マタイ2:1-12「この上もない喜び」

 クリスマスおめでとうございます。今年もクリスマスがやってきました。みなさんは今年のクリスマスをどのような気持ちで迎えておられるでしょうか。様々な気持ちを抱えてこの場に集っている私たちですが、今このひととき、みことばに聴きながら、イエス・キリストに思いを向けていきましょう。

 

危険なクリスマス?

今年は博士たちの箇所を開いています。改めて読んで、みなさんはどのような印象をもたれるでしょうか。私が今年抱いた印象は、この箇所は非常に政治的な争いが描かれているということです。ユダヤ人の王の星が昇るのを見て、東の方からやってきた博士たち。ユダヤ人の王ですから、まずは都のエルサレムの可能性が一番高いだろうと思い、彼らはまずヘロデ王のもとに行きました。するとそれを聞いて動揺するヘロデ。当然です。今は自分がユダヤの王なのに、その自分の地位を脅かす存在が生まれた。なんとしてもそれを阻止しなければならない。そこで、「自分も後で拝みに行きたいから、見つけたら知らせてくれ」と博士たちを騙し、利用しようとします。けれども博士たちに裏切られ、結果、2歳以下の男の子はみな殺せと命令し、悲劇が起きていく。自分の地位を脅かす可能性のある存在は徹底的に排除しなければ気が済まない。権力者の哀れな姿があります。

祭司長たち、律法学者たちもそのヘロデを止めることはできませんでした。彼らはユダヤ人の王がベツレヘムで生まれることを知っていました。しかし、自らそこに関わろうとはしませんでした。それ以上深入りしようとしなかった。ヘロデの機嫌を損ねてはいけないと思ったのかもしれません。今のこの微妙なバランスで成り立っている秩序を壊してはいけない。現状維持が一番。頼むから平穏に生きさせてくれ。事を荒立てないでくれ。

このような様子を見ていると、クリスマスの出来事というのがいかに「危険」な出来事だったのかが分かります。ユダヤ人の王が生まれる!クリスマスは危険な出来事でした。この世の秩序の根底を覆す革命的な出来事だった。ですから当然権力者たち、既得権益層はそれを阻止しようとした。ユダヤ人の王の誕生を無かったことにしようとした。

これは当時だけの話ではありません。後のローマ帝国でのキリスト教徒の迫害、戦時下の日本での迫害、また現在も続いている中国や北朝鮮での迫害。なぜクリスチャンは、教会は国家から弾圧され続けてきたのか。教会はイエス・キリストがこの世界の王だと信じ告白しているからです。もちろん、神の国はこの世の国とは違います。以前マルコの箇所で見たように、カエサルのものはカエサルにです。しかしそのカエサル、国家の上にイエス・キリストがおられる。イエス・キリストこそがこの全世界を治めておられる王である。だからこの地上の権力者は困るわけです。自分たちこそが地上の権力者。それに代わる存在がいてもらっては困る。ならば彼らを徹底的に弾圧するしかない。結果、国家による弾圧が起こっていく。

クリスマスは危険な出来事である。このことを私たちはまず心に留めたいと思います。時折、イエスさまは私たちの心の中に生まれてきてくださった。私たちに心の平安を与えるために生まれてきてくださった。クリスマスとは、私たちの心の中で起きる出来事。そのようなことばを聞くことがあります。大事なことです。それを確かなことです。しかし、決してそこに留めてはいけません。クリスマスを、イエスさまを私たちの「心の中」に押し込めてはいけません。クリスマスは心の中には到底収まり切らない、この世界の出来事だからです。全世界を揺るがす大きな大きな出来事。この世界を治める王がお生まれになった!この地上を我が物顔で支配している権力者たちがその座から引き摺り下ろされるときがやって来た!後の者が先になり、先の者が後になる、強き者がくじかれ、弱き者が誉れを受ける、神の国の大逆転がこのキリストによってもたらされようとしている!クリスマスは、イエス・キリストの誕生は、世界規模、いや、宇宙規模の出来事です。だからこそ教会は、全世界に向かってイエス・キリストの誕生を告げ知らせる。このクリスマスの出来事の大きさ、イエス・キリストの大きさを私たちは改めて受け取っていきたいと思います。

