マルコ12:13-17「神のものは神に」

 

先日、年末調整の書類が税務署から送られてきました。「ああ、もうそんな時期なのだな」と感じます。私はこちらに来る前まで学生でしたので、年末調整なるものをしたことがありませんでしたが、こちらに来てから諸橋さんに色々と教えていただき、税金がどういう仕組みになっているのか、少しずつ分かってきました。

なぜこんな話をしているのかと言いますと、今日のこの聖書の箇所はまさに税金の話だからです。税金を国に納めるということについて、ひいては、私たちキリスト者は国、国家についてどのように考え、どのように向き合えばよいのかについて、今日の箇所は語っています。

 

意地悪な問い

順に見ていきましょう。13節「さて、彼らはイエスのことばじりをとらえようとして、パリサイ人とヘロデ党の者を数人、イエスのところに遣わした」。ここにある「彼ら」というのは、11章の最後から連続して登場している祭司長たち、律法学者たち、長老たち、いわゆる当時のユダヤ社会のトップにいた人たちのことです。「彼らはイエスのことばじりをとらえようとして」。大臣の失言問題がここ数日ニュースになっていますが、ユダヤ人指導者たちもイエスさまに失言をさせて、それをもとにイエスさまを糾弾し、失脚させようとしました。失言というのはいつの時代も問題だったようです。

パリサイ人とヘロデ党の者たちは言いました。14節「その人たちはやって来てイエスに言った。『先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれにも遠慮しない方だと知っております。人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか』」。この質問を理解するためには、当時の時代状況を知る必要があります。当時、この話の舞台であるエルサレムを含むユダヤ地方はローマ帝国直轄の領地でした。ですからユダヤ地方に住むユダヤ人にとっては、ローマ皇帝、カエサルが自分たちの支配者ということで、税金を納めなければいけません。けれども、多くの人はそれに納得していませんでした。神に選ばれた民である自分たちが異教徒たちに支配されているなんて、そんなの我慢できない!抵抗運動が各地で行われていました。そういった人々にとって、皇帝に税金を納めるということは妥協の証、皇帝の支配を認めているということの証でした。

そのような時代背景の中で発せられたのが今日の問いです。非常に意地の悪い問いだということが分かると思います。もしカエサルに税金を納めるべきだと言えば、民衆の大きな反発に遭う。「なんだ、結局イエスも長いものには巻かれろと言うのか。期待していたのに、がっかりだよ」。イエスさまは途端に民衆の支持を失うことになります。しかし反対に、税金を納めるべきではないと言えば、国家に対する反乱者としてローマ軍に捕まります。どっちに転んでも良くない結果が待っている。しかもさらに意地の悪いことに、「あなたはだれにも遠慮せず、人の顔色を見ず、真理を語ることのできる人でしょう。さあ、逃げずにはっきりと答えてください!」とプレッシャーをかけてくる。「してやったり」、彼らは思ったことでしょう。

賢い答え

そこでイエスさまはどうされたか。15-16節「イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた。『なぜわたしを試すのですか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。』彼らが持って来ると、イエスは言われた。『これは、だれの肖像と銘ですか。』彼らは、『カエサルのです』と言った」。デナリ銀貨というのは、当時ローマ帝国が発行していた貨幣です。ユダヤ地方にはユダヤ地方の貨幣がありましたから、日常生活ではおそらくそのユダヤ地方の貨幣が多く使われていたと思いますが、ローマ帝国への税金を納める際にはデナリ銀貨を使う必要がありました。実はこのデナリ銀貨、発掘されたものが出てきているのですが、真ん中に皇帝の像が彫られていて、その周りにこう彫られていました。「神とされたアウグストゥスの子、皇帝ティベリウス・アウグストゥス」。当時の皇帝、ティベリウスは神であるとコインに彫られている。イエスさまはそれをパリサイ人とヘロデ党の者たちに持って来させ、そこに彫ってあることを声に出して確認させた。これは何を意味しているか。「お前たちはわたしを罠に嵌めて、わたしが皇帝の支配に妥協しているかのように見せようとしているけれども、お前たち自身も皇帝崇拝を象徴するかのようなコインを持ち歩いているじゃないか。そんなお前たちに何か言う資格があるのか」。痛烈な批判がここに込められています。

そしてイエスさまは続けて何と言われたか。税金を納めるべきだとも、納めるべきでないとも言わず、17節、ただ「カエサルのものはカエサルに」と言われました。非常に賢い答え方です。もちろん結論としては、税金を納めるべきだということになります。ローマ軍から目をつけられることはありません。そしてローマ帝国に反発している民衆の側からしても、「皇帝崇拝の象徴である銀貨なんかカエサルに返しつけてやれ!そんな汚れたものなんて持っていたくないし、このユダヤにはいらない!」という皇帝への反発、抵抗の宣言として受け取れるわけです。ローマ軍と民衆、どちらも文句をつけることができないような、ある意味完璧な答えをイエスさまはここで出されました。天才だと思います。非常に賢い答え方でした。

