マルコ13:32-37「目を覚ましていなさい」

今日でマルコ13章も3回目、最後になります。これまでの2回、特に前回は、このマルコ13章が第一義的にはエルサレム神殿の崩壊について語っていること、そしてイエスさまの十字架、復活、昇天によって新しい時代が、神さまのご支配がこの地上にもたらされたということを確認しました。

 

すべての人に

しかし、今日の箇所から雰囲気が少し変わります。32節「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません」。ここで私たちは「あれ?」と思うわけです。ここに至るまで、イエスさまは神殿の崩壊の前兆について具体的に話してこられました。神殿が崩壊し、古い悪の支配が終わる時には、その前兆として「荒らす忌まわしいもの」、異教の神が神殿にもちこまれ、あちこちに偽キリストたち、偽預言者たちが現れる。そして29節を見ると、「これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい」とある。弟子たちは気をつけながら、神殿の崩壊の前兆を見極めていくことが求められていました。しかし32節以降に入ると、急に「いつ起こるのかあなたたちには分からない」とイエスさまは言い始めます。さらには神の子であるイエスさまご自身も知らないと言われる。そしてその後の旅に出る主人のたとえでも、主人は何の前兆もなく突然帰ってくると言われる。どういうことか。

そこで私たちが目を留めたいのは37節です。「わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい」。「すべての人に言っている」。前々回確認したように、このマルコ13章はペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレという4人の弟子たちの質問から始まっています。そしてイエスさまは弟子たちに対して、やがて訪れる神殿の崩壊と、ご自身の十字架、復活、昇天について語り、気をつけて備えていなさいと言われた。しかし最後に来て、「わたしはすべての人に言っているのです」と、対象を一気に広げられた。なぜか。この預言は今の私たちにも語られていることだからです。このマルコ13章を読みながら繰り返し確認したのは、この章は「第一義的」には神殿の崩壊について語っているということでした。そして私たちは前回まで、神殿の崩壊にはどのような意味があったのかという、過去の出来事の意味について学んできました。しかしイエスさまは単に神殿崩壊の出来事だけについて語っておられたのではありません。神殿崩壊を超えた先にある、この全世界の終わり、「終わりの終わりの日」とでも言えましょうか、そこに最終的に目を向けておられた。イエスさまの十字架によって打ち砕かれた悪の支配がやがて完全に滅ぼされ、この地上に神さまのご支配が完成する「その日、その時」のことをイエスさまは先に見据えておられた。それが前面に出てくるのが、今日の32節以降です。神殿崩壊には前兆があるけれども、悪の支配が完全に滅ぼされる時、すなわちイエスさまの再臨の時というのは何の前触れもなく突然訪れる。だから弟子たちだけでなく、今の私たちも含めた「すべての人」は目を覚ましていなければならない。それが今日の箇所です。

 

父なる神への信頼

しかしそれにしても腑に落ちないのは、「その日、その時がいつなのかは…子も知りません。父だけが知っておられます」という部分です。「え、イエスさま知らないの?それでいいの?」私たちは当然疑問に思うわけです。イエスさまは全知全能の神さまではなかったのか。なぜ父なる神さまはイエスさまに教えてあげないのか。少し仲が悪いのか。

このところを巡っては色々な説明がなされることがあります。イエスさまは地上におられる間は神としてのあり方に制限をかけたなどと説明されることもあります。あえて説明すればそういうことなのかもしれません。けれどもそれ以上に大切なのは、イエスさまはご自分が知らなくてもよいとされていることです。自分は知らなくてもいい。父なる神さまが知っておられるのであれば、それでいい。父なる神さまが知っているということは、その大きな御手の中で、すべてをよきに取り計らってくださるということ。最善の時に最善のことをなしてくださるということ。父なる神さまへの信頼です。ここに、信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストのお姿を私たちは見ます。「すべてを知りたい。すべてを把握していたい」。それは人間の傲慢です。すべてを知りたいということは、すべてを自分のコントロール下に置きたいという欲望の表れです。まさに、善悪の知識の木の実を欲している状態です。

