黙示録22:1-5「完成の希望」

 序論

先週、私は北海道合同教職者会というものに出席してきました。北海道中の教会の教職者(牧師、伝道師、宣教師)が集まって学びと交わりのときをもつという会で、45年に1回行われているようです。毎回テーマがありまして、そのテーマにお詳しい講師を招き、学びのときをもっているのですが、今回のテーマは「終末に生きる教会」でした。世の終わりに向かっている今の時代、教会はどのように歩んでいくのかということを、ヨハネの黙示録を中心に学びました。大変考えさせられた学びのときでした。

「終末」というとみなさんはどのようなイメージをもたれるでしょうか。世間一般で言いますと、みなさん覚えておられるでしょうか、1990年代後半に流行った「ノストラダムスの大予言」を思い浮かべる方がいらっしゃるかもしれません。また2000年代に入ってどんなにらですと、マヤ文明の暦を根拠に、2012年にこの世界は滅びるという話も出て、「2012」というタイトルの映画も作られました。私も当時映画館で観ましたが、隕石が落ちてきたり、地面がひび割れてビルが次々と崩壊したり、とてもリアルなCGが使われていて、スケールの大きさに圧倒された記憶があります。

おそらく世間一般で「終末」というと、そういった映画で描かれるような恐ろしい「世の終わり」をイメージされる方が多いと思います。この地球が崩壊してしまう。この世界が消滅してしまう。すべてがそこで終わってしまう。それが「終末」であると。

しかし、聖書が語る「終末」は違います。もちろん聖書は古い時代の終わりについては語ります。悪に支配された古い時代。しかしイエス・キリストによって悪の支配が打ち破られ、新しい時代が、神の国がもたらされた。そしてイエスさまが再び来られるその時、この地上に残っている悪は完全に滅ぼされ、悪に支配された古い時代は終わりを迎える。神さまの裁きについて語る黙示録の中盤は、そのような古い時代の終わり、「終末」について語っています。けれども、黙示録はそこでは終わりません。古い時代が終わり、そこですべてが終わるのではない。むしろそれは新しい時代、完成された世界の始まりなのだと語るのが今日の箇所です。

 

1. 世界の完成を語る希望の書

そこでまず、今日の箇所に至るまでの流れを確認したいと思います。一つページを戻ってください。20章の最後では、イエスさまの再臨に続く復活と最後の審判が描かれています。神さまは悪を完全に滅ぼし、古い時代が終わりを迎えます。すると211節からヨハネは新しい幻を見ます。「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」悪が残っていた古い時代、古い世界は過ぎ去り、新しい天と新しい地がもたらされるとあります。そして212節からは、新しい天と新しい地、「新天新地」はどのような世界なのかが描かれます。そのまとめとして最後に記されているのが今日開いている221-5節です。

では、新天新地とはどのような世界なのでしょうか。そこでまず目を留めたいのは、221節にある「いのちの水の川」と、2節にある「いのちの木」です。川が流れていて、そこに「いのちの木」がある。思い出される場所がないでしょうか。聖書の一番はじめ、創世記に描かれているエデンの園です。創世記の2章を見ると、エデンの園の中央に「いのちの木」があって、湧き出る川が園を潤していたとあります。ですから新天新地はエデンの園のような場所になるということが読み取れます。

けれども、エデンの園がそっくりそのまま再びもたらされるということではありません。この箇所をよく見ていくと、「園」ということばは出てきません。代わりに出てくるのは「都」ということばです。これは大事なポイントです。神さまははじめ、この世界を非常によいものとして造られました。エデンの園は神さまと人がともに住み、すべてが美しい調和の中にある素晴らしい世界でした。しかし、エデンの園はこの世界の完成形だったわけではありません。神さまはアダムに対し、エデンの園を耕し守るようにと言われました。そこには発展の余地があったわけです。そしてアダムとその子孫たちが園を耕し続け、世界が発展していくことによって、やがて園が村になり、村が町になり、町が都になり、完成へと向かっていくことを神さまは願っておられました。神さまはこの世界に都をもたらしたかったのです。そして園を耕し守ることによって都をもたらすという務めを人間に与えました。

