ヨハネの黙示録11:15-18「確信ある祈り」

 

先ほどヨハネの黙示録のみことばを読んでいただきました。いったいなぜこの箇所と思われた方もおられるかもしれませんが、今日は第二アドベント礼拝とともに12月の第一主日でもありますので、今年の年間目標、主の祈りについて、みことばに聴いていきたいと思います。はじめに年間聖句をともに読みましょう。週報表紙の一番上をご覧ください。「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」(ルカ11:1)。「祈りの生きる教会」、この目標から、イエスさまが教えてくださった主の祈りを順番に学んでいます。前回は「悪からお救いください」という祈りを扱いましたので、今日はその次、アーメンの手前の「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」という部分を扱いたいと思います。ただこの部分、ご存知の方も多いと思いますが、実は聖書の本文にはありません。主の祈りが載っているマタイの福音書69-13節を見ると、本文の祈りは「悪からお救いください」で終わっていて、欄外中にこう書かれています。「後代の写本に『国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。』を加えるものもある。」つまり、「国と力と栄えは〜」の部分はオリジナルの主の祈りにはなくて、後の時代に教会が加えたものだということです。最近の聖書はどれもこの部分を本文に入れずに、欄外中に載せるようにしています。

 

祈りのクライマックス

そのため中には主の祈りの説教をするときにこの部分を扱わない説教者もいます。これはもちろん説教者の判断によりますから、良い悪いはありません。けれども私は主の祈りを学ぶのであれば、この最後の部分を抜かすことはできないと思っています。後から教会が付け加えたと言えばそれはそうなのですが、そこには確固たる理由があったわけです。「国と力と栄えは、とこしえのあなたのものだからです」。これは神さまへの賛美のことばです。祈りを賛美のことばで閉じていく。素晴らしい祈りの姿勢です。ある意味でこの部分こそが祈りのクライマックスであると私は思っています。

実は、この主の祈りにメロディをつけてそのまま曲にしたという賛美歌があります。「新聖歌」や「教会福音讃美歌」などの歌集には載っています。作曲したのは天田繋というすでに召された先生で、私が学んだ神学校で教鞭を取っておられました。この「主の祈り」の曲は素晴らしい賛美歌ですので、ぜひYouTubeなどで聴いてみてください。この曲は主の祈りのことばにあわせてメロディが進んでいくのですが、曲のクライマックスがどこで来るかというと、この最後の「国と力と栄えは〜」の部分なのです。その前の「試みにあわせず、悪から救い出し」の部分は少し暗く、重いメロディで進んでいくのですが、「国と力と栄えは〜」の部分になると、天が開けたように一気に上昇気流にのって、高らかな歌声が響くようになります。「悪からお救いください」、この地上の暗闇の現実で必死に願いながらも、最後は天に目を上げ、万軍の主をほめたたえる賛美のことばで祈りを終えていく。主の祈りのクライマックスです。

 

勝利の先取り

この賛美のことばが記されている箇所の一つとして、今日はヨハネの黙示録のみことばを開いています。黙示録は大変な複雑な構造をもっている書でして、5章でキリストの十字架の勝利を描いた後、続く6章から16章にかけて、キリストのよみがえりから再臨までの期間を三つの視点から繰り返し描くという書き方がなされています。十字架の勝利から新天新地の到来までを、螺旋階段のように一周、二周、3周と違う視点から語っているということです。そしてこの11章はその中のどこに位置しているかと言いますと、螺旋階段の二周目の最後、新天新地の到来の場面です。色々とややこしい話をしましたが、この11章の最後は新天新地の到来を先取りして書いているということだけ押さえておいてください。

そこで目を留めたいのが15節です。「第七の御使いがラッパを吹いた。すると大きな声が天に起こって、こう言った。『この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。』」先ほど申し上げているように、この箇所が描いているのは新天新地の到来です。将来のことです。しかし15節はなんと語っているか。「私たちの主と、キリストのものとなった」。過去形です。すでに起こったこととして記している。少し気が早すぎるんじゃないか。そう思ってしまいます。今のこの世界を見ると、権力者たちが国を好き放題に動かしています。ニュースを見るたびに、この世界にいまだ蔓延っている強大な悪の力を目の当たりにさせられます。ヨハネの黙示録が書かれた当時も同じでした。黙示録を受け取った教会の中には、厳しい迫害に置かれている人々がいました。大きな苦難を経験していた。その中でヨハネが送ったこの黙示録の手紙。黙示録の重要なテーマの一つは「耐え忍ぶ」ことです。迫害の中にあっても信仰を捨ててはいけない。死に至るまで忠実でありなさい。何度も励ましのことばが記されています。

けれども「耐え忍ぶ」ことは容易ではありません。確固たる希望が必要です。そこでヨハネは神さまから示された新天新地の幻を書き記しました。しかもそれは不確かな未来ではなく、すでに決定づけられた将来なのだと力強く語った。それがこの箇所の過去形です。「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される」。この地上の現実を見たら、権力者たちが国と力と栄えを自らのものとして好き放題に振る舞っています。18節の最後には「地を滅ぼす者たち」とあります。このまま人間が好き放題に振る舞っていたらこの世界は滅びてしまう。核兵器の登場によって、私たちはそれが本当に起こり得るのだということを知りました。この世界は崖っぷちに立たされている!

