マタイ6:10「御国が来ますように」

 

今日は年間目標にちなんだ説教です。はじめに年間聖句をともに読みましょう。週報の一面の一番上をご覧ください。「さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子たちの一人がイエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください』」(ルカの福音書111節)。今年はこの聖句から、「祈りに生きる教会」という目標を掲げています。その中で、イエスさまが私たちに教えてくださった「主の祈り」から毎月御言葉に聴いていますが、今回は二つ目の願いである「御国が来ますように」です。

 

「御国」とは?

「御国が来ますように」。「御国」とはなんでしょうか。一般的にはこの漢字ですと「おくに」と読む方の方が多いかもしれませんが、それとは違います。そういった意味で、この「御国」というのはキリスト教の専門用語と言うことができるかもしれません。また教会の中でも、「御国」というのは私たちが死んだ後に行くいわゆる「天国」のことだという理解がありますけれども、それは少し違います。いわゆる「天国」も含みますけれども、もしそれだけの意味であれば、私たちは「御国に行けますように」と祈るはずです。死後の世界ですから。けれどもイエスさまはそうは教えませんでした。「御国が来ますように」、この地上に来ますようにと教えてくださった。重要なポイントです。

では「御国が来ますように」とは何を意味しているのか。実はこの「御国」ということばは、原文から直訳すると、「あなたの王国」、あるいは「あなたの王的支配」ということばになります。「あなた」とは誰か。もちろん神さまです。神さまの王国が、神の国がこの地上に来ますように。神さまご自身が王としてこの地上の全てを治めてくださいますように。神さまのご支配がこの地上にもたらされますように。そのような意味をもった願いです。

 

「すでに」の側面

この神の国、御国には二つの側面があります。一つ目は、神の国は「すでに」この地上にもたらされているという側面です。どういうことでしょうか。一箇所聖書をお読みします。お開きになれる方はお開きください。ルカの福音書1720-21節(新153)「パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。『神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』と言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです』」。「神の国は目に見える形で来るものではない」、これは神の国の大きな特徴です。一般的に「国」というと、必ず領土があります。学生の頃、社会の時間に国家の三要素というものを習いましたが、国には必ず主権、国民、そして領土、この三つが必要です。領土があれば、ここからここまではこの国というように、目に見える形で国を現すことができます。けれども、神の国はこの世の国とは違うとイエスさまは言われました。神の国は目に見える形で来るのではなく、あなたがたのただ中にあるのだと。

「あなたがたのただ中にある」、これも謎めいた言い方ですが、ここでイエスさまが言われているのは、神の国は今あなたたちの目の前に来ているじゃないかということです。なぜか。神の国の王であるイエス・キリストがそこにおられるからです。神の国の王であるイエス・キリストがおられるところに神の国はある。すでに来ている!それがイエスさまの宣べ伝えた福音の内容でした。そしてイエスさまはその後十字架にかけられ、茨の冠をかぶせられました。神の国の王として戴冠式です。そしてその三日後に復活し、天に昇られ、王座につかれました。イエスさまは天に昇られる直前にこう言われました。「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています」(マタ28:18)。すべての権威が与えられている。神の国の王だからです。

そしてイエスさまは今も天から、この地上を治めておられます。どのようにしてか。御言葉と聖霊を通してです。先ほど、キリストがおられるところに神の国が来ていると申し上げました。そのキリストのことばが御言葉です。そしてキリストの霊が聖霊です。イエス・キリストは今も神の国の王として、御言葉と聖霊によって、この世界を、教会を、キリスト者一人ひとりを治め、導いておられます。御言葉が語られ、御言葉に聴き従う人がいるところ、そこに神の国はすでに来ている!聖霊が内に住み、聖霊に導かれている人がいるところ、そこに神の国はすでに来ている!教会堂の中だけではありません。家にいようと、職場にいようと、どこにいようと、御言葉と聖霊に導かれている人がいるところに、神の国は確かに存在しているのです。この神の国のリアリティをぜひ感じ取ってください。

 

「いまだ」の側面

さて、ここまで、神の国は「すでに」この地上にもたらされているという側面について考えてきました。しかし、現実を見るとどうでしょうか。イエス・キリストがこの地上を治めておられるはずなのになぜ…。そのように感じることがこの地上には溢れています。今のこの時期、真っ先に思い浮かぶのはウクライナ情勢です。なぜここまで悪の力は強いのか。神さまの支配は一体どこにあるのか。日本を見渡しても、毎日のニュースで流れる犯罪の数々、抑圧と貧困に苦しむ人々、神さまが願われている世界とは真逆の世界が今日も存在しています。教会もそうです。イエス・キリストを主として、神の国の王として礼拝している教会。神の国がそこにもたらされている。にもかかわらず、教会は完全には程遠い。いまだに罪人の群れです。癒しと平安を与えるはずの教会が、逆に人々に傷を負わせてしまう、そのような例はたくさんあります。そしてキリスト者一人ひとりも同じです。キリストを信じ、キリストを主として、王として心に迎え入れた私たち。聖霊がうちに住み、神の支配がもたらされている。けれども、簡単に罪の誘惑に負けてしまう。一体何度イエスさまを裏切ったら気が済むのだろうか。完全には程遠い、罪を犯し続けてしまう自分がいます。

ここに、神の国の二つ目の側面があります。神の国は「いまだ」完成していないということです。イエス・キリストは十字架と復活によって悪の支配に打ち勝ちました。神の国は「すでに」もたらされました。しかし、「いまだ」完成していない。なぜか。この地上にはまだ悪の力が残っているからです。最後の足掻きをしている。しかしその最後の足掻きが非常に手強いわけです。この世界で、教会の中で、私たちの中で猛威を振るっている。戦いがそこにあります。悪の力とのせめぎ合いがそこにあります。そのような「すでに」と「いまだ」の間に置かれているのがこの地上の教会であり、私たちキリスト者です。だから私たちはその間でもがき苦しみます。神の国の民とされ、神の国のあるべき姿を知っているがゆえに、この地上の現実とのあまりの差にもがき苦しむ。なぜこの世界にはこんなにも悪が満ちているのか。なぜ教会はこんなにも不完全なのか。なぜ自分はこんなにも罪深いのか。

「すでに」と「いまだ」の間での祈り

だから、私たちは祈るのです。「御国が来ますように」。神の国の王であるイエス・キリストにいよいよ従うことができるよう、御言葉と聖霊によって私たちを治めてください。あなたの教会をきよく保ち、神の国をこの地上に証しする存在とならせてください。この世界の悪の力を滅ぼし、神の国の完全な平和をもたらしてください。「すでに」と「いまだ」の間で、悪の力とのせめぎ合いの中で、私たちは熱心に祈っていく。イエスさまが私たちに教えてくださった祈りです。

この祈りは、決して空振りに終わることはありません。この祈りは私たちの希望でもあります。聖書の一番後ろ、黙示録の最後でイエスさまはこう約束してくださっています。そのままお聞きください。「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙22:20)。2000年前、イエス・キリストによって「すでに」もたらされた神の国は、「やがて」イエス・キリストが再び来られる時に完成する。「しかり、わたしはすぐに来る」、イエスさまご自身がそう約束してくださっています。この約束があるからこそ、私たちは確信をもって「御国が来ますように」と祈ることができます。この戦いには必ず終わりがやってくる。完全な勝利が約束されている。この確かな希望を胸に刻みながら、最後に「主の祈り」をともに祈りましょう。主の祈り。

 

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン。

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