ローマ8:26-27「御霊によって祈る」

 

早いもので今日は2月の第三主日です。来週には教会総会が行われます。今朝の礼拝は、教会総会前の最後の主日ということで、2022年度の年間目標と年間聖句の説教をします。はじめに、年間聖句をともに読みましょう。週報表紙の一番上をご覧ください。これを皆さんで読み上げるのも今日が最後になります。「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」(ルカ11:1)このみことばから、「祈りに生きる教会」という年間目標を立て、1年間の歩みを送ってきました。そして昨年の3月から毎月、イエスさまが私たちに教えてくださった主の祈りを順番に学んできました。私たちは神の子どもとされた者として、父なる神さまに祈るということ。私たちの内に「アーメン」、真実はないけれども、イエス・キリストの「アーメン」、真実ゆえに私たちは祈ることができるということ。イエス・キリストのお名前によって父なる神さまに祈るということを私たちはみことばから学んできました。しかし、私たちの祈りに欠かすことのできないお方が実はもうお一方いらっしゃいます。聖霊なる神さまです。イエス・キリストのお名前によって父なる神さまにささげる祈り、そこに聖霊なる神さまはどのように関わっておられるのか、今日のローマ書のみことばにともに聴いていきましょう。

 

弱い私たち

26節のはじめ。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます」。「助けてくださる」、これは新約聖書に2回しか出てこない少し珍しいことばでして、元のギリシャ語では、「ともに・代わって・引き受ける」という三つのことばが合わさった単語になっています。「ともに・代わって・引き受ける」。非常に豊かな意味をもつことばです。御霊、聖霊なる神さまは私たちの心の中で、私たちとともにいて、私たちの弱さを代わりに引き受けてくださる。それが御霊の助けです。

では、ここでいう私たちの「弱さ」とは何を指しているのでしょうか。そこで目を留めるべきは直前の823節です。「それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています」。ローマ書はここに至るまで、私たちはキリストの十字架によってすでに贖われていて、御霊によってすでに神の子どもとされていると語ってきています。しかしここに来て、私たちはすでに贖われ、すでに神の子どもとされているけれども、いまだ完成していないと語られます。私たちの内には御霊がいて、すでにキリストのものとされているけれども、私たちの内にはいまだ罪の性質が残っていて、戦いがある。苦難がある。私たちはその戦い、苦難が終わる日を待ち望みながら、心の中でうめいている。これが私たちの現状です。私たちはすでに救われているけれども、いまだ不完全な状態にある。それが26節で言われている私たちの「弱さ」です。

そしてその弱さゆえに、私たち何をどう祈ったらよいか分からないことがある、26節はそう続けます。何をどう祈ったらよいか分からない。この1年間の主の祈りの学びを通して、私たちは父なる神さまのみこころに沿って祈ることの大切さを学びました。しかし問題は、多くの場合、私たちには神さまのみこころが分からないということです。もし私たちがすでに完全にされているのであれば、神さまのみこころが完全に分かるはずです。神のかたちに造られた私たちは、神さまのみこころが分かるはず。しかし、私たちはいまだ不完全で、弱さを抱えています。神さまのみこころが分からない!神さまのみこころに適う祈りをささげることができない!立派なことばで祈りたい。絶えず熱心に祈る者でありたい。完璧な祈りをささげたい。そう願うけれども、私たちにはできない。私たちの口から出てくるのは、貧しい祈りのことばだけ。こんな自分の祈りが神さまのもとに届いているとは到底思えない。

いや、祈りのことばが出てくる内はまだいいかもしれません。本当に辛い時、苦しい時、私たちはしばしば祈りのことばを発することさえできなくなります。あまりにも悲惨な状況を目の当たりにする中で、祈りのことばを失ってしまう。何をどう神さまに願ったらよいのかさえ分からない。ひたすら自分の無力さを呪い、ことばにならないうめき声をあげることしかできない。あらゆる苦難を乗り越えてきたあのパウロでさえ、そのようなことがあるのだとこの手紙で告白しているのです。弱い私たちには限界がある。パウロも身をもって経験していました。

 

御霊のとりなし

しかし、ことばにならないうめきをともにしてくださる方がおられる、聖書は語ります。御霊なる神さまです。「御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」。御霊は私たちの心の中にあって、ことばにならない私たちのうめきを聴き取り、ともにうめいてくださる。ともに苦しんでくださる。このような神が他にいるでしょうか。そしてそれだけではありません。私たちが自分の力では神さまに届けることができないそのか細いうめき声を、御霊は代わりに引き受け、ご自身のうめきとして父なる神さまのもとに届けてくださる。御霊のとりなしです。

さらに、27節「人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです」。「御霊は神のみこころにしたがってとりなしてくださる」。弱く不完全な私たちに神さまのみこころは分かりません。しかし御霊は違います。御霊なる神さまは、神さまのみこころそのものです。ですから、私たちのことばにならないうめきを聴き取ってくださる御霊は、それをご自身のうめきとして代わりに引き受け、今度は神さまのみこころに沿った祈りとして父なる神さまに届けてくださる!27節は驚くべきことを語っています。私たちは自分の力で、自分のことばで立派な祈りをささげようとしなくてもよい。自分で声を張り上げて神さまに祈りを届けようとしなくてもよい。御霊なる神さまが私たちの祈りを引き上げてくださる!この御霊の働きに信頼をしながら、ありのままの姿で神さまに身を預けていく。それが御霊によって祈るということです。

 

三位一体の神のチームワーク

至れり尽くせりな神さまの御業です。なぜ神さまはそこまでしてくださるのか。それは、私たちが神の子どもとされているからです。1ページ戻って、814-16節「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」。ここに、私たちの祈りの根拠があります。神の子どもとされた私たち。しかし神の子どもと言っても、私たちはまだまだ弱い、未熟な幼子のような存在です。幼子ですから当然支離滅裂なことを言うわけです。何も分かっていない、自分のことしか見えていない、めちゃくちゃな祈りをします。時には上手く言葉に表すことができず、大声で泣き喚くか、あるいはこっそりしくしくと涙を流すしかない。未熟な幼子です。しかし、私たちはそれでも神の子どもなのです。その証しとして、私たちには御霊が与えられている!御霊が、支離滅裂でめちゃくちゃな私たちの祈りを、言葉にならない泣き声を聴き、ともに泣いてくださる。私たちの思いを代わりに引き受け、適切な祈りにしてくださる。さらに、長男であるイエス・キリストが「こっちにおいで」と私たちを父なる神さまのもとへ導いてくださる。そして、御霊によって、イエス・キリストを通してささげられる祈りを、私たちの天のお父さまは確かに聴いてくださり、その全能の御力をもって、最善をなしてくださる。私たちの小さな小さな祈りに、三位一体の神さまが総動員でかかわってくださる!三位一体の神のチームワークです。私たちが神の子どもとされているというのはそれだけ素晴らしいことなのです。「主よ、私たちにも祈りを教えてください」。この豊かな祈りの世界に私たちは招かれている。三位一体の神さまの、温かい家族の交わりの中に入れられている。この素晴らしい恵みを改めておぼえつつ、最後に心を合わせて、イエス・キリストが教えてくださった主の祈りをともに祈りましょう。

 

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン。

このブログの人気の投稿

コロサイ3:1-4「上にあるものを思う」(使徒信条No.7)

マルコ8:11-13「十字架のしるし」

マルコ15:33-39「この方こそ神の子」