マタイ6:13「私たちを試みにあわせず」

 

今日は10月の第一主日ということで、年間目標に関するみことばにともに聴いていきましょう。毎回の恒例ですが、はじめに年間聖句を確認しましょう。週報の表紙の一番上をご覧ください。「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」(ルカ11:1)。このみことばから、「祈りに生きる教会」という目標を立て、月に1回、イエスさまが私たちに教えてくださった「主の祈り」を順番に学んでいます。今日はその第7回目です。今日の聖書箇所はマタイの福音書6章13節「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」としていますが、今日はその内の前半「私たちを試みにあわせないで」という部分に焦点を当てながらみことばに聴いていきたいと思います。

 

試練?誘惑?

この前半部分のテーマは「試み」です。「試み」とは何でしょうか。人が試みに遭うという場合、聖書の中には二つのタイプの「試み」が出てきます。一つ目は神さまから与えられるもので、多くの場合は苦難ですけれども、人はそれによって信仰が試されます。しかしそれに耐え忍ぶことによって、人の信仰は練り清められていきます。アブラハムがイサクをささげる出来事や、イスラエルの民の荒野での40年間はこのタイプの「試み」でした。これは多くの場合「試練」と呼ばれます。

しかし神さまからではなく悪魔、サタンから来る「試み」もあります。それは多くの場合「誘惑」と呼ばれます。創世記でエバが蛇に唆される出来事はその代表格と言えますが、サタンは「誘惑」によって人を神さまから引き離し、罪に陥らせようとします。これが第二のタイプの「試み」です。

では今日の箇所の「試み」は果たしてどちらのことを言っているのでしょうか。これに関しては議論があります。「試みにあわせないでください」と神さまに願っているということを考えれば、神さまからの「試練」ともとれますが、後半部分で「悪からお救いください」と願っていることを考えると、サタンからの「誘惑」ともとれます。実際にこの箇所を「誘惑」と訳している日本語の聖書もいくつかあります。

しかしその中で、この新改訳2017の聖書が「試練」「誘惑」のどちらとも訳さず、「試み」という両方を含み得る翻訳を採用していることには意味があると私は感じています。人生の中で何か大きな苦難に直面するとき、これは神さまから与えられた「試練」なのか、それとも自分を絶望させて信仰から離れさせようとするサタンの「誘惑」なのか、信仰者であれば悩むことがあるかもしれません。「試練」であればそれを耐え忍ばなければいけませんが、「誘惑」であればそれをはねのける必要があるからです。けれどもほとんどの場合、私たちにはその苦難が神さまから与えられた「試練」なのか、それともサタンからの「誘惑」なのか、はたまた神さまからの「試練」に乗じてサタンが「誘惑」しているのか、見分けることはできません。苦難が過ぎ去った後、過去を振り返って分かることはあるかもしれませんが、その渦中にいるときは分からないものです。そのような意味で、新改訳2017が「試み」とだけ訳しているのは、私たちの人生の現実に即した翻訳だということができるでしょう。

 

人の弱さ

いずれにせよ、それが「試練」であれ「誘惑」であれ、私たちが「試み」、信仰が揺るがされ、試されるような苦難に直面した際に大事なのは、神さまから離れず、信仰をもち続けることです。「試み」に打ち勝つということもできるでしょう。どんな困難な状況でも絶望することなく、神さまへの信仰を貫いていく。そのことを考える中で、一つの興味深い問いに出会いました。以前にも一度紹介したことがありますが、「主の祈り」についての本を書いておられる平野克己という牧師が書いておられたことです。平野先生は、「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」という今日の祈りについて、「本当にこう祈ってよいのでしょうか」と問います。むしろ私たちは「我らをこころみに負けない者とし、悪に打ち勝たせたまえ」と祈るべきではないだろうかと。なるほどと思いました。確かに考えてみれば、「試みにあわせないでください」「悪からお救いください」とは随分弱気な祈りです。それよりも平野先生が言うように、「試みに負けない者とし、悪に打ち勝たせたまえ」の方が勇ましい。「試練」でも「誘惑」でも何でもドンと来いと受け止められるような強い揺るがない信仰を求めた方がよいのではないか。みなさんはどう思うでしょうか。

しかし、イエスさまはそうは教えませんでした。なぜでしょうか。私たちの弱さをご存知だったからです。あの一番弟子ペテロが、「あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と豪語していたにもかかわらず、一日も経たずにイエスさまを三度「知らない」と否定したように、どんなに威勢のいいことを言っていても、いざ困難な状況に遭遇するといとも簡単に罪に陥ってしまう私たちのことをイエスさまはよくご存知でした。しかもその罪を悔い改めて、もう二度と同じ罪を犯したくないと決心しても、同じ場面に遭遇するとまた誘惑に負けて罪を犯してしまう。心の中に今なお残っているサタンの残党の激しい攻撃に、あるいは時には甘い囁きに、簡単に屈してしまう。何度も何度も同じ失敗を繰り返し、神さまを悲しませてしまう。

