Ⅱコリント1:20「真実な神に祈る」

 

おはようございます。明けましておめでとうございます。2023年の歩みを愛する皆さまとともに御言葉に聴くことから始められることを大変うれしく思っています。新しい1年もどうぞよろしくお願いいたします。

今日は元旦礼拝とともに1月の第一主日ということで、主の祈りについて御言葉に聴いていきましょう。はじめに年間聖句をともに読みましょう。週報表紙の一番上をご覧ください。「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」(ルカ11:1)。「祈りの生きる教会」、この目標から、イエスさまが教えてくださった主の祈りを順番に学んでいます。今日は主の祈りの最後、「アーメン」です。これは主の祈りに限らず、あらゆる祈りの最後に付けられることばです。1年のはじめの礼拝を「アーメン」から始めるというのはどうなのだろうと思われた方がいらっしゃるかもしれません。私もはじめはそう思いました。しかし準備をすればするほど、この「アーメン」こそ1年のはじめに聴く御言葉にふさわしいと思うようになりました。

 

真実を語る

「アーメン」は世界共通のことばです。「エイメン」「アメン」「アミーン」など、多少の違いはありますが、おそらくキリスト教が伝わっている地域であればどこでも必ず通じることばです。そのようなことばは他にないと思います。「アーメン」というのはそれほど特別なことばだということです。

では「アーメン」ということばはどこから来ているのか。元は旧約聖書が書かれたヘブル語です。発音は日本語とほぼ同じ「アーメン」でして、「本当に」「確かに」という意味をもっています。旧約聖書の中でもすでに礼拝や祈りの中で用いられることばとして出てきます。そしてそれがそのままギリシャ語のことば(「アミーン」)になり、新約聖書にも記され、そこから世界中のあらゆる言語に広がっていったということのようです。

「アーメン」、「本当に」、「確かに」。では何が「本当に」「確かに」なのか。まず大切なのは、「私が今口にしたことは真実です」ということです。偽りはないということ。宣誓のような意味合いと言ってもいいかもしれません。あるいは、誰か他の人の祈りに合わせて最後に「アーメン」という場合には、「私も心から同意します」という意味になります。「異議なし」ということです。ともに「アーメン」と口にした瞬間、その祈りは個人の祈りではなく、「私たち」の祈りになっていく。

神さまの前に真実なことばを語る。これはとても大切なことです。立派なそれっぽいことばだけを並べて、思ってもいないことを神さまの前で口にする。他の人が祈っている最中、ウトウトとしていて何も聴いていなくて、はっと目が覚めて、最後の「アーメン」だけを慌てて言う。神さまはそのような祈りを聴いてどのように思われるだろうか。私たちは真剣に考える必要があります。ことばというのは単なる音声ではありません。単なる文字記号でもありません。ことばとは心です。心の伴わないことば。そこに真実はありません。神さまは真実を求めるお方です。神さまの前に真実なことばを語るということ。私たちは改めて自分のことばを見つめ直さなければなりません。

けれどもそれを考え始めると、果たしてこの地上に「真実な祈り」はあり得るのだろうかと思わざるを得ません。神さまの前に真実を語る。けれども自分のことばを振り返ると、そこにあるのは不誠実さです。薄っぺらいことばしか発することのできない自分。今日はこう願えば、明日はこう願う。勝手な都合で神さまを振り回そうとする自分。自分のことばを、他の人のことばを、神さまのことばを簡単に捻じ曲げてしまう自分。

それは、聖書が描く人間の姿でもあります。旧約聖書の申命記27章を見ると、様々な神さまの戒めが読み上げられる中で、それに「アーメン」と応答する神の民の姿が描かれています。私たちは神さまが言われることすべてに従います。「アーメン」、「アーメン」。その時の彼らは真剣だったでしょう。しかし、その「アーメン」は偽りであったことがその後の歴史で明らかになります。あの「アーメン」は一体なんだったのか。「アーメン」と言わなかった方がまだマシだったかもしれません。「これは真実です」、神さまの前に告白したにもかかわらず、それを平気で破る神の民。そんな私たちが一体どの面を下げて神さまに「アーメン」と祈ることができるのか。一体誰が私たちの祈りを聴きたいと思うだろうか。「お前たちの祈りなんかもう聴くに耐えない」。神さまに愛想を尽かされて当然ではないか。

 

アーメンである方

そこに現れたのがイエス・キリストです。新約聖書では「アーメン」ということばが128回出てきますが、その内の100回はイエスさまご自身が語られたことばです。「まことに、まことに、あなたがたに言います」。「まことに」は「アーメン」ということばです。「アーメン、アーメン」と語られたイエス・キリスト。ここに私たちは、真実な人としてきてくださった真実な神さまのお姿を見ます。私たちの内にアーメンはありません。真実はありません。聖書の中でも、イエスさま以外に「まことに、まことに」と語った人は誰もいません。一人もです。語ることができないという方が正しいでしょう。私たちは神さまの前に真実なことばを語ることができない。本来であれば神さまの前に出て祈ることなどできない存在です。神さまは真実を求めておられるお方ですから。しかし、私たちを愛してやまない真実な神さまは、私たちと真実に語り合いたいと願い、人となってこの地上に来てくださいました。「まことに、まことに」「アーメン、アーメン」と、私たちに神さまの真実なことばを語ってくださいました。そして、私たちに祈りを教えてくださった。私たちがもう一度神さまと真実な語り合いができるように、私たちを祈りの世界へと招き入れてくださいました。

ヨハネの黙示録314節はイエス・キリストのことを「アーメンである方」と記しています。私たちの内にアーメンは、真実はない。しかし、イエス・キリストが私たちのアーメンに、私たちの真実になってくださった。だから私たちは「アーメン」と神さまに祈ることができるのです。今日の御言葉にはこうあります。「神の約束はことごとく、この方において『はい』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです」。私たちはイエス・キリストによって「アーメン」と祈ることができる。神さまの御前に出て、神さまと語り合うことができる。私たちの不誠実なことばを、神さまはイエス・キリストを通して、真実なことばとして聴き入れてくださる。私たちはそれを確信して、祈りの最後に「アーメン」と告白するのです。

祈って一体何が変わるのか。祈っても何も変わらないじゃないか。祈りが分からなくなる。祈っても虚しさだけが募る。そのように感じることがもしかしたらあるかもしれません。そのように感じるとき、多くの場合私たちには祈りの相手が見えていません。祈りが単なるモノローグに、独り言になってしまっている。自分のことばを受け取ってくれる人がいない。ただことばが虚しく空に響くだけ。

しかしそのようなときこそ、「アーメン」と力強く告白したいのです。「アーメン」というのは、自分の真実な祈りを聴いてくださいという嘆願のことばではなく、真実な神さまはこの祈りを聴いてくださっていますという信頼の告白です。私たちが「アーメン」と祈るとき、天で父なる神さまの右の座におられるイエス・キリストも声を合わせて、ともに「アーメン」、「この祈りは真実です」と祈ってくださっている。イエス・キリストを通して、私たちの祈りは天に届いている。自分のこのことばを、この祈りを聴いてくださるお方がいる。自分のたましいの叫びを受け取ってくださるお方がいる。それだけで私たちは生きるのが楽になる。私はそう思います。

「アーメン」。神さまは私たちの祈りを聴いてくださっている。この信仰の告白を、この確信をもって、2023年、新しい1年の歩みを始めていきましょう。最後に、イエス・キリストが私たちに教えてくださった主の祈りをともに祈ります。主の祈り。

 

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン。

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