ローマ8:12-17「御霊に導かれる神の子ども」

 

「私たちは神の子どもである」。キリスト者とは何者であるか、キリスト者のアイデンティティを考えるときに鍵となる聖書の教えです。今日の箇所には、そのような「神の子ども」の一生が描かれています。より正確にいえば、神の子どもの「過去」、「現在」、そして「将来」が描かれています。私たちはどのようにして神の子どもとされ、神の子どもとして今をどのように生き、そして神の子どもとしてどこに向かっているのか。神のことばに聴いていきましょう。

 

1. 過去

まずは「過去」、私たちはどのようにして神の子どもとされたのかということです。ここで鍵になるのは、15節にある「子とする御霊」ということばです。この「子とする」とは養子縁組を意味しています。本来、神の子ども、神さまの「実子」はイエス・キリストただお一人です。私たちはといえば元々、神の家の敵である罪の家の奴隷でした。神さまに敵対する者だったわけです。しかし、神さまはイエス・キリストの十字架によって私たちを罪の家から贖い、罪を赦し、義と認め、神の敵であった私たちと和解をしてくださいました。ローマ書の5章にそのことが詳しく書かれています。そして私たちと和解をしてくださった神さまは、私たちに聖霊を与えてくださいました。この聖霊は、得体の知れないふわふわと宙に浮かぶものではなく、神の子イエス・キリストの霊であると聖書は語っています。私たちは神の子イエス・キリストの霊を与えられる。それはすなわち、神さまが私たちをイエス・キリスト、神の子どもとして見てくださるということです。天の神さまは、私たちの内に神の子の霊を使わすことによって、「これからあなたはイエスと同じように、わたしの子どもに、神の子どもになるんだ」と、私たちを「養子」として神の家に、神の家族に迎え入れてくださいました。

ですから私たちは、イエスさまが天の神さまを「アバ、父」、「天のお父さま」と呼び、祈ったのと同じように、子とする御霊によって「アバ、父」と叫ぶことができる!15節の最後はそう語っています。この「アバ」ということばは新約聖書が書かれた当時、ユダヤ地方で話されていたアラム語という言語の単語をそのままカタカナにしたものです。当時のユダヤ人、とりわけ子どもたちは、自分の父親のことを「アバ」と呼んでいました。今の日本でいうと「パパ」に相当するような、親しい親子関係を表す呼び名です。しかしユダヤ人の間で「アバ」という呼び名が神さまに対して使われることはありませんでした。神さまはイスラエル、神の民の父であるということは旧約聖書から明らかにされていましたが、「アバ」と親しく呼びかけるなど恐れ多くてできないというのが一般的な感覚だったのでしょう。

けれどもそこに現れたのがイエス・キリストでした。イエスさまは人目を憚ることなく、天の神さまに対して「アバ」「お父さん」と呼びかけました。それだけでも大きな驚きでしたが、さらに驚くべきことに、イエスさまは私たちキリストの弟子も同じように「アバ」と天の神さまに呼びかけ祈るように教えられました。私たちは神さまの敵であったはずなのになぜそんなことが可能なのか。それは「子とする御霊」のゆえです。敵だった状態から神の家族に迎え入れられ、神さまの実子であるイエスさまと同じように「アバ」「お父さん」と神さまに近づき、親しくお話しすることができる。なんという大きな恵みでしょうか。

15節の前半はその恵みの素晴らしさをさらに豊かに教えるために、奴隷との対比をしています。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです」。聖書が書かれた時代には大勢の奴隷がいました。奴隷というのはどういう状態でしょうか。もちろん本来そうあるべきではないのですが、奴隷は通常、どれだけ主人の役に立つかでその価値が決まってしまいます。役に立てば重宝されますが、役に立たなかったり失敗をしたりすれば、罰を受けたり、家から追い出され、捨てられてしまいます。ですから、ミスをしてしまったらどうしよう、ご主人様の機嫌を損ねてしまったらどうしようと、常に恐怖があるわけです。いつもビクビクしながら、ご主人の顔色を窺わなければいけない。悲しいことですが、それが奴隷という存在でした。