けれどもさらにタチの悪いことに、多くの場合、私たちはその弱さを認めたくないのです。私がまだ実家に住んでいた頃、朝の時間だったでしょうか、タイミングはあまり覚えていませんが、時々母が私のために祈ってくれることがありました。その中で印象に残っているのが、「今日も誘惑からお守りください」という祈りです。その祈りを聴くたびに、「僕は誘惑に弱い子どもに見えるのかな」とあまりいい気がしなかったのをおぼえています。自分の弱さを認めたくなかったのだと思います。けれども実際はどうだったかというと、そこにはやはり誘惑に負け、日々神さまの悲しまれることをしていた弱い自分がいました。母はそのような私の、人間の弱さを分かっていたからこそ、私のために祈ってくれていたのだと今になって思います。

自分の弱さを認めたくない。そこにはこの世界の影響が強くあります。この世界は、私たちに強くあることを求めます。自立していて、強くブレない意志をもっていて、誰の助けを借りなくても立派に生きていける、そのような人間がこの世界では賞賛されます。弱さが疎まれる世界です。そして時折、信仰は弱さの象徴であるかのように語られます。信仰というのは、宗教というのは、自分の力では生きていけない弱い人間のためのもの。宗教に頼っていたら人間はダメになる。人間はもっと逞しくなければいけない。

 

神に身を避ける

しかし、本当にそうでしょうか。使徒パウロはこう語りました。「私はキリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(2コリ12:10)。「私が弱いときにこそ、私は強い」。なぜでしょうか。その前の節でパウロはこう語ります。「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。「キリストの力が私をおおう」、これがパウロの言う「強さ」です。自分が弱く、何の力もないものであることを認めるとき、そこにキリストの力が働く。だから私は自分の弱さを誇る。この世界とは真逆の価値観です。

また旧約聖書にはこうあります。詩篇461節「神はわれらの避け所 また力。苦しむとき そこにある強き助け」。「弱い」とはどういうことか。それは全知全能の主権者なる神さまのもとに身を避けることを知っているということです。「そこにある強き助け」、この世界で最も強力な助けを知っているということ。だからこそ私たちは弱いときにこそ強い。弱さを認めるどころか、喜んで自分の弱さを誇ることができる。これは福音です。

だからこそ、イエスさまは私たちにこの祈りを教えてくださいました。「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」。私たちは強がらなくていいのです。「悪に打ち勝たせたまえ」などという勇ましい祈りを神さまは願っておられるわけではない。私たちは試みに弱い。サタンの誘惑だけでなく、神さまからの試練であっても、耐え切れるだけの自信はない。だからどうか試みにあわせないでください、そう祈ることをイエスさまは教えてくださった。けれども実際に生きていれば、やはり試み、信仰が試されるような苦難はやってくる。そうなっても、私たちが悪に屈することがないよう、悪からお救いください。私たち自身の信仰の力によってではなく、キリストの力、全能の神の御力によって私たちを守り、この苦難を乗り越えさせてください、あなたへの信仰に立ち続けることができるように支えてくださいと祈っていく。それが、イエスさまの教えてくださった「主の祈り」です。

 

「私たち」の祈り

そして最後に、これが「私たち」の祈りであることもおぼえたいと思います。今月末にはプロテスタントの宗教改革記念日がありますが、宗教改革者マルチン・ルターはこのようなことばを残しています。「あなたがたが弱さを身に感じるなら、ただ独りでいないで、キリストについて語り合いなさい。独りで悪魔と戦わないようにしなさい。…兄弟を一緒に味方にしなさい。…独りではサタンに対してあまりにも弱すぎる。わたしもしばしば子どもがわたしと語ってくれることを必要とした」。あの偉大な宗教改革者ルターも自分の弱さを自覚していました。そして悪魔と戦うために、子どもたちと語り合い、励ましあうということをしていた。これが教会の姿です。教会は強い者たちの集まりではありません。弱い者たちの集まり、もっと正確に言えば、自分の弱さを知っている者たちの集まり、共同体です。だからこそ私たちは、お互いに強がり、それぞれがそれぞれの砦を築くのではなく、互いの弱さを理解し、受け入れ、手を取り合って、ともに神さまの砦に、避け所なる神さまのもとに身を避けていきたいのです。今日私たちの群れに新たに川口ご夫妻が加えられました。今日この時改めて、私たちがキリストにある一つの群れとしてともに歩んでいく意味を再確認したいと思います。そして、「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」、イエス・キリストが教えてくださったこの「主の祈り」を、川口姉妹、そして病床におられる川口兄弟とも心を合わせながら、ともに祈っていきたいと思います。

それではともに祈りましょう。主の祈り。

 

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン。

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