マタイ9:12「赦しの世界へ」

 

私たちの教会には年間目標、そして年間聖句というものがありまして、月に1回、原則第一日曜日に年間目標に基づく聖書箇所から神さまのことばに聴いています。はじめに、年間聖句を確認しましょう。週報の一面をご覧ください。「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」(ルカ11:1)。この聖書のことばから、「祈りに生きる教会」という目標を立て、月に1回、イエスさまが私たちに教えてくださった「主の祈り」を順番に学んでいます。今日はその6回目「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」という部分です。

 

赦されることと赦すこと

私たちの教会では数年前から新改訳2017という新しい聖書の翻訳の文言で主の祈りを祈っていますが、今日の部分の翻訳に関しては違和感をおぼえておられる方がいらっしゃるかもしれません。この一つ前の新改訳聖書第三版では、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」となっていました。すでに赦したという事です。あるいは伝統のある文語訳の主の祈りでは、「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」となっていました。私たちが他の人を赦すように、私たちのことも赦してください。かなり意味合いが違って聞こえます。それを踏まえて改めて私たちが今用いている新改訳2017の文言を見ると、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」となっている。「赦します」、これは赦しの決意の宣言ということができます。一体どの翻訳が正しいのか、聖書を読む私たち読者からすると、少し混乱してしまうかもしれません。

詳しいことはこの後追々話していきますが、はじめに覚えておきたいのは、いずれの翻訳にせよ大事なのは、私たちが神さまから赦されることと、私たちが他の人を赦すこととは別々のことではなく、一体だということです。二つはバラバラに起こることではなく、密接につながっているということ。

 

イエスさまのたとえ話

では二つはどうつながっているのでしょうか。これは観念的なことだけでは理解が難しいということで、イエスさまは私たちにある一つのたとえ話を残してくださいました。ともに開いてみましょう。マタイの福音書1823-35節(新37-38)です。少し長いですがお読みします。

 

ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

 

いかがでしょうか。赦されることと赦すこと、ことばだけ聞いてもなかなかピンときませんが、このたとえを通して二つのつながりがはっきりと見えてくると思います。おそらく誰がこのたとえ話を読んでも、しもべは彼の仲間を赦してやるべきだったという結論に至るはずです。しもべが王さまから借りていた一万タラントというのは現代の日本円にすると約6,000億円です。それに対して、しもべが仲間に貸し付けていたのは百デナリ、約100万円です。6,000億円という莫大な借金を王さまに免除してもらったのだから、仲間の100万円の借金を赦してやるぐらいのことは当然すべきではないか。赦された者は他の人を赦していくべき、誰しもがそのような結論に達するはずです。

しかしイエスさまはそこで問うわけです。「あなたも同じことをしているのではないか」と。このたとえの中の王さまは神さまのことです。私たちは神さまに対して莫大な借金を、負い目を負っている。本来であれば神さまにささげるべき礼拝を、他の神々にささげる。本来であれば神さまに寄せるべき信頼を、お金、地位、名誉、人間に寄せる。本来であれば神さまに帰すべき栄光を、自分自身に帰する。私たち人間はそのようにして神さまの栄光を奪い取り、神さまに対する借金を、負い目を増やし続けてきました。積もりに積もった莫大な負い目です。しかし神さまはイエス・キリストの十字架によって、それを全て帳消しにしてくれたではないか。あなたたちは赦されたではないか。それなのになぜあなたたちは他の人を赦そうとしないのか。なぜこのしもべのように振る舞うのか。イエスさまはこのたとえ話を通して私たち一人ひとりに問うておられます。

 

赦しの難しさ

しかし、そう問われて「じゃあ赦します」と簡単に言えないのが現実ではないでしょうか。人を赦すというのは簡単な話ではありません。赦せないからにはそれなりの理由があるはずです。その人のせいで大きな損害を被った。心が抉られるほど傷ついた。眠れない夜を何日も過ごした。人生そのものが狂わされた。それなのに相手は知らん顔をしている。何もなかったかのように平然と生きている。そんな相手を無償で赦せだなんて、そんな理不尽なことがあってたまるか。それ相応の報いを受けるべきだ。