残念ながら、人間はそのすぐ後に罪を犯し、エデンの園を追放され、神さまから与えられた務めを果たすことができなくなりました。しかしイエスさまが人としてこの地上に来られ、十字架にかかり、復活されたことによって、この地上に再び神の国が、神と人がともに住むエデンの園がもたらされました。神の国の民とされた私たち教会は、神の国を建て上げることによって、エデンの園を耕す務めを果たしています。そしてイエスさまが再び来られるとき、悪は完全に葬り去られ、ついにこの世界に「都」が完成することになります。

かなりスケールの大きな話をしました。スケールが大きすぎてなかなかピンと来ない方もいらっしゃるかもしれません。けれどもここで覚えていただきたいのは、黙示録は「終末」を超えた先にある、この世界の「完成」を語っているということです。創世記から始まる聖書の最後になぜ黙示録が置かれているのか。それは、創世記から続く神さまのご計画がついに黙示録で完成に至るからです。神さまが造られた非常によい世界。途中、罪と悪によってその世界が大きく歪んでしまったけれども、やがてイエスさまが再び来られるとき、この世界のすべての歪みが新しくされ、非常によい世界が完成する。「園」から始まった世界が「都」として完成に至る。私たちにとって、黙示録は世界の滅亡を予言する恐怖の書ではなく、世界の完成を語る希望の書である!この希望を私たちは黙示録から受け取っていきたいと願います。

 

神の臨在

では、新天新地は具体的にどのような場所なのでしょうか。今日の箇所でも様々な描写がなされていますが、黙示録のこういった描写は基本的に旧約聖書の預言に基づいています。今日の箇所に関しても、エゼキエル書やゼカリヤ書などから来ている表現がたくさんあります。ただしそれを全部見ていくと膨大な時間がかかってしまいますから、ぜひ後ほどご自身で聖書の脚注を参考に探してみてください。聖書の世界がさらに豊かに広がっていくと思います。

今回はこの箇所を二つのポイントから見ていきたいと思います。一つ目は、神さまの臨在です。1節と3節には「神と子羊の御座」ということばが出てきます。子羊はイエス・キリストを表す象徴表現です。新天新地では、父なる神さまと子なる神さま、イエス・キリストがともに御座、王座に座っておられる、王として治めておられるということです。そして1節を見ると、その御座から「いのちの水の川」が流れ出ていて、2節にはその川の「こちら側にも、あちら側にも」、つまり両岸に12の実をならせる「いのちの木」があり、毎月一つの実を結んでいたとあります。先ほども申し上げたように、ここでは明らかにエデンの園が意識されています。「いのちの水」と「いのちの木」が具体的に何を意味しているのかについてはいろいろな説明の仕方ができますが、間違いなく言えることの一つとして、これは「永遠のいのち」を表しています。聖書が語る「永遠のいのち」は、いわゆる不老不死とは違います。聖書が語る「いのち」とは、神さまとともにあることです。神さまとともにあることによって人は本当の意味で生き、逆に神さまから離れることによって死んでしまう。

エデンの園にあって、人は神さまとともに生きる存在として造られました。そこには真の「いのち」がありました。「いのちの木」の存在がそれを表していました。しかし人間は罪によってエデンの園を追放され、「いのち」を失ってしまいました。神さまとの間に罪という分厚い壁ができてしまいました。けれども罪が完全に滅ぼされた新天新地では、もはや私たちと神さまの間を隔てるものは何一つありません。4節に「御顔を仰ぎ見る」とあるように、私たちは神さまと顔と顔を合わせて交わることができるようになります。しかも「いのちの木」にシーズンはありません。川の両岸で12の実をならせ、毎月一つの実を結ぶということは、私たちはいつでもその実を食べることができるということ、つまり「永遠のいのち」は決して途絶えることがないということです。

そして2節の最後「その木の葉は諸国の民を癒した」。そこには癒しがあります。罪が蔓延る今の世界にあって、私たちは多くの傷を抱えています。他の人から、この世界から傷つけられることもあれば、自分で自分を傷つけてしまうこともあります。体の傷もあれば、心の傷もあります。私たちは傷んでいる。しかし、神さまのもとには癒しがあります。神と子羊の御座から流れる「いのちの水」、それを吸って育つ「いのちの木」、そしてその「木の葉」によって私たちが抱えている全ての傷が癒やされます。

