ヨハネ14:25-31「さあ、ここから行くのです」

 

「聖書が語る神はどんな神ですか」と問われたら皆さんはどのように答えるでしょうか。いろいろな答え方があると思います。その中で今日私たちが考えたいのは、「ともにいてくださる神」です。「ともにいてくださる神」、これは聖書の大きなテーマの一つで、聖書が語る神さまの大きな特徴です。

しかし、ともにいてくださると言っても、それが目に見えるわけではありません。そもそも聖書によれば、神さまはこの地上には住んでおられません。神さまはこの地上とは区別された「天」という領域におられると聖書は教えています。そういった意味で、この地上の自然そのものが「カミ」であると考える日本の伝統的なカミ観、神道の「カミ」とは大きく違うということになります。では、その「天」におられる神さまは一体どのようにして私たちとともにいてくださるのか。それを教えているのが今日開いている聖書の箇所です。

 

天からの助け主

場面は、イエス・キリストが十字架にかかる前の晩、いわゆる「最後の晩餐」の時です。イエスさまはその場で、ご自分が間も無く十字架にかかり、復活し、天にあげられると弟子たちに語りました。弟子たちを残して、イエスさまは行ってしまわれる。自分たちが愛し、慕ってきたイエスさまがもうすぐいなくなってしまう。イエスさまがいないと、どこに進めばいいかも分からなくなってしまう弱い弟子たちです。自分たちは一体この先どうすればいいのか。イエスさまは自分たちを見捨ててしまうのか。大きな不安がありました。

そこで、イエスさまは語りました。25-26節「これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」。「わたしは決してあなたたちを見捨てはしない。わたしはこの地上を離れて天に行くけれども、代わりに聖霊をあなたたちに遣わす」。この聖霊というのは、精神の「精」に「霊」と書く「精霊」ではありません。水の精霊とか、火の精霊とか、そういった類のものではない。「聖なる霊」、神さまの霊、イエス・キリストの霊のことです。イエスさまは天に行ってしまわれるけれども、その代わりに、ご自身の霊を、聖霊を、キリストを信じる弟子たちに注いでくださる。そしてその聖霊を通して私たちとともにいてくださる。イエスさまはそう約束されました。

そしてその聖霊は「助け主」であると言われています。聖書はもともとギリシャ語で書かれているのですが、ここで「助け主」と訳されていることばは大変豊かな意味をもっていることばです。元々の意味は「傍らに呼ぶ」です。私たちの傍らに、すぐそばに来てくださるお方。そしてこのことばは同時に、励ます、慰める、助ける、弁護する、執りなすという意味ももっています。これはまさに、イエスさまがこの地上におられた時に弟子たちに対してされていたことでした。辛い時には励まし、悲しい時には慰め、困難の時には助け、敵を前に弁護し、執りなしの祈りをしてくださった。けれどもこれからは聖霊さまが、キリストの霊が、私たちの傍らにいて、わたしたちを内側から励まし、慰め、助け、弁護し、執りなしてくださる。そしてそれだけではありません。26節後半にあるように、イエスさまが天に行かれた後でも、私たちが道に迷うことがないように、進むべき道を見失うことがないように、イエスさまが語られたすべてのことを思い起こさせてくださる。イエスさまが私たちを見捨てるなんてとんでもありません。むしろこの地上におられた時以上に私たちの近くで、私たちの心の中で、私たちを支え導いてくださる。ご自身に従う者を決して見捨てず、愛を注ぎ続ける神さまのお姿がここにあります。

 

聖霊による平安

そして聖霊は私たちの心にあるものをもたらしてくださいます。27節「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません」。聖霊がもたらすもの、それは「平安」です。平安とはなんでしょうか。聖書が語る平安とは、「満たされている」状態のことです。欠けているところがなく、心が満たされている状態です。皆さんはどのような時に平安を感じるでしょうか。自分の心に問いかけてみてください。十分なお金が手元にある時。趣味に没頭している時。おいしい食事をいただいている時。友人とおしゃべりをしている時。家族と一緒にいる時。この世界には、私たちに平安を与えてくれるものがたくさんあります。どれも良いことです。

しかし、イエスさまは言います。「わたしは、世が与えるのと同じようには与えません」。この世が与える平安とは違うというのです。確かに、この世には平安を与えてくれるものがたくさんあります。けれども、永遠という観点から見る時、そこには限界があることに気づきます。一度お金を手にしたからといって、ずっと裕福でいられるとは限りません。逆にお金が人を不幸にすることもあります。趣味も24時間365日没頭できるわけではありません。おいしい食事も、無限に食べ続けられるわけではありません。友人ともずっと一緒にいられるわけではありません。家族とも、いつか別れなければならない時が来ます。この世の平安にはどれも限界がある。そうではないでしょうか。

イエスさまが与えてくださる聖霊による平安は違います。聖霊さまはどんな時であっても、うれしい時も、悲しい時も、辛い時も、苦しい時も、私たちの心の中に、傍らにいつもいてくださいます。変わらずいてくださいます。周りの環境がどんなに変化しようと、周りの人間がどう変わろうと、いつも変わらず私たちの心の一番深いところに住み、平安を注ぎ続けてくださる。それが、イエスさまが私たちに残してくださった、聖霊による平安です。

 

聖霊による前進

私たちはこの平安によって、前に進んでいくことができます。30節には「この世を支配する者が来るからです」とあります。これはイエスさまがこれからかかろうとしている十字架のことを指しています。神の子であるイエス・キリストを十字架につけてしまうほどの悪の力が迫ろうとしている。目の前は真っ暗です。十字架という死刑台に向かっていく道です。悪の中枢に、人間の罪の渦の中に飛び込もうとしている。しかしイエスさまは言いました。「彼はわたしに対して何もすることができません」。イエスさまはこの後、実際に十字架につけて殺されました。悪の力に負けてしまったかのように思えた。しかし、悪の力がどれだけ強くても、イエスさまのうちにあった聖霊による平安だけは取り去ることができませんでした。肉体は十字架の上で死ぬけれども、天の父なる神さまは必ず自分を復活させてくださる。神さまが与えてくださったこの永遠のいのちは誰も奪い取ることはできない。神さまは必ずすべてを善きに取り計らってくださる。その確信がありました。周りの世界がどれだけ罪と悪に満ちていようと、聖霊の平安は決して変わることがなかったのです。

そしてイエスさまは弟子たちにも語りかけました。31節の最後「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」。「さあ、行ってらっしゃい」ではありません。「さあ、ここから行くのです」、これは「ともに行こう」という意味です。向かっていく先は暗闇。何も見えない。しかし、わたしがあなたたちと一緒に行くから、恐れずに一歩を踏み出していこう。前に進んでいこう。イエスさまのことばです。

そしてイエスさまは今も私たちに語りかけておられます。天におられるイエスさまは、今も聖霊を通して私たちとともにいてくださる。私たちの心の中に、傍らにいてくださる。恐れと不安のあまり、一歩を踏み出せない時も、傍らにいて、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」と励ましてくださる。目の前がどんな暗闇であろうと、ともに一歩を踏み出してくださる方がおられる。聖書が語るインマヌエルの神さまのお姿です。このペンテコステの時、その聖霊が、私たちの傍らに住んでくださる助け主が与えられていることを思い起こしたいと願います。

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