マタイ6:9「御名をあがめる歩み」

 

2022年も早いもので三分の一が終わりました。今年度私たちは「祈りに生きる教会」というテーマのもと、主の祈りを通して御言葉に聞いています。今日はその3回目、「御名が聖なるものとされますように」の部分です。これまでの2回、主の祈りは単に私たちの願いを神さまにお伝えする祈りではなく、自分の必要しか見えない小さな世界から私たちを解放してくれる祈り、天のお父さまの愛のもとで、神の子どもとしての生き方を教える祈りだということをお話ししました。それはこの主の祈りの構成にもよく表れています。主の祈りには全部で六つの願いがありますが、その中で私たち自身に関する願いは後半の三つだけです。11節から13節はすべて「私たち」という言葉から始まっています。では前半の三つは何かというと、これは神さまに関する願いです。「御名が」「御国が」「みこころが」、すべて神さまに関すること。これは旧約聖書の十戒の構成に似ています。私たちは主の祈りを祈ることによって、まず神さまを第一とすることを学んでいく。神さまを第一とする歩みに変えられていく。そして神さまを第一とする中で、自ずと私たちの必要が満たされていくことを経験するのです。

 

「御名が聖なるものに」?

その中で今日は第一の願いです。「御名が聖なるものとされますように」。いまいち意味がピンとこない願いかもしれません。今私たちは2017年に出版された新改訳2017という聖書の翻訳を使っていますが、この前の版ではこの部分は「御名があがめられますように」と訳されていました。もしかしたらそちらの方が意味は伝わりやすいかもしれません。もちろん翻訳としては今の2017版の方が正確なのですが、意味しているところは前の版の翻訳と同じです。

「御名」というのは神さまのお名前のことです。ただ以前にもお話ししたことがありますが、名前というのはその人の存在そのものを表します。ですから「御名が聖なるものとされますように」は、「神さまが聖なるものとされますように」とそのまま言い換えることができます。「聖なるものとされる」というのも少し漠然とした言葉だと思いますが、これは要するに「尊ばれますように」、あるいは前の版のように「あがめられますように」という意味です。神さまが神さまとして尊ばれ、あがめられるように。ほめたたえられるように。礼拝され、賛美されるように。この第一の願いはそういった豊かな意味をもっています。

では、そこで私たちは具体的に何をイメージするでしょうか。神さまを知らないあの人が、神さまと出会い、神さまを信じ、この礼拝に加えられますように。世界中のすべての人に福音が宣べ伝えられ、この世界が賛美で満たされますように。私たちの切なる願いです。一人でも多くの人に神さまを知ってほしい。ともに神さまを礼拝したい。私たちはそう願っています。

しかし、それだけでしょうか。神さまを知らない周りの人々のことを、神さまを知らないこの世界のことを思いながら、「御名が聖なるものとされますように」と祈る。それだけでしょうか。どこか他人事の願いになっていないだろうか。私たちは問いたいと思います。私たち神の民は、教会は、私自身はどうだろうか。

 

御名を汚してきた神の民

この世界では、子どもの言動によって親の評判が左右されるということが起こります。それが良いか悪いかどうかは別として、それが現実です。子どもを見れば、親が分かる。子どもがよいことをすれば、親も称賛され、逆に子どもが悪いことをすれば、親の評判も落ちる。ある意味子どもというのは親の評判を、親の名前を負っている存在です。

キリスト者というのは、神の子どもとされた者たちです。私たちは神の子どもとして、神さまのかたちを、神さまのお名前をこの身に負っています。私たちを通して父なる神さまがこの世界に証しされ、現されていきます。では神の子どもであるその私たちは、どのような歩みを送っているでしょうか。私たちを通して神さまがほめたたえられるような、「御名を聖なるものとする」歩みを送っているでしょうか。もしかしたらその逆、私たちを通して神さまが侮られてしまう、「御名を汚す」歩みを送っていないでしょうか。

