マルコ13:1-13「終わりを生きる」

 

今日からマルコ13章に入ります。この13章はマルコの福音書の中でも異彩を放っている章です。まず、章のほとんどがイエスさまご自身のことばで占められているというのはマルコの福音書の中でもこの章だけです。そして内容を見ても、黙示録をイメージさせるような、終わりの時のことが書かれています。実際、この13章は「小黙示録」と呼ばれることもある箇所でして、古くから多くの人の興味関心を集めてきました。

 

生ける神のことばとして

この13章を読んでいて私たちがまずイメージするのは、いわゆる「この世界の終わり」かもしれません。イエスさまが再び来られる時に今のこの世界が終わり、この地上に新しい天と新しい地が到来する。これは聖書が確かに語っていることです。しかし、他の聖書箇所で語られていることを今日の箇所に読み込まないよう私たちは注意しなければいけません。このマルコ13章の元々のテーマは何かと言いますと、当時のエルサレムにあった神殿の崩壊です。1-4節を改めて確認しましょう。「イエスが宮から出ていかれるとき、弟子の一人がイエスに言った。『先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。すると、イエスは彼に言われた。『この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。』イエスがオリーブ山で宮に向かって座っておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに尋ねた。『お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。また、それらがすべて終わりに近づくときのしるしは、どのようなものですか。』「いつ、そのようなことが起こるのですか」。ここで4人の弟子たちが尋ねた「そのようなこと」とは、彼らがオリーブ山に座って見ていた神殿の崩壊です。いつこの神殿が崩壊するのか。その質問に対して、イエスさまは5節以降答えていくのです。

ここで私たちは「神殿の崩壊」という出来事の大きさを理解する必要があります。神殿の崩壊とは、単に礼拝の建物が壊れるというだけのことではありません。当時は宗教と政治と文化が一つでしたから、神殿が崩壊するということは、国が滅亡することを意味しました。今の日本でいえば、決してあってはならないことですが、東京に核が落ちるようなイメージ、あるいはそれ以上かもしれません。考えただけでもゾッとするような出来事です。それほどこの「神殿崩壊」という出来事は大きな意味をもっていました。まさに「この世の終わり」だったわけです。いつ、神殿を中心にした今のこの世界は、この時代は終わってしまうのか。弟子たちは大きな恐れをもってイエスさまに尋ねたことでしょう。

マルコの13章のテーマは「神殿の崩壊」。それはたしかにそうです。しかし、私たちはそこに留まってはいけません。もし私たちがこの13章を単に「神殿崩壊」を予告している歴史的な文書と読むならば、そこに生ける神のことばはありません。私たちはこの箇所から、2000年前、弟子たちに神殿の崩壊を預言されたイエスさまは、終わりの時代に生きている現代の私たちに何を語ろうとしておられるのかを読み取り、聴き取っていかなければなりません。聖書は過去に書かれた書物であるのと同時に、すべての時代のあらゆる人々に語り続けている神のことばだからです。これから3回に分けてこの13章を読んでいきますが、私たちはその信仰の姿勢を常に意識し、大事にしていきたいと思います。

 

終わりがあることを知る

それでは、今日の箇所を見ていきましょう。今日は三つのポイントからみことばに聴いていきたいと思います。一つ目は、「終わりがあることを知る」です。「終わりがあることを知る」。当たり前と思われるかもしれません。しかし考えなければならないのは、私たちは本当に「終わりがある」ということを信じて生きているかということです。イエスさまと弟子たちが見ていたエルサレムの神殿はそれはそれは立派なものでした。この神殿は元々あったものをヘロデ大王が大拡張して、一大建造物に仕上げたというものですが、ヘロデ大王が造った数多くの建造物の中でも最高傑作と呼ばれるほどの素晴らしいものだったようです。1節には「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と感動している弟子たちの様子がありますが、おそらく神殿を訪れた人すべてが同じように感動をおぼえていたのだと思います。この素晴らしい神殿が数十年後にローマ軍の手によって焼き払われ、廃墟となるなどと誰も想像していなかったはずです。

しかし、イエスさまはそれをご存知でした。11章のいわゆる「宮清め」の箇所でも見たように、当時の神殿は「強盗の巣」と呼ばれるほどに堕落しきっていました。そこでイエスさまは、売り買いしている者たちを追い出し、台や腰掛けを倒すことによって、この神殿に神さまの裁きがもたらされることを行動をもって預言しました。そしてこの13章では弟子たちに対して、今度はことばをもってはっきりと神殿の崩壊を宣言したのです。

「終わりがあることを知る」。私たちはどれほど真剣に考えているでしょうか。頭では分かっている。けれどもどこか、目の前にあるこの世界がずっと続くかのように思っていないだろうか。もちろん、先のことを考えて計画を立てるのは大切なことです。人生設計も必要でしょう。しかし、それを絶対視してはいけません。これだけ綿密に人生プランを立てたのだから、もう安心だ。これだけ貯蓄があるのだから、もう心配はいらない。それは、自分の心の中に神殿を造りあげているようなものです。これがあれば自分は絶対大丈夫。絶対安全だ。絶対、絶対。しかし、たとえどれだけ私たちの目にそれが確かに思えても、目に見えるものに絶対はありません。見えるものにはいつか必ず終わりがやってくる。

