マルコ12:1-12「要の石キリスト」

 

私たちの教会では2年半前からマルコの福音書を順番に少しずつ読み進めていますが、今日からいよいよ12章です。今日の箇所では、イエスさまのたとえ話が記されています。マルコの福音書にこれまで登場したイエスさまのたとえ話のほとんどは謎に満ちたものでした。現代の私たちはおろか、当時直接その話を聴いていた人々も、いつもイエスさまのそばにいた弟子たちも一回聴いただけではよく分からない。だから後になってこっそり「あれはどういう意味だったのですか」と聞き直す、そのような場面が多く描かれてきました。しかし今日のたとえ話はどうでしょうか。最後の12節を見ると、「彼らは(つまりイエスさまに敵対するユダヤ人の指導者たちは)、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので」とあります。彼らはたとえ話のすべてとは言わずとも、それが自分たちに対する批判、裁きのことばだということがすぐに分かったということです。

 

イスラエルの歴史

多くの場合、人間は自分に対する悪口に一番鋭く反応するという傾向をもっていますので、今回もそういった面があるかもしれませんが、実は今回に関してはもっと深い事情が存在しています。このたとえ話の舞台は「ぶどう園」ですけれども、このぶどう園は旧約聖書の時代から、イスラエル、神の国をあらわす象徴的な表現としてよく用いられてきました。今日は開きませんが、一番代表的なのは1節の脚注②にも記されているイザヤ書5章です。関心のある方は後ほどご自分で開いてみてください。

とにかく、イエスさまがぶどう園ということばを発した瞬間、聴いていた人々は「あ、これはイスラエル、神の国に関することだ」とすぐに気づいたはずです。そして登場人物がそれぞれ誰のことを指しているのか、すぐに分かりました。ぶどう園の主人は(父なる)神さまです。神さまははじめにぶどう園を造られた。やがて豊かに実が生い茂り、そこで人間と一緒に喜び生きるためです。そして、自身が留守にしている間、農夫たちにぶどう園を貸し出し、全体の管理を任せた。この農夫たちとは、当時のユダヤ人指導者たちのことです。彼らは人々に神さまとともに歩む生き方を教え、豊かな実を結ばせるという大切な役割を任されました。

そしていよいよ収穫という時、主人である神さまは農夫たちのところにしもべを遣わします。このしもべとは、旧約時代の預言者たちのことです。神さまはぶどう園がどれだけの実を結んでいるかを確かめようと、預言者たちを遣わしました。いわばご自身の代理人としてです。そして預言者たちは主人である神さまのことばを預かり、それを人々に語りました。

しかしユダヤ人たちはどうしたかと言うと、「彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した」とあります。そして続くしもべたちも頭を殴られ、辱められ、殺されてしまいます。主人からぶどう園の管理を任されたユダヤ人指導者たちは、権力の甘い味をおぼえてしまい、それを手放したくなかった。「このぶどう園は自分たちのものだ!主人なんかもう必要ない!」神さまの権威を認めようとしなかった。神さまのことばを聴こうとしなかった。その結果、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどに代表される旧約時代の預言者はみな迫害され、最後の預言者であるバプテスマのヨハネに至っては無惨にも殺されてしまいました。

 

罪の極み

しかし6節「しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした」。ぶどう園の主人である神さまは、最後の望みとしてご自分の愛する息子を遣わしました。神の子イエス・キリストです。ここに私たちは、神さまの大きな憐れみと忍耐を見ます。もし私が主人であれば、一人目のしもべが捕らえられ打ちたたかれて戻ってきた時点で、自らぶどう園に乗り込んで農夫たちを追い出していたと思います。それがおそらく普通の主人の対応です。しかし神さまは違いました。神さまは誰よりも農夫たちを愛していました。一緒にやっていきたかった。彼らを諦めたくなかった。普通に考えれば、しもべが何人も殺されている中で、愛する息子を送ろうとは思いません。殺されるのは目に見えています。けれども神さまは農夫たちを信じたかった。主人である私のことを思い出してくれ。お前たちが悔い改めるなら、これまでのことは全部赦すから、もう一度一緒にやり直せないか。反逆者である農夫たちをとことん愛しておられた神さまのお姿です。