歴史を見ると、神の民はその過ちを犯し続けてきました。旧約聖書の時代からです。そのままお聞きください。エゼキエル書3619-20節にはこうあります。「わたしは彼らを諸国の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの生き方と行いにしたがって彼らをさばいた。彼らはどの国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民なのに、主の国から出されたのだ』と言ったのだ。」旧約の神の民は、彼らが犯した罪ゆえに、外国に捕囚に連れていかれました。しかし連れていかれた先でも、彼らは神さまの聖なる名を汚し続けたとあります。諸外国は彼らの姿を見て、「イスラエルの神はこんなものか。取るに足らない神だ」と、神さまを侮辱した。神の子どもたちを通して御名があがめられるのではなく、御名が汚された、貶められたのです。

それは何も旧約の神の民イスラエルだけの問題ではありません。新約の神の民も同じことを、いやそれ以上にひどい過ちを犯してきました。これまでも何度かお話ししましたが、十字架を掲げながら他国を侵略し、人々を虐げるということを教会、キリスト教国家は繰り返し行ってきました。あるいは第二次世界大戦、ドイツ軍は「神は我々とともにいる」と記されたヘルメットをかぶって、そしてあの宗教改革者ルターが作った「神はわがやぐら」という賛美歌を行進曲として戦争に出ていったそうです。最近で言うと、ロシア正教会のキリル総主教はプーチン大統領と結託してウクライナ侵攻を支持しているというニュースが流れました。例を挙げればきりがありません。神の民、神の子どもたちによって、どれだけ神さまの御名が汚されてきたか。

そして私たち自身です。神の子どもとして、神のかたち、神の御名を負っている者として、私たちは「御名を聖なるものとする」歩みを送っているだろうか。私たちの生き様を通して神さまの素晴らしさが証しされているだろうか。逆に神さまを貶める、「御名を汚す」ようなことばかりしているのではないか。「御名が聖なるものとされますように」と祈る時、私たちは自分自身の罪深さを思わざるを得ません。

 

主の祈りへの招き

しかし同時に、そんな私たちであっても、いや、そんな私たちだからこそ、この主の祈りへと招かれているということを思い起こしたいと思います。こんな私たちの罪深さゆえに、イエス・キリストは十字架にかかり、罪の赦しをもたらしてくださった。だからこんな私たちであっても、キリストのゆえに今、神の子どもとされている。神の子どもとして、神さまに祈ることができる。まず私たちの中で、神さまへの賛美が湧き上がってきます。私たちの中で神さまの御名があがめられ、聖なるものとされていく。

そしてそこから、こんな自分だけれども、あなたの栄光を現す器としてくださいという願いが生まれてきます。栄光を現すというと難しく、大変なことに聞こえるかもしれません。しかしことは単純です。子どもが親のご機嫌取りをしているのを親は喜ぶでしょうか。喜びません。むしろ、親の愛を信頼し切って、その愛の中で安心して、のびのびと喜びをもって精一杯生きることを親は喜びます。天のお父さまもそうです。神さまの子どもとして、罪の赦しの確信に立ち、全てを治めておられる大きな神さまの愛の中で、安心してのびのびと喜びをもって精一杯生きていく。自由と喜びの中で、神を愛し、隣人を愛していく。そのような私たちの歩みを通して、父なる神さまの愛が、喜びが、自由が、栄光がこの世界に現れていくのです。

パウロはこのように言います。今日のみことばにもあげました。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」食べるにも飲むにも、全生活を通して神さまの栄光を現していく、これが神の子どもとしての私たちの歩みです。そしてそのような神の子どもたちの歩みを通して、全世界に神さまの福音が証しされていく。「あなたたちの信じている神さまはなんて素晴らしいんだ」、全世界で神さまの御名があがめられるようになっていく。「御名が聖なるものとされますように」、この祈りが実現していくのです。

最後に、今日の御言葉を思い起こしながら、心を合わせて主の祈りをともに祈りましょう。主の祈り。

 

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン。

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