マタイ6:13「悪からお救いください」

 

今日は11月の第一主日ということで、年間目標に関するみことばにともに聴いていきます。はじめに年間聖句を確認しましょう。週報表紙の一番上をご覧ください。「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」(ルカ11:1)。「祈りに生きる教会」、この目標のもとに、イエスさまが私たちに教えてくださった「主の祈り」を順番に学んでいます。今日はその8回目です。前回はマタイの福音書613節の前半、「私たちを試みにあわせないで」という部分を扱いましたので、今回は後半の「悪からお救いください」の部分に焦点を当ててともにみことばに聴いていきたいと思います。

 

「悪」との向き合い方

特に今日考えたいのは「悪」についてです。みなさんご存知の通り、今世間では異端・カルト問題が騒がれていますが、そういった団体の一つの特徴として、この世の「悪」の存在を非常に強調するということがあります。自分たちだけが神の側にいる「善」で、それ以外のものはすべて悪魔の側にいる「悪」。自分たちだけがきよくて、外の世界は「悪」に牛耳られている。この世界は白か黒かのどちらか。はっきりしています。人を破滅に追い込むような多額の献金も、悪魔に支配されていた財産を神の側に復帰させるという大義名分のもとになされます。外から何を言われても、「これは悪魔の攻撃だ!」と叫び、外の世界をひたすら敵視していく。それが極限までいってしまうと、オウム真理教のように、殺人などの犯罪行為さえ「神のため」ということで正当化されてしまいます。

そういったニュースを見ながらみなさんはどのように感じるでしょうか。「私たちは違う!」確かにそうです。それが分かっているからこそ、みなさんここに集っておられるのだと思います。けれども、どのように違うのでしょうか。私たちがもっている聖書も間違いなく「善」と「悪」の存在を教えています。悪魔、サタンについても書かれています。堕落した世界にあって教会はきよめられているともあります。共通する部分はたくさんあるわけです。では特にこの「悪」ということについて、私たちはどのように考え、向き合っていけばよいのか。イエスさまは今日の箇所で大変重要なことを教えてくださっています。

 

悪の存在

まず考えたいのは、「悪」とはそもそも何かということです。今日の箇所の「悪」ということばは「悪い者」「悪しき者」とも訳すことのできることばです。実際にそのように訳している日本語聖書もいくつかあります。「悪い者」というとき、そこで意識されているのは個々の悪人を超えたところに存在している悪魔、サタンの存在です。聖書はサタンの存在をはっきりと語っています。お聴きくだされば結構ですが、1ペテロ58節にはこう書かれています。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」。「吼えたける獅子のように食い尽くそうと探し回っている」、大変恐ろしい描写です。サタンは何のために人々を探し回っているのでしょうか。サタンの目的は何でしょうか。それは、私たちを神さまから引き離すことです。創世記に出てくる蛇のように、私たちの内に神さまへの疑い、不信感を植え込み、自分の陣営に引き込もうとする。自分の奴隷にしようとする。それがサタンの目的です。

聖書はサタンの存在について明確に語っていますが、18世紀以降、科学が発展するに連れて、サタンの存在は段々と軽視されるようになりました。そんな目に見えない悪の力なんてあるはずがない。そんな非科学的なことを信じられるか。この世界は科学の力によってどんどん良くなっていくんだ。理想の世界が出来上がっていくんだ。悪の存在が軽視されるようになりました。教会でも同じでした。けれどもそのような世界の流れが大きく変わるきっかけとなったのが、20世紀に起きた二度の世界大戦です。「人間はここまで邪悪になれるのか。この世界には確かに悪が存在している!」多くの人が悪の現実を目の当たりにしました。悪魔はこの世界で今なお力強く働いていることを人々は、教会は認めざるを得なくなったのです。今の私たちもそうではないでしょうか。なぜ人は、国家はここまで残酷なことができるのか。人間は悪に支配されているとしか説明できなことが今も世界で起きています。

また、悪の力が働いているのは外の世界だけではありません。私たちの中でも悪の力は働いています。パウロもそれを実感していました。ともに開きたいと思います。ローマ人への手紙719-20節(新308)「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です」。信仰者の葛藤がここに描かれています。ここでいう「罪」は個々の行いとしての罪というよりも、「住んでいる」とありますから、より人格的な存在が想定されています。「悪魔」「サタン」とそのまま読み替えてもいいでしょう。自分はこういう風に生きたい。神さまの喜ばれることをしたい。けれども、それを阻む何かがある。本当にそれでいいのか。もっと楽で楽しい生き方があるんじゃないか。一回くらいいいだろう。自分を神さまから遠ざけようとする声がある。自分を悪に引き摺り込もうとする力がある。それは罪の力、サタンの力なのだ。

