ルカ24:45-59「キリストの証人として」

 

今日私たちが開いているのはルカの福音書の最後の部分です。イエスさまは十字架にかけられた後、三日後によみがえり、まずは女性たちに姿を現し、次にエマオという村に向かっていた二人の弟子に姿を現し、最後に十二弟子(正確にはユダを除く11人)の前に姿を現しました。そして今日の箇所の後、イエスさまは天に上げられることになります。イエスさまは間もなくこの地上を離れてしまう。しかしイエスさまがいなくなるからといって、イエスさまのお働きが途絶えるわけではありません。イエスさまはご自身が宣べ伝えた神の国の福音を今度は弟子たちに託すために、弟子たちに宣教の極意を教える。それが今日の箇所です。

 

キリストの目撃者

まず目を留めたいのは48節です。「あなたがたは、これらのことの証人となります」。これが宣教の本質です。「証人」といって私たちが思い浮かべるのは裁判の場面かもしれません。事件が起きた場合、その事件を目撃した人が証人として呼ばれ、自分が見たことを証言する。それが「証人」です。実際にここで「証人」と訳されていることばは、「目撃者」という意味ももっています。弟子たちは「証人」「目撃者」となるということ。

では弟子たちは一体何の「証人」「目撃者」となるのでしょうか。46-47節「こう言われた。『次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』』弟子たちが証人として証しするのは、キリストの苦しみ(十字架)とよみがえり(復活)に代表されるイエス・キリストの生涯と、キリストを信じ、悔い改めることによってもたらされる罪の赦しです。弟子たちはそれを間近で目撃し、経験しました。彼らはイエスさまの御業を一番近くで見て、イエスさまの教えを一番近くで聴きました。イエスさまが祭司長や長老たちに捕まえられて引いていかれる様子を見ました。十字架にかかるイエスさまを直接目撃した弟子たちがどれだけいたかは分かりませんが、彼らはその恐ろしさ、悲惨さ、絶望を間近で味わいました。そして三日後、復活を目撃しました。自分たちはイエスさまを見捨て、裏切ったにも拘らず、復活したイエスさまは自分たちの前に姿を現してくださった!彼らはそこで、悔い改めと罪の赦しを経験しました。

「あなたがたは、これらのことの証人となります」。キリストの救いの御業を目撃し、罪の赦しを受けた者として、これからあなたたちは自分が目撃し、受けたことをこの世界に証ししていくのだ!証言していくのだ!イエスさまによる派遣です。この派遣のことばを受けて、弟子たちはエルサレムから始まり、ユダヤ、サマリアの全土、そして地の果てにまで福音を宣べ伝えていくことになります。同じルカが書いた、ルカの福音書の続編である使徒の働きには、そのような弟子たちの宣教の働きが記録されています。

「あなたがたは、これらのことの証人となります」。これは今を生きるキリストの弟子である私たちにも語られていることばです。宣教の本質は「証し」です。「証し」とは単なる体験談ではありません。体験談という場合、主体は自分ですけれども、「証し」の主体はイエス・キリストです。自分が出会ったイエス・キリストというお方は一体どのようなお方なのか。自分が聖書を通して目撃したキリストの十字架と復活とは一体何なのか。自分はそのキリストの御業と教えによってどのように変えられたのか。それこそが「キリストを証しする」ということであり、「キリストの証人となる」ということです。宣教とは何も、一生懸命勉強して、小難しい知識を頭に詰め込んで、それを周りの人たちに教えるということではありません。自分が目撃し、経験したイエス・キリストを証ししていく。それが宣教の本質です。

また、これは命令ではありません。「あなたがたは証人となりなさい」とイエスさまは言われませんでした。「証人となる」と言われた。あるいは別の翻訳では「証人です」と訳されています。考えてみれば当然です。目撃者というのはなろうと思ってなるものではありません。語弊があるかもしれませんが、私たちは目撃してしまったわけです。イエス・キリストに出会ってしまった。ですからその時点で私たちはすでに目撃者です。しかも私たちが目撃したのは救いの出来事です。もし目撃したのが思い出したくもないような悲惨な事件であれば、それを証言するのはしんどいことです。できれば語りたくない。けれどもそうではありません。私たちが目撃したのは福音、よい知らせです。私の神学校時代の友人はよく、クリスチャンというのはおいしいラーメン屋を見つけた人のようだと言っていました。おいしいラーメン屋を見つけた人は必ずそれを家族や友人に伝えたくなる。一緒に連れていきたくなる。宣教とはそういうことだというのです。なるほどと思いました。私たちはおいしいラーメンを遥かに超えるすばらしい救いに出会いました。それなのに、それを自分だけの秘密にしてしまうのはあまりにももったいないことです。私たちはこの素晴らしい福音を、イエス・キリストというお方を証ししていきたい。