 

博士たちの喜び

そして、このクリスマスの出来事の大きさ、イエス・キリストの大きさをしっかりと受け止めていたのが今日の博士たちでした。この「博士」ということば、ある他の聖書では「占星術の学者」と訳されています。占星術、星占いのことです。今の時代「星占い」というとオカルト的な感じがしますが、当時は星占いも最先端の学問でした。彼らは天文学者でもあったわけです。けれどもいかに学者であろうと、占いは占いです。旧約聖書で占いは忌むべきものとされています。ユダヤ人たちからすれば、彼らはいかがわしい存在だったわけです。しかし、このマタイの福音書で彼らはどう描かれているか。ユダヤ人は自分たちの王の誕生に関心を示さないどころか殺そうとまでしている中、唯一博士たちだけがその王を求めてイエスさまのもとに行き、イエスさまを礼拝しました。しかもきっかけは忌むべき星占い。驚きの出来事です。ルカの福音書の羊飼いたちもそうですが、神さまは通常では考えられない、社会の周縁、縁にいる人々にまず福音を届けられました。福音の驚きです。

そして彼らは神さまから与えられた福音を喜びました。10節「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」。「この上もなく喜んだ」、これは直訳すると「大きな喜びを非常に喜んだ」という表現になります。文字通りこの上もない喜び、それ以上上がないほどの大きな大きな喜びです。大の大人たちがキリストを指し示す星を見つけて大はしゃぎしている。無邪気でまっすぐな喜び。思わず読んでいる私たちまでもがどこかうれしくなってしまうほどです。そして11節「それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」。黄金、乳香、没薬、これは当時の世界で通常王さま、あるいは神にささげられるものです。つまりは彼らがもっている中でも最高の贈り物ということです。それが母マリアとともにいる小さな赤ん坊にささげられた。美しい礼拝の場面です。

イエス・キリストとの出会いはこれほど喜ばしいことである。この博士たちの姿から私たちは、自分たちがイエス・キリストとはじめて出会ったときのあの喜びを思い起こしたいのです。イエスさまに辿り着くまでの道は様々だったでしょう。もしかしたらきっかけは少しいかがわしい、あまり誇れるようなものではないかもしれない。ある方は長い道のりをゆっくりと来られたかもしれない。途中で何かの妨害にあった方もいらっしゃるかもしれない。イエスさまに出会うまでの道は人それぞれです。けれども共通することとして、私たちはみなイエスさまと出会ったその時、この上もない喜びを味わったはずです。「大きな喜びを非常に喜んだ」、そう表現するしかできない、これまで味わったことのない喜びがあったことを思い出します。この方の前にはひれ伏さずにはおられない。自分がもてる最高のものをこの方におささげしたい。人生を変える感動がありました。

クリスマスは年に1回必ずやってきます。もう何十回と経験されている方も多いでしょう。毎年毎年クリスマスを迎えていると、私たちはどうしても慣れてきてしまいます。同じ聖書の物語、同じようなメッセージ、同じような時間の過ごし方。イエスさまと出会った喜びがいつの間にか遠のいてしまっている。気づいたらいつの間にか、クリスマスの知識はあるけれども、その喜びの中に身を投じていこうとしない、祭司長や律法学者たちのようになっている、そのようなことがあるかもしれません。そのような時こそ、私たちはこの博士たちの姿から、今一度クリスマスの喜びを、イエス・キリストと出会うことの喜びを思い起こしていきましょう。あの時の求道の思いを、感動を、この上もない喜びを思い起こしていきましょう。この方に自分のすべてをささげていきたい。キリストへの献身の思いを新たにしていきたい。このクリスマスのとき、世界の王がこの地上に生まれてきてくださいました。

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