パウロはここで責任逃れをしようとしているのではありません。悪いのはサタンで、自分は被害者だと言っているのではありません。元凶はサタンですけれども、そのサタンに抗いたいのに抗うことができない、簡単に負けてしまう弱い自分がいる。なぜ自分はこんなに弱いのだ。パウロが一番言いたいのはそこです。この後の24節にそれが表れています。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。これは、自分たちは「善」、外の世界は「悪」と単純に白黒分ける考え方とは全く違います。自分の内にも悪が住んでいる。いや、むしろ自分こそが罪人のかしらである。私たちはこの世界に、そして自分の中に存在している「悪」の存在を知らなければいけません。自分自身の力では到底抗うことのできない強い「悪」の力が存在している。この現実を認めなければいけません。

 

キリストの勝利

しかし、神さまはそんな弱い私たちをそのままにはなさいませんでした。神さまはそこであるお方を送ってくださいました。イエス・キリストです。私たちでだけでは敵わなかった強い悪の力。そこでイエスさまは私たちと同じ人となってこの地上に来られ、私たちの代表として悪と戦ってくださいました。それを描いているのがマタイ、マルコ、ルカの福音書の序盤にある荒野での誘惑の話です。イエスさまはそこでサタンからのあらゆる誘惑ははねのけ、「下がれ、サタン!」と悪の力を退けてくださいました。そしてサタンとの戦いのクライマックスが十字架でした。死の苦しみの中でもイエスさまは決して悪に負けることなく、父なる神さまへの信頼を貫きました。私たちにはできなかったことをイエスさまはしてくださいました。そこでついに悪の力が打ち砕かれました。人類は歴史上はじめて悪の力に打ち勝ったのです。その勝利の証として、父なる神さまはイエスさまをよみがえらせ、天に上げ、ご自身の右の座に座らせました。

このキリストのゆえに、私たちも勝利者とされました。お開きください。ローマ837節から40節(新311)「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。私たち自身は弱く、悪に惨敗し、悪に支配されていたけれども、キリストが私たちを代表として悪に勝利してくださったがゆえに、私たちも「圧倒的な勝利者」とされている。もはや何人も私たちを神さまから引き離すことはできない。ですから私たちはもう悪に怯える必要はありません。教会は悪の存在を語りはします。確かに存在するからです。けれども、悪の恐ろしさを過度に強調したり、それで人を脅したりするようなことはしません。なぜか。聖書は悪の恐ろしさ以上に、その悪に勝利されたキリストを語っているからです。キリストはすでに悪の力を打ち破られた。それによって私たちも「圧倒的な勝利者」とされている。福音です。悪の恐ろしさではなく、キリストの素晴らしさを、福音を語っていく。それが私たち教会に与えられている使命です。

 

与えられている祈り

ただ、悪を恐れる必要はないにしても、やはり注意することは必要です。悪の中枢が打ち砕かれて、私たちの勝利は決定したけれども、悪は最後の足掻きをしています。これを侮ってはいけません。最後の足掻きほど激しいということもあるからです。悪はあの手この手を使って私たちを誘惑し、最後に一人でも多くを道連れにしようとしてきます。

また、私たちはキリストによって勝利しましたが、私たち自身が強くなったわけではありません。私たちは相変わらず弱い存在です。悪に簡単に引っ張られてしまいます。だからこそ、イエスさまはこの祈りを私たちに教えてくださいました。「悪からお救いください」。私たちは恐怖の中でこの祈りを祈るのではありません。勝利を確信して祈るのです。説教の冒頭でお読みしたⅠペテロの箇所を最後に皆さんで開きましょう。Ⅰペテロ58節から10節。特に10節に注目してください。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたのキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」。悪魔は確かに手強い。私たちは信仰をもって対抗しなければならない。私たちの信仰が試されます。この戦いに無自覚であってはいけません。けれども最後に10節は何と語っているか。最後には神さまが私たちを回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださるのです。私たちは一人で悪の残党と戦うのではありません。内におられる聖霊の力によって、キリストとともに、父なる神さまのご支配の中で戦うのです。三位一体の神さまがいつも私たちとともにいて、私たちを導き、助け、強くしてくださる。この確信に立ちたいのです。悪が満ちていえるように思えるこの世界にあっても、神さまのご支配は確かにもたらされていること。やがて悪は完全に滅び、この世界が神さまの愛で満ちるときが必ずやってくること。この確信に立ちながら、最後に「主の祈り」をともに祈りましょう。

 

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン。

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