しかも47節にあるように、対象は「あらゆる国の人々」です。これは何も外国人にということではなく、すべての人にという意味です。この人には証しするけど、この人にはしないということではありません。あの人にはイエスさまのことを知ってもらいたいけど、あの人は別にいいかな、ということでもありません。キリストがもたらしたのは国籍、人種、性別、身分、年齢にかかわらず、すべての人を救い得る福音です。イエスさまはすべての人が救われることを願っておられます。ですから同じように、私たちもすべての人にキリストを証ししていきたい。キリストの目撃者、証人とされている者として歩んでいきたいのです。

 

聖書を悟る

キリストの弟子は、証人、目撃者として、キリストを証ししていく。それが宣教の本質ですけれども、自分が目撃したことの意味を理解しているかどうかというのも大切なポイントです。イエスさまは十字架にかかる前、弟子たちに何度もご自分こそが旧約聖書が指し示しているメシア、救い主であり、そのために十字架で死ななければならないこと、そして三日後によみがえることを語ってきました。しかし弟子たちはそれをまったく理解していませんでした。理解していなかったので、いざイエスさまが捕らえられたときには慌てふためき、イエスさまのもとを逃げ去り、絶望に陥ったわけです。しかし復活のイエスさまと出会ったことによって、彼らはこれからキリストの証人として歩んでいくことになります。けれども彼らはイエス・キリストがどのようなお方か、自分たちが目撃した十字架と復活がどのような意味をもっているのかをまだ理解できていません。41節を見ると、「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので」とあります。何かすごいことが起きているのは分かるし、何だかすごくうれしいのだけれども、何がすごくて何がうれしいのかが分からない。ただ不思議がっている。そんな状態です。

そこでイエスさまはどうされたか。45節「それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」。聖書を悟る。もっと言えば、聖書に示されているキリストを悟る。これは私たちがキリストの証人として歩んでいく上で決定的に必要なことです。そうでなければ、たとえイエスさまを目撃していたとしても、なぜイエスさまはこの地上に来てくださったのか、なぜ十字架の上で死ななければならなかったのか、なぜ復活されたのかということが分からないからです。目撃したことの意味が分からなければ、それを正しく証しすることはできません。

では私たちはどのようにして目撃したことの意味を、自分が出会ったキリストのことを、自分が受けた救いを知るのか。聖書です。私たちは聖書を通して、自分が目撃したことの意味、イエス・キリストの救いを悟っていくのです。

ここにいる私たちもそれを経験しているはずです。聖書に触れることなくしてイエスさまを信じ、救いを知ったという人は一人もいないはずです。私たちはみな、聖書を通してキリストを知り、自分が受けた救いの意味を悟ってきました。もちろんすぐにではなかったでしょう。聖書は難しい書物です。読んですぐに分かるものではありません。さらに言えば、自分の力だけで読み解けるものでもありません。はじめは聖書を読んでもピンと来ない、何が語られているのかさっぱり分からない、そこから始まったはずです。しかしあるとき聖書を読んでいて、急に聖書のことばが自分に迫ってきた。聖書が示しているイエス・キリストが見えるようになった。あぁ、このことばは自分のためにあったのだ。聖書のことばを受け止めることができるようになった。それは、イエスさまが聖書を悟らせるために私たちの心を開いてくださったということです。このイエスさまの働きがあってはじめて私たちは聖書を、イエス・キリストの救いを悟ることができます。

それは一度きりのことではありません。一度で聖書のすべてを悟ったという方はいらっしゃらないはずです。私たちは生涯をかけてこの聖書のことばに聴き、生涯をかけて聖書を悟り続けていきます。イエス・キリストはどのようなお方なのか、自分が受けた救いとは何だったのかを深く深く知り続けるのです。そのためにはイエスさまの助けが必要です。私もそうですが、説教者は祈りなしに説教準備をすることは決してありません。「私の心を開き、今与えられているこの聖書の箇所を悟らせてください」。この祈りなくして説教の準備は決してできません。そして講壇に上がってからも、必ず神さまの助けを祈り求めてから語り始めます。そこに神さまの力が働かなければ、説教は何の意味もない働きになってしまうからです。