ですから、私たちはもう何も恐れる必要はありません。3節「もはや、のろわれるものは何もない」、5節「もはや夜がない」。神さまに反するものはすべて滅びてなくなるということです。私たちを苦しめていた罪ののろいはもはや存在しない。暗闇の中で孤独と恐怖に怯えることももはやない。神である主が全てを照らしてくださるからです。私たちは神さまとともに光の中を生きることができるようになります。

 

祭司王として

一つ目のポイントは神さまのご臨在。続く二つ目のポイントは私たち自身に関することです。3節の最後から4節「神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている」。ここで意識されているのは祭司です。旧約時代、祭司は額に「主への聖なるもの」と彫られた純金の札を付けて神さまに仕えていました。けれども新天新地では全ての人が祭司として神さまに仕えるようになると言われています。しかも旧約時代は祭司であっても神さまを直接仰ぎ見ることはできませんでしたが、新天新地では神さの御顔を直接仰ぎ見ることができるようになります。御顔を直接仰ぎ見ながら神さまを礼拝する。今私たちがもっているこの礼拝は、その先取りです。その前味です。私たちは毎週日曜日の主の日に集まり、神さまのご臨在の中でともに礼拝をささげることによって、やがて新天新地で実現する完全な礼拝の先取りをしているのです。そう考えると、まだ見ぬ新天新地に現実味が出てこないでしょうか。

そして、私たちは祭司として神さまに仕えるだけではありません。5節の最後「彼らは世々限りなく王として治める」。私たちは祭司であるのと同時に王としてこの世界を治めていくことになります。もちろんトップには「神と子羊の御座」、父なる神さまとイエスさまがおられますから、イメージとしては将軍の下で委ねられた地方を治める地方のお殿様といった感じでしょうか。すごいことです。これは黙示録になって突然出てきたことではありません。実はエデンの園においてもそうでした。神さまがエデンの園で人間に対して「地を従えよ。すべての生き物を支配せよ」と命じたように、この地上を王として治めるというのは元々人間に与えられていた務めでした。しかし、人間は罪ゆえにこの世界を正しく治めることができていません。人間は私利私欲によって環境を破壊し続けています。多くの自然災害はそのしっぺ返しとも言えるかもしれません。けれども新天新地において私たちはついにこの世界を正しく治めることができるようになります。御座についておられる神さまの愛と正義の支配を世界中に行き渡らせることができるようになるのです。

 

結論

やがてもたらされる新天新地はどのようなところか、たくさんのことをお話ししました。素晴らしい世界がここには描かれています。理想の世界です。そこで最後に問いたいのは、私たちはこの新天新地をどれどれだけ自分自身の希望としてもっているかということです。黙示録は最後、イエス・キリストのことばで閉じられています。2220節「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」「わたしはすぐに来る」と言われたイエスさまのことばを私たちはどれだけ真剣に受け止めているでしょうか。「主イエスよ、来てください」とどれだけ真剣に祈り求めているでしょうか。どこか、イエスさまが来られるのはまだまだ先だと思っていないでしょうか。今の世界がこれからもずっと続くような気でいないでしょうか。けれども世界を見渡すと、そこには多くの苦しみがあります。痛みが、傷が、闇が、涙があります。この世界なんてなくなってしまえばいい、そう思いながら自らの命を絶つ人がどれだけいるでしょうか。

この世界は希望を必要としています。まやかしではない、消えることのない真の希望を世界は必要としています。ですから私たちは聖書を通してこの希望を受け取っている者として、ここに希望があることを、イエス・キリストにこそ希望があることを証ししていきたいのです。そして希望を知っている者として、この希望の実現を、イエスさまの再臨を、新天新地を誰よりも待ち望んでいきたい。この世界全体がいのちの水で潤され、いのちの木の葉で癒やされ、神さまの光に照らされるその日を、完成した世界を祈り求めていきたいのです。「主イエスよ、来てください」。私たちの祈りがここにあります。

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