人を赦すことは難しい。それが現実です。けれども、そのままでいいと思っている人はいないはずです。なぜか。赦せない状態は苦しいからです。赦せない状態は苦しい。心安らぐ時がない。いつも憎しみに支配されている。小説やドラマなどでもよく復讐劇が描かれますけれども、主人公は苦しいわけです。苦しくて夜も眠れない。その苦しみから何とかして逃れるために、復讐にひた走ってしまう。けれども、たとえ復讐が果たされても、心は晴れない。ずっと何か重いものが、憎しみの種が心の奥底に沈んでいる。とても苦しい人生です。

 

憎しみからの解放

人を赦すことができない、憎しみの支配。そこから私たちを解放するためにイエスさまが教えてくださったのが、この主の祈りです。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」。この順番が大切です。これがもし逆だったらどうでしょうか。「私たちは私たちに負い目のある人たちを赦します。だから私たちの負い目をお赦しください」。もしこの順番であったなら、誰もこの祈りを祈ることはできないでしょう。赦しというのは私たちの自然な心の流れに反するものです。真の赦しは決して私たちの中からは出てきません。だからこそ私たちはまず天に目をあげてこう祈るのです。「私たちの負い目をお赦しください」。それによって、私たちは自分が神さまに対して負っている負い目の重さを知ります。借金地獄の自分の状態に気づく。けれどもそれと同時に、私たちの目の前にイエス・キリストの十字架が立っていることに気づくのです。私たちが決して払い切ることのできないこの莫大な負い目を、イエス・キリストは十字架の上でご自分の尊いいのちをささげることによって支払ってくださった。神さまご自身が自ら大きな犠牲を払ってくださった。それによって私たちの負い目は、借金はすべて帳消しになった。そして神さまは私たちを憎しみの支配から解放し、赦しの世界、神の国へと招き入れてくださった。私たちはすでに神さまによって赦されている。赦しの世界へと入れられている。これがイエス・キリストによる救いです。

そして、憎しみの世界から赦しの世界へと移された私たちは、神さまの赦しの中を生きることによって、少しずつ変えられていきます。憎しみに支配されていた心が少しずつ癒されてくる。そして自分がすでに神さまから赦されていることを知った者は、今度は人を赦す者へと少しずつ変えられていきます。言い方を変えれば、赦されていることを知った者だけが、本当に人を赦すことができるようになるのです。その中で私たちは、「私たちの負い目をお赦しください」という祈りから、「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」という決意へと進むことができるようになります。「私たち赦します」ではありません。「私たち、神さまが赦してくださったように人を赦します」。神さまの赦しが私たちを内側から変えていきます。

 

ありのままの姿で神の前に

それは時間のかかることかもしれません。この説教の準備をする中で、第二次世界大戦中のヨーロッパのある国でのエピソードを読みました。国同士が殺し合いをしている中、日曜の礼拝でいつも通り主の祈りが祈られたようですが、この赦しの部分にまで差し掛かった時、突如皆が口をつぐみ、沈黙が流れたそうです。知り合いが、友人が、家族が敵国に殺されている中、誰もこの祈りを祈ることができなかった。悲痛な思いが伝わってきます。誰もその教会を裁くことはできません。むしろ、本当はそう思っていないのに口だけで祈るような偽善の祈りよりもはるかに真剣な祈り人たちの姿がそこにあります。

今日この場でも、もしこの祈りを祈ることができないと思う方がいらっしゃるのであれば、それはあなたがこの祈りと正面から向き合っていることの証拠です。ぜひその真剣な信仰を大切にしていただきたいと思います。しかし同時に、決して諦めないでください。憎しみの世界から赦しの世界へと私たちを移してくださった神さまは、今なお残る憎しみの残滓から必ず私たちを解放してくださいます。憎しみに支配された私たちの心を癒し、赦しへと解き放ってくださいます。ですからたとえこの祈りを祈ることができなくても、いや、できないからこそ、私たちはありのままの姿で神さまの前に進み出ていきたいのです。どうしてもあの人を赦すことができませんと正直に神さまに告白し、この憎しみから私を解放してください、あなたが私を赦してくださったように、私も人を赦す者へと変えてくださいと祈り続けていきたい。その中で、いつかこの主の祈りを真心から祈ることができるようになる日を、希望をもって待ち望んでいきたいと願います。

この後最後に、主の祈りをみなさんで声を合わせて祈ります。もしこの祈りと向き合う中で、どうしても祈ることはできないという方がいらっしゃれば、それで構いません。いつかこの祈りを祈ることができるように、「赦します」と決意の宣言をすることができるように、正直な心をもって神さまに祈り求める時間をもってください。

それではともに祈りましょう。主の祈り。

 

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン。

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