とは何なのかということについて、みことばから教えられていきましょう。

 

使徒信条とは

まず、これから1年間をかけて学んでいく使徒信条とは何かについて、基本的な事柄を確認しておきたいと思います。まずは名称についてですが、「信条」とは、「信じる条項」と書くように、教会の信仰の内容をことばで言い表したものです。使徒信条は元々ラテン語で言い伝えられてきたものですが、そのラテン語で「信条」は “symbolum” と呼ばれます。英語の「シンボル」のもとになっていることばです。信条とは、教会の「シンボル」である。その群れが真のキリストの教会であることの目印、旗印。それが信条だということです。

では、なぜ使徒信条は「使徒」信条と呼ばれるのか。それは、この信条で言い表されている信仰の内容が、新約聖書の使徒たちの教えに基づくものだからです。実際にヨーロッパの方では、5世紀以降のことですが、この使徒信条というのは使徒たちが一人一言ずつ文言を紡ぎ出して作り出された信条なのだという伝説が出てくるようになります。まずはペテロが「わたしは全能の父なる神を信じます」と言い、次に弟アンデレが「その独り子、イエス・キリストを」と言い、次にゼベダイの子ヤコブが「彼は聖霊と処女マリアから生まれた」と言い、というように、使徒たちが順番に一言ずつ加えていき、使徒信条が出来上がったという伝説です。これはあくまでも伝説で、実際にはこの信条の原型は4世紀頃のローマで誕生したと言われていますが、それがなぜ世界中に広まっていったかというと、やはりその内容が使徒たち、新約聖書の教えにしっかりと基づいているからです。だからこそ教会は長い歴史を通してこの使徒信条を自分たちの「シンボル」として掲げてきているのです。

それは私たち日本の教会も同じです。ですがヨーロッパなどと違い、日本でクリスチャンはマイノリティです。1%にも満たないと言われます。家族の中でクリスチャンは自分一人という方も大勢おられます。そのような日本で生きていると、私たちクリスチャンは時に自信を失ってしまうことがあります。自分はクリスチャンだと胸を張って生きることがとても難しい。なかなか自分がクリスチャンであると他の人に言うことができない。バレたら恥ずかしい。変わり者に見られたらどうしよう。何か急に自分が信じているものがちっぽけなものに思えてくる。教会がすごく小さな存在に見えてくる。

けれども、私たちが毎月告白しているこの使徒信条は、教会がどれだけ大きな存在であるのかを私たちに教えてくれます。私たちが告白しているのと全く同じ信仰を、1500年前のローマのクリスチャンも告白していた。そして今や教会は世界中に広まり、アフリカにいるクリスチャンも、ブラジルにいるクリスチャンも、北欧にいるクリスチャンも、みんな同じ信仰の告白をしている。時代を超えて、国境を超えて存在している大きな大きな教会にこの私も加えられている!

もちろん私たちは、歴史が長くて信頼できる宗教だから、あるいは世界で一番信者の多い宗教だからという理由で教会にいるのではありません。イエス・キリストが出会ってくださったから、私たち一人ひとりは今ここにいます。けれども、私たちの信仰というのは、神さまとの一対一の関係だけで終わるものではありません。もちろんそれが中心です。それがなければ成り立ちません。しかし私たちは同時に、教会という群れに加えられています。この港南福音教会の群れに、港南福音教会が属している日本同盟基督教団の群れに、日本の教会の群れに、そしてアジアの教会の群れ、世界の教会の群れ、さらには2000年を通して存在し続けているキリストの教会の群れに加えられている!私たちは使徒信条を告白するたびに、時空を超えた教会の広がりをおぼえていきたいと思います。

 

信じるということ

さて、次に、今日の聖書箇所にも出てくる「信じる」ということと「告白する」ということについて考えていきたいと思います。まずは「信じる」ことについてです。「信じる」とは何でしょうか。「信仰」とは何か。以前にもお話ししたことがありますが、今私たちの教会の祈り会でも学んでいる『ハイデルベルク信仰問答』は、まことの信仰とは「確かな認識」と「心からの信頼」であると説明しています。これはとても優れた信仰の説明です。「確かな認識」と「心からの信頼」。まずは「確かな認識」ですが、これは当然のことです。私たちは信じる対象のことを知らなければ信じることはできません。そのために、神さまは私たちに聖書を与えてくださいました。私たちは聖書を通して神さまのことを知り、神さまに関する確かな認識をもっていく。その聖書の内容をギューっと短く凝縮したものが使徒信条に代表される様々な信条です。ですから私たちはこの使徒信条を学ぶことによって、神さまに対する確かな認識をもっていきたい。信仰を確固たるものにしていきたい。そのように願っています。