信仰は違います。信仰というのは、善悪の知識の木の実を欲しないということです。欲する必要さえ感じない。なぜなら、神さまがすべてを知っておられるから。その神さまに信頼して、すべてをお委ねする。たとえ私たちが神さまの領域を犯して、様々な知識を得たとしても、思い煩いが増えるだけです。再臨の日を私たちが特定したとして、私たちに何ができるでしょうか。何もできません。ただ思い煩いが増すだけ。そうではなく、私たちの父なる神さまがすべてを知っておられ、全能の御力をもってすべてを治めておられるのだから、神さまにお委ねしようではないか。イエスさまは、私たち信仰者のあるべき姿を示してくださっています。

 

目を覚ましている

さて、33節以降を読んでいくと、一番目に留まるのは「目を覚ましていなさい」という忠告です。全部で3回出てきます。また34節からはたとえ話を使って目を覚ましていることの大切さを教えます。34-36節「それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰ってくるのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい」。主人はイエスさまご自身です。旅に出るとは、復活後、この地上を離れて天に昇られることを指しています。そしてしもべたち、門番とは、私たちも含めたキリストの弟子たち、教会のことです。私たちはイエスさまがいつ戻ってこられてもよいように、割り当てられた仕事を忠実にこなし、目を覚ましていなければならない。

これは具体的に何を意味しているのでしょうか。「目を覚ましていなさい」とありますが、これは大変なことです。私は高校生の頃、長期休み中ですが、夜の間、学校の見回りとゲートの上げ下げをするゲートガードというアルバイトをしたことがあります。一晩中起きていなければいけないわけですが、これが大変でした。暗い中一人で守衛室にいると、やはり緊張するわけです。いつ誰が来るか分からない。しかし緊張はしていても、やはり眠気は襲ってきます。そしてウトウトしている時に限って、関係者の車が突然やって来る。するとハッと目が覚めて、急いでゲートを上げる。思った以上にしんどいアルバイトでした。

イエスさまが言われた「目を覚ましていなさい」とは、そういうことではありません。常に緊張して、気を張って、目をギンギンに開いて待ち構えていなさいということではない。それでは誰ももちません。ではどういうことか。実は聖書の他の箇所を見ると、そのことが詳しく書いてあります。ともに開きましょう。テサロニケ人への手紙第一5章です(新412)。三浦先生が以前説教をしてくださった箇所です。少し長いですが、1節から10節までお読みします。「兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。主の日は、盗人が夜にやって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『平和だ、安全だ』と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです」。まさに今日私たちが開いているマルコ13章の箇所と同じことが語られています。けれども終盤で何と語られているか。「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです」。私たちはいつイエスさまが来るのか、いつこの世界は終わりを迎えるのかとビクビク怯える必要はない。なぜなら神さまは私たちがキリストによる救いを得るように定めてくださったから。だから私たちは安心して、落ち着いて、主の日を待ち望むことができる。

ではその上で私たちはどのように歩めばよいのか。それを語るのが11節以降です。所々抜粋してお読みします。まずは11節「ですからあなたがたは、現に行なっているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい」。13節最後「お互いに平和を保ちなさい」。14節最後「すべての人に対して寛容でありなさい」、15節最後「すべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい」、16-18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」。これが、「目を覚ましている」ということです。特別なことではありません。11節に「現に行なっているとおり」とあるように、私たちがなすべきは、日々主のみこころを行うことです。先ほどのしもべと門番のたとえのように、割り当てられた仕事を、私たちがなすべき主の業を、変わらず続けなさいということ。そうすれば、第一テサロニケ523節にある通り、平和の神ご自身が私たちをきよめ、聖なる者としてくださり、イエス・キリストの再臨のときに責められるところのないものとしてくださいます。私たちは喜びのうちに再臨のイエス・キリストをお迎えすることができるのです。

最後に、ある一つのことばをご紹介したいと思います。宗教改革者マルチン・ルターのことばとして語り継がれているものです。このようなことばです。「たとえ明日が世界の終わりの日であっても、私は今日りんごの木を植える」。ルター研究で有名な徳善義和という先生はこのことばの背後にあるルターの信仰をこう解説しています。「世界の終わり、それは神のみ手の中のことだ。この世界の完成としての、世界の終わりが神のみ手から来る。…であるならば、あれやこれやと私たちが詮索してみたり、考えて悩んでみたりしてもしょうがない。それは神にお任せしよう。そして、私としては今日一日私に託されている仕事を精一杯行なっていこう」。これが、終わりの時代に生きる私たちの歩みです。すべてを治めておられる全能の父なる神さまに信頼しつつ、日々の務めを果たしていく。その先に、私たちの救いの完成と、神の国の完成が待っています。

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