では、私たちはどこに希望を置けばよいのか。神のことばです。来週の箇所ですが、1331節にはこうあります。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」。神さまのことばは決して消え去ることも、揺らぐこともない。たとえ今、目に見えているものがすべて滅び去ろうと、神さまのことばは必ず実現する。イエスさまが宣べ伝えた神の国の完成は必ず、絶対にやってくる。「終わりがあることを知る」生き方とは、目に見えるものではなく、目に見えない神のことばを自らの土台とする生き方です。

 

惑わされない

しかし、終わりがあることを意識して生きる中で、私たちが注意しなければならないことがあります。それがポイントの二つ目です。5-8節「それで、イエスは彼らに話し始められた。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそ、その者だ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞いても、うろたえてはいけません。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで地震があり、飢饉も起こるからです。これらのことは産みの苦しみの始まりです。』」私たちが注意しなければならないこと、それは「惑わされない」ことです。私たち人間は「この世の終わり」の話をするのが大好きです。興味津々です。何かがある度に、「世の終わりのしるしだ!」と騒ぎ立て、世間を混乱に陥れていく。「〇〇年に世界は終わる」、そういった根拠のない予言は探せばいくらでも出てきます。あるいは、自分こそが再臨のメシアだと主張し、終わりはすでに来ていると人々を煽動していく。オウム真理教の麻原彰晃はまさにそうでしたし、元統一協会の文鮮明もそうです。

なぜここまで人間は「世の終わりの話」が好きなのか。それは、終わりに対する根源的な恐怖があるからだと思うのです。世界が終わったらどうしよう。自分は一体どうなるんだ。早く真実が知りたい。そのような好奇心が入り混じった恐怖と焦りによって、どんどんおかしな方向へと進んでいく。しかしイエスさまは言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい。うろたえてはいけません」。偽キリストの出現や戦争や紛争、地震、飢饉が起きても、そういうことは必ず起こることで、まだ終わりではない!それは産みの苦しみの始まりに過ぎない!だから周りがどれだけ騒ごうと、あなたたちは決してそれに惑わされてはいけない。うろたえてはいけない。好奇心のままに先走ってはいけない。落ち着いて冷静に、神のことばに留まり続けなさい。とても大切なことです。このことについては再来週、13章の最後の箇所で改めて考えていきたいと思います。

 

最後まで耐え忍ぶ

最後に、三つ目のポイントは「迫害」です。9節から13節では迫害について書いてあります。終わりの時代、教会は迫害に遭うということです。事実、教会の宣教の歴史は、そのまま迫害と殉教の歴史と言い換えることができます。古代2世紀の神学者でテルトゥリアヌスという人は、「殉教者の血は教会の種子である」ということばを残しています。聖書を見ても、使徒の働きの中で、ステパノの殉教の死によってクリスチャンが各地に散らせ、教会が増え広がっていったということが書かれています。それは現代も同じです。2021年の調査によると、現在も3億6千万人、世界中のクリスチャンの7人に一人が迫害の下にあるそうです。そして2021年には6千人以上が信仰のゆえに命を落としたと言われています。しかし同時に、そういった迫害が起こっている国々で現在爆発的に福音が広がっているというのもまた事実です。

迫害に関することで、私には忘れられないことばがあります。以前、迫害に遭っているクリスチャンのために祈る時間があったとき、実際に迫害下にある方からの祈祷課題がシェアされたのですが、そこにはこういった内容のことが言われていました。「迫害が止むようにではなく、迫害の中にあっても信仰に堅く立ち続けることができるように祈ってください」。非常に重い信仰のことばだと思いました。決して外野の人間が言うことのできない、当事者にだけ許されたことばです。彼らは、彼女たちは、神の福音が宣べ伝えられるとき、それを邪魔し、押さえつけようとするこの世の悪の力があることを知っています。神の国と悪の力がせめぎ合っているこの終わりの時代、迫害は避けられないことを知っています。しかしその中で、「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」という13節のイエスさまのことばを信じ、揺るがない神のことばに希望を置き、歩んでいるのです。

もちろん、私たちは悪を黙認してはいけません。私たちはキリストの手足として、キリストがそうされたように、この世の悪に立ち向かう使命を負っています。しかしもう一方で私たちが覚えておかなければならないのは、今の世にある限り、苦難はなくならないということです。私たちの手で悪の力を滅ぼすことはできません。すべての問題を解決することはできません。では私たちは苦難の中で力尽き絶望するしかないのか。そうではありません。やがて必ずイエス・キリストが再び来られて、この世の悪をすべて滅ぼし、神の正義をもたらしてくださる、完全な救いをもたらしてくださるときが来る!その希望をもって、私たちは「最後まで耐え忍ぶ」のです。

現代人は何事もすぐに解決することを望みます。そしてすぐに解決しないと、早々に諦めをつけ、他の道を探します。耐え忍ぶことを忘れてしまっている、それが現代社会かもしれません。しかし、揺るがない神のことばに土台を置く私たちは、最後まで耐え忍ぶ力を、希望を与えられている。この終わりの時代を、粘り強く、耐え忍んで生きることができる。それが終わりの時代に生きる私たちキリスト者の歩みです。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます」。このキリストの約束に堅く立ち続けていきましょう。

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