しかし、私たちは奴隷の霊ではなく、子とする御霊を受けたのだと聖書は語ります。子どもは奴隷と違い、役に立たないからといって家を追い出されることはありません。役に立とうが立たまいが関係ありません。子どもという存在そのものに価値があるからです。神さまは私たちの存在そのものに価値を見出してくださっています。私たちの存在そのものを愛し、喜んでくださいます。だから私たちはその父なる神さまの愛のもとで、奴隷のように日々恐怖に怯えるのではなく、神の子どもとして、安心して自由にのびのびと生きることができるのです。

 

2. 現在

ここまで神の子どもとされた恵みについて見てきました。神の子どもとされた。これはすでに起こった「過去」のことです。では、神の子どもとされた私たちは「現在」をどのように歩んでいくのでしょうか。そこで目を留めたいのは12-13節です。「ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければいけないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます」。

「私たちには義務がある」。「義務」というと少し重たい感じがするかもしれません。ここで「義務がある」と訳されていることばは「債務者」という意味のことばです。借金を負っているということです。では借金とは何か。神の子とされた恵みです。私たちは本来であれば受けるに値しない大きな恵みを、神のことされる恵みを受けたので、その恵みに応えていく必要がある。恩返しをしていく必要がある。「義務がある」とはそういうことです。

では、義務の内容はなんでしょうか。12-13節でパウロは少しまどろっこしい言い方をしていますが、要するに私たちの義務とは「御霊によってからだの行いを殺す」ことです。少し強いことばですね。「からだの行い」とは、その前に出てくる「肉」と同じで、私たちの罪の性質、あるいは罪の行いを意味しています。私たちの中にはまだ罪の性質が残っていて、それを「殺す」、なくしていく必要があるということです。

そこで思い出したいのは、神の子どもとされる前に私たちはどこにいたのかということです。冒頭でも申し上げたように、私たちは元々神さまの敵である罪の家で奴隷にされていました。そこから私たちは救い出され、神の家に迎え入れられたわけですが、住む家が変わったからといって、私たちの中身が入れ替わったわけではありません。神の子どもとされ、神の家に住んでいながらも、私たちの中にはやはりまだ罪の家にいたときの習慣が、罪の性質が残っています。それがなかなか抜けきりません。ですから私たちはその罪の性質と戦う必要があります。もし戦うことを放棄して、罪の性質に引っ張られ続けるならば、最悪私たちは神の家を出て、再び罪の家に逆戻りしてしまいます。けれどもその先に待っているのは何でしょうか。イエスさまは十字架と復活によってすでに罪と悪魔に勝利されましたから、罪の家には滅ぼされる未来しか待っていません。罪の家に逆戻りするということは、すでに取り壊しが決まっている家にわざわざ引っ越すようなものです。ですから13節は「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります」と忠告しています。

そんなことがあってよいのでしょうか。せっかく神さまが私たちを罪の家から救い出し、神の家に子どもとして迎え入れてくださったのに、莫大な恩を受けているのに、その恩を仇で返すように、自ら神さまの恵みを台無しにすることなど決してあってはいけません。自分の愛する子どもが家を出て滅び行く罪の家に逆戻りしていくのを見て神さまはどれほど悲しまれるでしょうか。そうではなく、自分の中にまだ残っている古い罪の性質と、罪の誘惑と戦い、神の子どもとされた者として、天の神さまを父、イエスさまを兄としてもつ神の家族の一員としてふさわしく歩んでいこうじゃないか。パウロは私たちを励ましています。この義務は、恐怖に怯えながら果たしていく奴隷としての義務ではありません。神の子どもとされた者としての「恩返し」です。私たちを罪の家から救い出し、神の子どもとして迎え入れ、私たちの存在そのものを愛し喜んでくださっている天のお父さまに恩返しをしていきたい。天のお父さまと一緒に家族として生きていきたい。自由と喜びの義務です。

けれどもやはり、この義務を果たすのは簡単なことではありません。罪は手強いです。あの手この手で私たちを誘惑します。「罪の家にいたときの方がもっと楽しかったんじゃないか。あの頃に戻りたい。」神の子どもとされた恵みを見失ってしまうことがあるかもしれません。義務だけが重くのしかかり、神の子どもとして生きることに疲れをおぼえてしまうことがもしかしたらあるかもしれません。

しかし大切なこととして思い起こしたいのは、私たちの内には御霊がおられるということです。私たちは自分の力だけで罪の性質と戦うのではありません。13節には「御霊によってからだの行いを殺す」とあります。私たちは内におられる御霊の助けによってからだの行い、罪と戦うのです。