しかし、確かな認識だけで信仰は成り立ちません。一番分かりやすい例をあげれば、悪魔、サタンがそうです。悪魔は神さまのことをよく知っています。福音書を見ていても、イエスさまが神の子であることを最初に見抜いたのは悪魔の手下である悪霊でした。悪魔、悪霊は神さまのことをよく知っています。けれども、断じて神さまのことを信じてはいません。なぜか。そこに「心からの信頼」がないからです。「確かな認識」に加えて「心からの信頼」がなければ信仰は成り立ちません。実は、今日の箇所にもそれがよく表れています。11節に「この方に信頼する者は」とありますが、ここで「信頼する」と訳されていることばは、9節と10節で「信じる」と訳されていることばと同じギリシャ語です。信じることは信頼することである。信頼は「信じ依り頼む」と書きますが、つまりは自分自身を委ねるということです。そこには単なる知識を超えた、人格的なつながりがあります。新約聖書の多くの箇所で、「イエス・キリストを信じる」とある場合、元のギリシャ語を見るとその多くは、「キリストの中に向かって信じる」という表現になっています。英語で言うなら “Believe into Christ” です。「キリストの中に向かって信じる」。イエスさまのもとに飛び込んで自分の身を委ねていくような、イメージ豊かな表現です。

まずは「確かな認識」。けれども、私たちは神さまをすべて理解することはできません。神さまのすべてを捉え切ることはできません。理解できないことがたくさんある。時には疑いや不安が押し寄せてくることもあります。しかしそれでも、このお方についていきたい。このお方についていけば何とかなる。「心からの信頼」をもって神さまのもとに飛び込み、自らの身を委ねていく。そして神さまのもとに飛び込む中で、さらに神さまのことを知り、「確かな認識」を深めていく。「確かな認識」と「心からの信頼」、この両方によって私たちの信仰は深まっていくのです。

 

応答としての告白

最後に、その信仰を「告白」するということについてです。総会の時にもお話ししましたが、今日の聖書箇所は信じることと告白することの一体性を教えています。9節では「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら」、告白、信じる、の順番ですが、10節では「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」、信じる、告白、の順番になっている。両者は二つで一つということです。

「告白」ということばに皆さんはどんなイメージをもっておられるでしょうか。私がもっているのは、勇気が必要な行為というイメージです。告白というのは内に秘めているものを公に言い表すということです。例えば、自分の好意、愛を相手に伝えるという場面での「告白」であったり、自分が犯した罪を白状するという場面での「告白」であったり、場面は様々ありますが、いずれも共通しているのは、勇気が必要とされるということであるように思います。内に秘めているものを公にすることには勇気がいる。それは信仰の告白も同じです。生半可な覚悟ではできない。確固たるものがなければできない。そのように考えていくと、信仰告白のハードルはどんどん高くなっていきます。こんな信仰の弱い自分が信仰の告白なんて大それたこととてもできない。恐れ多い。あるいは恥ずかしいということもあるでしょう。できるだけ自分の内にひっそりと留めておきたい。隠しておきたい。

けれどもそこで考えたいのは、聖書が語る信仰の告白とはそもそも何かということです。私たちにとって信仰の告白というのは第一に、神さまの告白への応答です。まず神さまの方がご自身のことを私たちに明らかにしてくださった。神さまの告白が出発点です。神さまは絶えずみことばを通して私たちに語り続けてくださっている。その神さまの告白にどのように応答するのか。それが私たちに問われていることです。時折、聖書は神からのラブレターであると言われることがありますが、その例えで言うならば、ラブレターを受け取った私たちはどうするのかということです。ラブレターをもらうだけもらって返事をしない。あるいは、こっそりと本人に返事はしたけれども、その関係を周りに知られたくないから、秘密にしておきたいから、公の場では知らないふりをする。何も関係がないかのように振る舞う。そのようなことをしていないだろうか。

信じることと告白することは二つで一つ。神さまを信じているのであれば、そこにまことの信仰が、愛があるならば、神さまに応答したいという思いが自ずと生まれてきます。それが信仰の告白です。だから私たち教会は礼拝の中でともに使徒信条を告白するのです。神さまのみことばを聴き、溢れんばかりの愛と恵みを受け取った私たちは、その応答として、「あなたを信じます」と告白していく。そして礼拝の場に留まらず、全生活を通して、神さまへの信仰を告白し続けるのです。

今日の箇所の最後、11節「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない」。私たちの信仰の告白が虚しく響くことは決してありません。だれも失望させられることがない!このことを今日改めて確信したいのです。私たちの信仰告白自体は頼りないものです。まだまだ神さまのことを全然知らない、幼い信仰の告白かもしれません。けれども、神さまは私たちの応答を必ず喜んでくださいます。そして救いの完成に至るまで必ず私たちを守り導き、恵みを注ぎ続けてくださる。だから私たちは決して失望させられることがないのです!この救いの確かさを改めておぼえつつ、最後に声を合わせて使徒信条を告白していきましょう。時空を超えた教会とともに告白する私たちの信仰の応答です。

 

わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。

わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。

主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。

そして、全能の父である神の右に座しておられます。

そこからこられて、生きている者と死んでいる者をさばかれます。

わたしは聖霊を信じます。

きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。

アーメン

このブログの人気の投稿

コロサイ3:1-4「上にあるものを思う」(使徒信条No.7)

マルコ8:11-13「十字架のしるし」

マルコ15:33-39「この方こそ神の子」