マルコ12:28-34「愛の原点」

聖書の中で最も重要な命令は何か。ユダヤ教では古くから、聖書には613の守るべき命令、戒めがあるとされています。私たち教会からすれば旧約聖書に当たりますが、そこには「〜しなさい」という積極的な戒めが248、「〜してはいけない」という否定的な戒めが365、合わせて613の戒めがあるそうです。ただし、そのすべてが等しく重要なわけではありません。例えば、あなたには他の神があってはならないと命じる十戒の第一戒と、他の人から借りた家畜を死なせてしまった場合には償いをしなければならないという戒め(実際にある戒めです)、どちらがより重要かと言えば、もちろん十戒の第一戒の方が重要なわけです。このような議論は当時のラビ、律法の専門家たちの間ではよくあったそうですので、今日の箇所のような議論も決して珍しいものではなかったようです。

28節「律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。『すべての中で、どれが第一の戒めですか。』」これまで律法学者と言えば、イエスさまを引っ掛けようとする意地悪な質問ばかりしてきた印象がありますが、今日のところに出てくる律法学者は純粋な尊敬の思いから質問をしたようです。イエスというこの素晴らしいラビ、先生は何と答えるのだろうか。弟子が先生に対して質問するように彼は問いかけました。

29-30節「イエスは答えられた。『第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。』」前半の第一の戒めは旧約聖書申命記64-5節、後半の第二の戒めはレビ記1918節からの引用です。たくさんある旧約聖書の戒めの中で、この二つこそが最も重要な命令である。それがイエスさまの答えでした。

 

信じること、愛すること

ここで二つのポイントを確認したいと思います。一つ目は翻訳の問題です。私たちが使っている新改訳聖書をはじめ、ほとんどの翻訳聖書はここにある二つの戒めを「愛しなさい」と命令形で訳しています。イエスさま自身「命令」と言っていますから、これは正しい翻訳です。ただしこの箇所を原文から直訳すると、少し違ったニュアンスが出てきます。第一の戒めはこうです。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛するだろう」。そして第二の戒めは、「あなたの隣人を自分自身のように愛するだろう」。「愛するだろう」、原文ではここが命令形ではなく未来形で書かれています。ここから私たちは何を読み取ることができるか。そこで目を向けたいのは、一番はじめのことばです。「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である」。主こそが私たちの神。私たちは唯一の神を、主を信じている。であるならば、私たちは主を愛するはずではないか。そして主を愛しているならば、隣人のことも愛するはずではないか。これが未来形の意味です。もし本当に私たちが主を唯一の神として信じているならば、わざわざ「愛しなさい」と命令されずとも、自ずと主を愛するだろう。隣人を愛するだろう。主を信じることと愛することは決して分離しない、一つのことです。

そして同じように、主を愛することと、隣人を愛することも決して分離しない、一つのことです。これが二つ目のポイントです。律法学者は、「どれが第一の戒めですか」と聞きました。求めていたのは一つの答えです。しかしイエスさまはそれに対して、第一の戒めは主を愛すること、第二の戒めは隣人を愛することだと答えた。なぜか。主を愛することと隣人を愛することは二つで一つだからです。主を信じる者は主を愛します。そしてもし主を愛しているのならば、その主が愛をもって造られた隣人を愛するのは当然のことです。主を愛する者は人を愛し、人を愛する者は主を愛している。第一、第二と順序はあっても、二つが分裂することは決してありません。もし二つが別々のものになっているのならば、それは真の愛ではないということ。

けれども私たちはしばしば、二つを分けて考えてしまい、その分裂に悩むことがあるのではないでしょうか。主を愛したい。主に従っていきたい。けれどもそれを貫こうとすると、人に愛を注げなくなってしまう。隣人を蔑ろにしてしまう。イエスさまが批判した当時のパリサイ人、律法学者たちはまさにそうでした。それは偽善である。そこに真の愛はない。イエスさまは厳しく指摘しました。

けれども反対に、隣人を愛そうとするときに、主への愛が蔑ろになってしまうこともあります。「今目の前にいるこの人を愛したいから、神さま、今だけちょっと目を瞑っていてください」。神さまから隠れるようにして人を愛していく。その人からは感謝されるかもしれません。世間体も保たれるかもしれません。けれども、神さまはどう思われるか。そこにあるのは真の愛なのか。