しかし、「地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です」、聖書は確信をもって語ります。神さまの勝利はすでに決定している!この世の権力者たち、地を滅ぼす者たちが滅ぼされ、神さまがこの地上のすべての国を治めるときがやって来る!ある説教者はこの箇所に「先取りされた勝利宣言」というタイトルをつけました。私たちは暗闇に満ちたこの地上にあっても、確信をもって勝利を宣言することができる!勝利宣言を先取りすることができる!これがヨハネの黙示録の語る希望です。

 

ヨハネの幻を見る

そして、主の祈りの最後の賛美のことばも同じです。主の祈りを祈る中で、私たちは現実とのギャップを感じざるを得ません。「御名が聖なるものとされますように」と祈りながらも、目の前にあるのは御名が汚されている現実。神なんているわけない。神を信じるなんて馬鹿げている。この世界の声が耳に入ってきます。「御国が来ますように」。御国は一体どこにあるのか。「みこころが地でも行われますように」。みこころが全く行われていない現実。いや、そもそも自分自身がみこころを行えていないじゃないか。「日ごとの糧をお与えください」。いくら祈っても、多くの人が貧困で苦しんでいる現実は変わらない。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも赦します」と祈りながら、いつまで経っても人を赦せない自分がいる。「試みにあわせないで悪からお救いください」、何度祈っても、試みに負けて罪を犯してばかりの自分がいる。主の祈りと現実との間のギャップがあまりにも大きい。祈る意味がどこにあるのか。現実だけを見ていたら、この祈りが祈れなくなるかもしれません。

しかし私たちは祈りの最後に、この目を地上から天に上げ、ヨハネと同じ幻を見るのです。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」。神さまの勝利がすでに決定づけられていることを思い起こします。「とこしえにあなたのものだからです」。「だからです」、これは祈りの根拠です。もし国と力と栄えが神さまのものでなかったら、私たちの祈りは全くの無駄になるかもしれません。いくら祈っても、祈りが成就する保証はありません。しかし、国と力と栄えはすでに神のものとされている!神さまの完全な勝利は決定づけられている!だからこそ私たちは確信をもって主の祈りを祈ることができるのです。自分たちが祈っているこの祈りは、いつか必ず完全に実現する!御名が聖なるものとされ、御国が到来し、みこころが地上で行われ、日ごとの糧が与えられ、人を赦し、赦され、試みと悪に勝利する、完全な祈りの成就のときが必ずやってくる!確信をもつことができます。

 

「待つ」こと

最後に、このアドベントの時期に主の祈りを祈ることについて考えたいと思います。私は色々なクリスチャンのブログを読むのが好きなのですが、先日あるキリスト教書翻訳者のブログでボンヘッファーというドイツの神学者が書いた手紙が紹介されていました。ボンヘッファーは第二次世界大戦中のドイツでナチス政権に捕まり、最後は死刑に処されたのですが、彼が獄中で書いた手紙が多く残っていまして、その中の両親宛に書いた手紙の中に、このような一節があったそうです。「アドベントとは、待つ季節です。しかし私たちの一生もアドベントです。最後のアドベント、新しい天と新しい地が到来するときを待つ季節。アドベントを祝うとは、待つことができるという意味です。待つというのは美しい業です。まだ新芽も出ていないのに熟した実を割りたがるこのせっかちな時代が忘れてしまった美しい業なのです」。「アドベントを祝うとは、待つことができるという意味です」。現代に生きる私たちは、いよいよ待つことを忘れてしまっているのかもしれません。インスタントな時代、すぐに結果が、正解が、効果が出ることを求める。祈りも同じかもしれません。祈りはする。けれども自分の願い通りにならないと、すぐに神さまに失望する。祈ることを諦め、やめてしまう。

「アドベントとは、待つ季節です」。このアドベントのとき、私たちは改めて「待つ」ことを思い起こしたいと願います。今、目の前は暗闇かもしれない。なんの希望もないかもしれない。しかし、神さまの勝利は決定づけられています。私たちのアドベントが待ちぼうけに終わることは決してありません。2000年前、この地上に来てくださったイエスさまは、必ず再びこの地上に来て、完全な勝利をもたらしてくださいます。私たちの祈りは、主の祈りは必ず実現します。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」。この確信とともに、最後に皆さんで主の祈りをともに声を合わせて祈りましょう。

 

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン。

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