それは説教を聴く聴衆も同じです。みなさんもぜひ聖書を開くとき、またこの主日礼拝に限らずご自身で聖書を開くときも、神さまの助けを祈り求めてください。「今、私の心を開き、あなたのみことばを悟らせてください」。この祈りを決して忘れないでください。自分の力、知識で聖書を読み解くのではなく、神さまの力によって聖書を、キリストを、救いを悟っていく。悟り続けていく。キリストの証人としで歩む上で必要不可欠なことです。

 

聖霊の力を受けて

しかし、いくら聖書を悟ったからといって、キリストを証しするのは簡単なことではありません。悟ったことをどう語ればいいか分からない。そういった難しさもあるでしょう。またそれ以前に、勇気が湧かない、拒絶されるのが怖くて語れない、そういった難しさの方があるかもしれません。

弟子たちも同じでした。そもそも十字架を前にイエスさまを捨てて逃げ出した弟子たちです。元が臆病なわけです。そしてこの先世界中にイエスさまのことを証ししていく中で、人々の反発をくらうことは目に見えています。迫害も起こるでしょう。いのちの危険があるかもしれない。実際、「証人」と訳されていることばは後に「殉教者」という意味ももつようになりました。キリストの証人として生きる中でいのちを落とす殉教者が多く出てきたということです。イエスさまを三度知らないと言ったあのペテロも、迫害の末に殉教したと伝えられています。

あの弱く臆病だった弟子たちがなぜそこまですることができたのでしょうか。49節「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスさまは弟子たちが弱く臆病であることをよく知っていました。目の前で裏切られたわけですから。このままでは彼らはキリストの証人としての務めを十分に果たすことはできない。そこでイエスさまは、「わたしの父が約束されたものを送る」と言われました。これは聖霊のことです。「いと高き所から力を着せられるまでは」、聖霊があなたたちを覆い、キリストを証しするための力を与えてくださるのだとイエスさまは約束されました。実はイエスさまは以前にも同じことを約束してくださっていました。ルカ1211-12節「また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しょうか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」。語るべきことは聖霊が教えてくださる。だからあなたたちは心配しなくていい。ただ聖霊が与えられるのを待ちなさい。それまでは「都に(エルサレムに)留まっていなさい」。

この約束は、使徒の働きに2章に記されているペンテコステの出来事によって実現しました。天から突然激しい風が吹いてきたような響きが起こり、炎のような舌が分かれて一人ひとりの上にとどまり、皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままにキリストを証しし始めた。聖書はそう記録しています。そして聖霊を受けたペテロは、大群衆を前にキリストの十字架と復活を大胆に語り、人々に悔い改めを迫り、その日、3000人が仲間に加えられたとあります。以前のペテロからは想像もできなかった姿です。すべては聖霊の力です。聖霊によって弟子たちは力づけられ、キリストの証人としての歩みを始めたのです。

同じ聖霊は私たちにも与えられています。もちろん私たちが全員ペテロのように大群衆を前に語らなければいけないということではありません。私たちにはそれぞれ置かれている時代、場所、状況があります。ただおぼえたいのは、私たちは何の理由もなく今いる場所に置かれているのではないということです。私たちはそれぞれの場所にキリストの証人として遣わされています。キリストを証しする者として遣わされています。証しの方法は人それぞれです。それぞれが与えられている賜物に応じてキリストを証しするのです。ある人は大勢の人の前で大胆に、ある人は一対一の深いかかわりの中で、ある人は文章を通して、ある人は芸術を通して、あるいはある人は静かに生き様を通して。いつ何をし、何を語るべきかは聖霊が教えてくださいます。聖霊が必要な力を、勇気を与えてくださいます。ですからいつもみことばに教えられながら、聖霊の力によって、私たちが受けた素晴らしい救いを、救い主イエス・キリストを、すべての人に証ししていきたいと願います。「あなたがたは、これらのことの証人となります」。キリストは今日も私たちを遣わしておられます。

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