具体的にはどういうことでしょうか。まず御霊は聖書のみことばと祈りを通して、神の子どもとして生き方を教えてくださいます。何が天のお父さまに喜ばれることで、何が悲しませることかを示してくださいます。誘惑に負け、罪を犯しそうになるときには、「本当にそれでいいのか。誘惑に負けてはいけない。神の子どもとして歩んでいこう!」私たちを叱咤激励し、罪と戦い、勝利する力を当ててくださいます。しかしそれでも私たちはときに罪を犯してしまいます。けれども御霊は決して私たちを見捨てません。私たちの内に働きかけ、それが罪であったことを示し、悔い改めへと導き、私たちが父なる神さまの赦しの中に置かれていることを思い起こさせてくださいます。そして次は罪の誘惑に負けることがないよう、神の子どもたちの長男であるイエス・キリストの似姿へと私たちを内側から変え続けてくださいます。この御霊に身を委ね、御霊の声に聴き従っていく。それが神の子どもの生き方です。

 

3. 将来

さて、最後に神の子どもとしての「将来」を見ていきましょう。17節「子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです」。「相続人」、親の財産を受け継ぐ者のことです。神の子どもとされた私たちは、神さまの財産を受け継ぐ相続人ともされています。

私たちが受け継ぐ財産とは一体何でしょうか。同じローマ書の813節には、「世界の相続人という約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられた」とあります。神の子どもである私たちが受け継ぐ財産、それは「世界」だというのです。壮大すぎて少しついていけない感じがするかもしれませんが、ここで言われているのは「神の国」のことです。やがてイエスさまが再び来られるとき、すべての悪は滅ぼされ、この地上に神の国が完成します。そこにはもはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもないと聖書は言います。その神の国が完成するとき、私たちは決して蚊帳の外にいるのではない。むしろ神の国の中心で、神の国を受け継ぎ、治めていくことになるのだと神さまは約束してくださっています。

ただ私たちは自分たちだけで神の国を治めるのではありません。17節の最後には「キリストとともに共同相続人なのです」とあります。そう考えると、だいぶスケールダウンしてしまうたとえですが、神の国は一族経営の会社のようなものです。父なる神さまが会長としておられて、私たち神の子どもは、その筆頭、長男であるイエスさまとともに神の国を治めていく。かつては罪の奴隷だった者が神の子どもとされ、さらにはキリストとともに神の国を治める王になる。そのような栄光の将来が私たちには約束されています。

しかし、そこに至るまでには「苦難」があるのだとも聖書は語ります。キリストがこの地上で苦難を、十字架の死を味わわれた後に栄光を受けたように、私たちもこの地上にあっては苦難を経験します。イエスさまがそうであったように、サタンの激しい攻撃に遭うことがあります。「そんなに罪ばかり犯して、まったく成長していないじゃないか。お前は本当に神の子どもなのか?神の子どものふりをして、本当はまだ罪の奴隷なんじゃないか。そんなお前が本当に神の国を相続できるのか。神の約束なんて本当に信じていいのか」。私たちに疑いを抱かせようとします。「こんな自分は本当に神の子どもなのか」。神の子どもとしての確信を奪おうとしてきます。

けれども、苦難によってどれだけ私たちの心が揺れ動こうと、神の子どもとされている自分を見失おうと、御霊は変わらず証言してくださいます。16節「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」。御霊は私たちの内側から叫んでくださいます。「あなたは確かに神の子どもとされている。キリストの霊、神の子の霊であるわたしがあなたの内に住んでいるのだから。あなたは安心して、神の子どもとして自由にのびのびと生きていきなさい。『アバ』『お父さん』と神さまのもとに飛び込んでいきなさい。その先には必ず栄光の将来が待っているから」。私たちの神の子どもとしての身分は決して揺らぐことはありません。私たちを神の家族に迎え入れるために子とする御霊を私たちの内に遣わしてくださった神さまは、必ず最後まで御霊によって私たちを支え、励まし、導いてくださいます。「過去」「現在」「将来」、私たちの全生涯を通して御霊はいつも私たちの一番近くで私たちを守ってくださいます。「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです」。御霊とともに、御霊に導かれながら、神の国の完成に向かって歩んでいく。それが私たち神の子どもの一生です。

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