しかし7-8節「すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた」。主人の思いは届くことなく、主人の愛する息子は殺されました。イエス・キリストの十字架です。農夫たちのうちにはもはや主人への思いはまったく存在していなかった。彼らの罪は極みにまで達していました。神さまの憐れみと忍耐を拒否し、行くところまで行ってしまった。その結果、農夫たちは最後の裁きを受けることになります。そして実際、イエス・キリストを拒否し、十字架で殺した当時のユダヤの体制は、その後ローマ帝国によって徹底的に滅ぼされ、神さまの裁きをその身に受けることになりました。

これは当時のユダヤ人指導者たちだけの問題でしょうか。そうではありません。私たちも同じです。彼らの内には、神のことばに背き続ける私たち人間の姿が現れています。確かに私たちは直接に預言者やイエス・キリストを殺してはいません。遠い昔の話です。しかしもし私たちが、聖書と聖霊を通して今も語られている神さまのことばを侮り、拒否し、自らの内から追い出しているのであれば、それは神のことばを殺しているということです。この世界に神はいらない。人生の主人は自分自身。神のことばなんて、そんなの知るか。神は黙っていてくれ。私たちに一生懸命語りかけてくださっている神さまの憐れみと忍耐を拒否しているのであれば、それは預言者、そして神の御子イエス・キリストを殺しているのと同じです。キリスト殺しの罪は決して当時のユダヤ人指導者たちだけに帰されるものではありません。キリストが十字架の上で殺されたのは、私たち自身の罪ゆえでもあるのです。このたとえ話から、私たち自身の罪深さを知る必要があります。神のことばを、イエス・キリストを十字架につけて殺したという罪の重さと向き合わなければいけません。

 

新しい神の家

しかし、そこで終わってはいけません。今日の箇所もそこで終わってはいないからです。10節「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」これは旧約聖書の詩篇のことばです。ここでいう「家」は先ほどのたとえの中のぶどう園と同じで、イスラエル、神の国を表しています。神の家と言ってもいいかもしれません。「家を建てる者たち」、これはユダヤ人指導者たちです。自分たちが作り上げていく家には必要ないと「捨てた石」。十字架の上で殺されたイエス・キリスト。しかしその石が、キリストが、「要の石となった」。「要の石」とは、それがなければ建物は成り立たないという最も大切な石のことです。家を建てる者たちはその石を捨てたと思ったけれども、家の真の主人である神さまは、その石を中心に据えて新しい家を、神の国を造られた。イエス・キリストの復活のことです。人間の罪によって殺された神の子イエス・キリスト。しかし神と人がともに喜び生きる素晴らしいぶどう園を完成させたいという神さまのご計画はそこで終わりませんでした。神さまはイエス・キリストを復活させ、よみがえらせ、キリストを要の石、中心とした新しい家を、神の国をもたらしてくださったのです。

そして神さまは今、私たちをその新しい神の家へと招いてくださっています。この新しい家で、神の家族としてともに喜び歩んでいこうと私たちを招いてくださっています。この神さまの招きに私たちは応えていきたいのです。キリストを十字架につけて殺すほどのこの罪を神さまの前で認め、悔い改め、イエス・キリストこそが私たちの救い主であることを告白していきたい。そして聖書と聖霊を通して語られる神さまのことばに聴き、神さまのことばを殺すのではなく、神さまのことばによって生かされていきたい。イエス・キリストを土台として、神さまとともにこの新しい家を、神の家族を、教会を建て上げていきたい。そう願います。私たちの天の父なる神さまは、今日もこの神の家に、神の家族である私たちの中にともにいてくださいます。

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