マルコ11:1-11「王を迎え入れる」

 

いよいよエルサレムに到着です。北のガリラヤから、弟子たちと苦楽を共にしながら向かってきた十字架への道のりも、いよいよクライマックスを迎えていきます。時は過越の祭り前です。この時期、多くの人たちが神殿に巡礼するためにエルサレムに集まっていました。その中で一際目を引いたのがこのイエスさまの一行です。エルサレムへの巡礼は徒歩で行くのが通常でしたが、イエスという男はなんと子ろばに乗っている。福音書を見ても、イエスさまが動物に乗るシーンはここだけです。普通ではないイエスさまの姿。明らかに何かが意図されています。特別な意図がそこにはあるはず。

 

ろばに乗った王

その意図とは、旧約聖書の預言の成就です。お開きになれる方は開いてください。旧約聖書ゼカリヤ書99-10節です(旧1621)。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る」。あなたの王がろばに乗ってエルサレムにやって来る。イエスさまの行動の背後にはこの預言がありました。民を苦しみから解放する神の国の王がやって来る。大きな希望の預言です。その希望を現実のものとするために、イエスさまは子ろばに乗ってエルサレムに向かわれました。

人々はそれを見て熱狂しました。マルコの福音書に戻りますが、118節では「多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き」とあります。これは、王さまなどの高貴な人、いわゆるセレブを迎えるときになされたことです。今でいうレッドカーペットのようなものです。それとあわせて「葉の付いた枝を野から切って来て敷いた」とありますが、これも上着を敷くのと同じような意味をもった行為です。そして人々は叫びました。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に。ホサナ、いと高き所に」。「ホサナ」、これは神さまに対する賛美のことばです。この賛美は9節の脚注にあるように、詩篇11825-26節をもとにしたものです。「神さまはついに、旧約聖書で約束されていた真の王さまを、私たちを苦しみから救い出してくださるメシアを送ってくださった!ホサナ、祝福あれ!」人々はイエスさまを神の国の王として熱烈に歓迎しました。

 

政権交代

イエス・キリストは王である。このことについて、今日はともに考えたいと思います。ある説教者は、イエス・キリストを信じるとは、その人の中で政権交代が起きることだと言いました。大変興味深い、しかも聖書的なたとえです。イエス・キリストを信じるとは、私たちの中で政権が、主権が交代すること。

しかし、これがなかなか難しいのです。権力者は、一度権力をもつとなかなか手放そうとはしません。世界のどの独裁国家を見てもそうです。一度権力の座についたら、何十年とそこから降りようとしない、明け渡そうとしない。けれどもそれは単にこの世の国家だけの問題ではありません。私たち自身もそうです。自分の人生は自分のもの。自分の王は自分自身。自分の意志で全てをコントロールしたい。あわよくば、自分の権力を周りにも認めさせたい。周りの人々も自分のコントロール下に置きたい。そのようにして自分の国を、王国を作り上げていく。

ですからそこにキリストが入ってきても、私たちはなかなか主権を明け渡そうとはしません。総理大臣くらいの地位は与えるかもしれませんが、王さまは変わらず自分自身。困った時にだけ助けてもらえればいい。必要になったらその時に呼ぶから、あとは好きにさせてほしい。放っておいてほしい。好きなように生きさせてほしい。

 

「王」の姿

だから、イエス・キリストは王であると言われると困るわけです。そもそも「王」という存在自体、今の時代は好まれません。歴史を通じて様々な独裁国家を見てきた私たちの中には、「王」=人々を抑圧する独裁者だというイメージが染み付いているからです。イエスさまは救いを提供してくれる救い主、それは素晴らしい。私たちを救ってくれる、助けてくれる、ありがたい、好ましい存在です。しかしいざ「イエスは王である」と言われたら、なかなか受け入れられない。あるいはしっくりとこない。この世の「王」のイメージがあまりにも強いからです。

ですから大切なのは、一度私たちの中の「王」のイメージをリセットすることです。この世の「王」のイメージをもとにイエスさまを見るのではありません。逆です。イエスさまの内にこそ、私たちは真の「王」の姿を見ていきたいのです。イエスさまはどのような「王」としてご自分を現されたか。今日の箇所の前半で、イエスさまは弟子たちに民家から子ろばを引いて来なさいと命じます。「主がお入り用なのです」。神の国の王が今このろばを必要としている。けれどもイエスさまは決してろばを強引に奪い取ったわけではありません。「すぐに、またここにお返しします」と言った。この世の「王」とは違う、神の国の「王」の姿です。

そしてイエスさまはその子ろばに乗ってエルサレムに入られました。何のためにでしょうか。武力でローマ軍を追い出し、総督ピラトを追い出し、自ら王座に着くためでしょうか。そうではありません。事実は真逆です。エルサレムに入ったイエスさまは、ローマ軍に捕まり、総督ピラトから死刑を宣告され、人々からは罵られ、弟子たちからは裏切られ、十字架の上で死にました。王であるお方が、本来ならば人々からの賛美と誉れを受けるべき方が、最も弱く小さい者になってくださった。仕えられるべきお方が、仕える者となってくださった。私たちのすべての罪をその身に背負い、私たちの身代わりとして十字架にかかってくださった。民のために自らのいのちをささげてくださった。ここに、真の「王」、神の国の「王」の姿があります。

 

キリストのご支配

イエス・キリストを信じるとは、この「王」を自分の王として迎え入れるということです。政権交代が起こるのです。コロサイ人への手紙113節にはこうあります。「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」。「支配」ということばは「支えて配る」と書きますが、これはまさにキリストの支配の何たるかを表しています。上から押さえつける支配ではありません。王なるキリストはむしろ下から、十字架というこの世で最も低いところから私たちを「支えて」くださる。そして愛と憐れみをもって、私たちに心を「配って」くださる。「支えて配る」、キリストの内にこそ本来あるべき支配の姿が、真の「王」の姿があるのです。

このキリストのご支配の中で、ともに生きてまいりましょう。私たちを支え、心を配ってくださるイエスさまに信頼を置きましょう。「主がお入り用なのです」と言われたら、喜んで私たちのもてる物をささげていきましょう。上着を敷き、葉の付いた枝を敷き、王なるキリストを心に迎え入れていきましょう。「ホサナ、祝福あれ」と、心からの賛美と礼拝をささげていきましょう。今日もイエス・キリストは神の国の王として私たちの礼拝の中心におられます。

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