けれども、イエスさまはそこで終わりませんでした。税金を納めるべきかどうかという質問に対して答えるだけであれば、「カエサルのものはカエサルに」だけでよかったはずです。しかしイエスさまはその後に何と続けられたか。「神のものは神に返しなさい」。ここに私たちはイエスさまの真意を読み取らなければいけません。ここにイエスさまが本当に言いたいことがあります。

 

教会と国家の問題

「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」。まず確認したのは、ここでしてはいけない解釈です。してはいけない解釈。それは、「カエサルのもの」と「神のもの」をキッパリ二つに分けてしまうということです。「カエサルのものはカエサルに」、「神のものは神に」、二つを別のこととして捉えてはいけないということ。なぜこういうことを言っているのかといいますと、日本の教会は過去にそうしてきた歴史があるからです。これまでの説教でも何度も触れていますけれども、第二次世界大戦中に日本の教会が犯した罪です。当時の大多数の日本の教会はこう考えました。「自分たちはクリスチャンであるのと同時に、日本国民でもある。だから国から宮城遥拝(皇居に向かって拝礼すること)や戦勝祈祷(天皇の勝利を祈ること)をするよう要請されたら、それに従わなければいけない。これは偶像礼拝ではなく、あくまでも国民儀礼、日本国民としての義務だ。もちろん私たちは唯一の神さまへの礼拝を続けるけれども、『天皇のもの』は天皇に返さなければいけない」。自分たちを「日本国民」の部分と「キリスト者」の部分に分けて、「日本国民」の部分は国のものだから国に従い、「キリスト者」の部分は神さまのものだから神さまに従う。二つがきれいに分かれてしまったわけです。

けれども聖書は何と言っているでしょうか。色々な箇所がありますが、一つだけお読みします。お聴きください。コロサイ人への手紙116節「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子にあって造られ、御子のために造られました」。天と地にあるすべてのもの、万物は神の御子イエス・キリストのものである。聖書ははっきりとそう語っています。「この部分は神さまのものだけれども、この部分は国のもの、この部分は自分のもの」ということは一切ありません。すべてはイエス・キリストのものである。オランダの有名な神学者のアブラハム・カイパーという人はこのようなことばを残しています。「人間が存在する領域のどこにおいても、すべての主権者であるキリストが『私のものだ!』と宣言しない領域は1インチ四方たりともない!」キリストの主権は教会の中だけに留まるものではありません。家も、職場も、旅行先も、市役所も、税務署も、国会議事堂も、あるいは天皇の皇居でさえ、すべてはキリストの主権のもとにある!キリストがこの全世界を治めておられる!これが私たちの信仰です。

このキリストの主権の下に国家も存在しています。ともに1箇所開きたいと思います。ローマ人への手紙131節です。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」。そして4節前半「彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです」。国家は私たちに益を与えるための神のしもべである。この手紙が書かれた当時の支配者はクリスチャンではありません。異教徒の皇帝です。しかしその異教徒の皇帝であっても、キリストの主権の下で立てられた神のしもべであって、市民に益を与えるという役割が与えられている。だから私たちは神さまによって立てられた権威である国家に従うべきだ、聖書はそう語るのです。それは今の時代も同じです。キリスト者になるということは、反国家主義者になるということではありません。私たちは神さまが立てた権威として、国の法律に従い、行政命令にも従い、税金も納めていく。年末調整も確定申告もする。国民の義務を果たしていく。それがキリスト者の基本的な姿勢です。

ただし、基本的というのが大事なポイントです。基本的にというのは、国家が神さまから与えられた権威を正しく用いている限りということです。もし市民に益を与えるという役割を国家が十分に果たしていなければ、私たちは声をあげるべきでしょう。そしてもし国家が自らの領域を超えて、神さまのものを奪い始めたら、私たちは頑として抵抗しなければいけません。その一番は礼拝です。礼拝とは唯一真の神さまにのみささげられるべきものです。もし国家がその領域に侵入して、天皇を拝め、あれを拝め、これを拝めと言ってくるのであれば、私たちは決してそれを認めてはいけません。カエサルのものはカエサルに、しかし神さまのものは神さまに返さなければいけないからです。これを見失ってしまったのが、戦時下の日本の教会でした。私たちは同じ過ちを二度と繰り返してはいけません。

 

「神のかたち」として

最後に、マルコの福音書のテキストに戻りましょう。16節に「これはだれの肖像と銘ですか」とあります。この「肖像」ということばは、「かたち」と訳すことのできることばです。デナリ銀貨には皇帝の「かたち」が刻まれているから皇帝に返す。では私たちはどうでしょうか。私たちには誰の「かたち」が刻まれているでしょうか。「神のかたち」です。お聴きください。創世記126節「神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう』」。私たちは「神のかたち」に造られている。であれば、私たちはどう生きるのか。神さまに自らをささげて生きるのです。カエサルの栄光を現すために造られたデナリ銀貨のように、神のかたちが刻まれている私たちは、この全世界を治めておられる神さまの栄光を現すために生きていくのです。間違ってもこの神のかたちを国家に返してはいけません。この世界に、他の人に、あるいは自分自身に返してもいけません。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」。ここに私たちの生き方があります。

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