「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」。これは二つで一つです。真の愛は、主への愛を隣人への愛の両方を満たします。そして33節にあるように、真の愛は「どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています」。聖書に書いてある細かい戒めをどれだけ守っていようと、はたから見てどんなに「良いこと」をしていようと、そこに神と人への愛がないならば、それは偽りだということ。

 

「そこに愛はあるんか」

みなさんはアイフルのテレビCMをご存知でしょうか。定期的に新しいバージョンが出てきて、個人的にとても好きなCMなのですが、そこには一貫してある一つの決め台詞があります。「そこに愛はあるんか」。まさに今日の箇所にぴったりの決め台詞です。「そこに愛はあるんか」。クリスチャン、キリスト者の歩みというのは、ただ単に聖書というルールブックに従って生きるものではありません。あれをしていればそれでいい、これをしていればそれでいい、ではありません。キリスト者の歩みというのは、愛を追求する歩みです。何をするにも、何を語るにも、「そこに愛はあるのか」、そこに神と人への愛はあるのかと、祈りのうちに自分自身に問いかけていく。思考停止に陥ってはいけません。常に神と人への愛を追求する。追い求めていく。

これは大変なことです。簡単ではありません。祈りのうちに自分自身に問いかけていく中で、私たちはすぐに自分自身の愛のなさに気づきます。自分が発した言葉、自分がした行動を振り返り、「あぁ、愛がなかったなぁ」と後悔をする。あるいは、言葉を発している最中、行動している最中、「ここには愛がない」と自覚していても、やめることができない。「なぜ自分はこんなにも愛がないのか」、自己嫌悪に陥っていく。「こんな自分にはもう無理だ」、諦めをおぼえることもあるかもしれません。

それはいつの時代のキリスト者も同じです。16世紀のドイツで生み出された『ハイデルベルク信仰問答』、昨年から祈り会で学んでいますが、そこでは神さまの律法の要約として今日の箇所の「神と人を愛する」ことが教えられた後、このように問います。問5「あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。」答「できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。」「できません」、開き直っているのかと言いたくなるほどのはっきりした答えです。私たちは神と人を愛するという神さまの戒めを完全に行うことができない!それどころか、「神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている」!そこまで言うかと思いますけれども、大事なのは「心が傾いている」ということです。「傾いている」ということは、抗うことが難しい、できないということです。私たちは神を愛したいと願う。隣人を愛したいと願う。けれども、そうさせない何かが自分の中にある。何かが愛を邪魔している。なかなか抗うことができない。いつも負けてしまう。それが「心の傾き」です。私は神と人を完全に愛することができない。この現実を私たちは認めなければなりません。

 

本物の愛を知る

しかし、そこで終わってはいけません。そこから私たちはどこに目を向けていくのか。イエス・キリストです。一箇所開きましょう。ヨハネの手紙第一47節(新483)「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」愛が分からなくなったとき、愛を見失ったとき、私たちはどこに目を向けるのか。本物の愛、神の愛に目を向けるのです。愛のなさを嘆く中で、私たちは神さまに目を向ける。すると何に気づくか。その罪深い自分をも愛してくださる神さまのお姿に気づくのです。神さまは私たちを愛で満たすために、心の傾きを治すために、ご自身の御子を、イエス・キリストを遣わしてくださった。ここに愛がある。こんな自分でも神さまに愛されている。神さまに愛されている自分を再発見します。そこから私たちの愛が始まります。本物の愛を知ってはじめて、愛で満たされてはじめて、私たちは神と人を愛することができるようになります。いただいた愛を神さまにお返ししていく。そして他の人にお裾分けしていく。愛の応答、愛のお裾分けです。完全な愛を実践するのは容易いことではありません。私たちは何度も挫折することでしょう。けれどもその度に本物の愛に帰っていく。愛の原点に帰っていく。何度でも何度でも愛で満たされ、神と人を愛する者として成長していく。それがキリスト者の愛を追い求める歩みです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」このクリスマスのとき、本物の愛が私たちに与えられていることを改めて思い起こしていきましょう。

このブログの人気の投稿

コロサイ3:1-4「上にあるものを思う」(使徒信条No.7)

マルコ8:11-13「十字架のしるし」

マルコ15:33-39「この方こそ神の子」