ルカ11:1「祈りを教えてください」

 

先月行われた教会総会で、2022年度の聖句と目標が決まりました。聖句は先ほど読んでいただいたルカの福音書111節、目標は「祈りに生きる教会」です。具体的には来月の第一主日から、毎週の礼拝で祈っている「主の祈り」について御言葉に聴いていきたいと思っていますが、今日はその前の「序」として、「主の祈り」とはそもそも何か、私たちはなぜ祈りを学ぶのかについて、御言葉に聴いていきたいと思います。

 

祈りの豊かさ

教会でよく言われるのは、「祈りに上手い下手はない」ということです。それはもちろんその通りです。祈りは神さまとのコミュニケーションですから、そこに上手いも下手もありません。どんなに拙いことばの祈りであっても、神さまは喜んで私たちの祈りを聴いてくださいます。

ではなぜそのようなことが教会でよく言われるのかというのを考えるとき、それは多くの場合、自分の祈りに自信がない人が多いからだと思うのです。自分一人で祈る分には大丈夫。けれどもいざ他の人の前で祈るということになると、尻込みをしてしまう。他の人が祈っているのを聞きながら、「なんであの人はあんなに言葉が出てくるんだろう。なんであんなに長く祈ることができるんだろう」と思ってしまい、どんどん人前で祈ることに億劫になってしまう。

祈りに上手い下手はない、確かにその通りです。しかし「祈りの豊かさ」ということに関しては、やはり違いがあります。もちろん何度も言うように、どんなに貧しい祈りであっても、私たちが真剣に神さまと向き合っているならば、神さまはそれを喜んで聴いてくださいます。けれども、「この人は祈りを通して神さまと豊かに交わっている」という信仰者に私たちは出会うことがあります。「この人は本当に豊かな祈りの世界に生きている。この人には何か違う世界が見えている。自分もそういう信仰者になりたい。祈りを通して神さまともっと豊かに交わっていきたい」。信仰者であれば誰もが抱く自然な願いです。

 

主イエスの祈り

今日開いている聖書の箇所にはまさにそのような弟子たちの願いが記されています。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」。四つある福音書の中でも、このルカの福音書は特にイエスさまの祈りの姿を多く描き出しています。イエスさまは日頃からお一人で寂しいところに行き、静かな祈りの時間をもっておられた。今日の1節の冒頭にもそのようなイエスさまの姿が記されています。「祈りが終わると」とありますが、イエスさまが祈っている間は誰も近づいて声をかけることができないような、特別な世界がそこにはありました。弟子たちはそんなイエスさまのお姿を日頃から見ていて、「この人の祈りは何かが違う」と感じていたはずです。そして憧れを抱いた。「イエスさまのように祈りに生きる人になりたい。イエスさまのように、祈りを通して神さまと豊かに交わっていきたい」。そのような思いから、「私たちにも祈りを教えてください」とイエスさまに願ったのでした。

「この人の祈りは何かが違う」、弟子たちがそのように感じたのはある意味当然でした。なぜか。そこには父なる神さまと子なる神さまの交わりがあったからです。父と子、親子の交わりがそこにはあった。イエスさまはどこか遠いところにおられる、得体の知れない神にではなく、自らの父なる神さま、お父さまに祈っておられたのです。そこには弟子たちがこれまで見たことのなかった、豊かな祈りの世界が存在していました。

そしてここで大切なのは、イエスさまはその祈りの世界を独り占めしようとはなさらなかったということです。「これは親子のプライベートな世界だから、お前たちは入ってくるな」と弟子たちを追い払ったりはしなかった。そうではなく、「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、…』」と、父なる神と子なる神の祈りの交わりの中に弟子たちを、私たちを招き入れてくださったのです。ここに、私たちの祈りの原点があります。私たちは本来、神を知らない異邦人でした。神さまに向かって「父よ」と呼びかけることなど、決してできない存在でした。しかし、イエスさまが私たちを祈りの世界へと招いてくださった。父と子の交わりへと、神の家族の交わりへと私たちを招き入れてくださったのです。ですから私たちは、イエス・キリストの名によって「天のお父さま」「父よ」と祈ることができる。もっと言えば、私たちが「天のお父さま」「父よ」と祈るとき、私たちは三位一体の神さまの豊かな愛の交わりの中に置かれているのです。イエスさまが教えてくださった祈りというのはそれほどすごいものなのだということを、改めておぼえたいと思います。

 

祈りにくい祈り?

それではイエスさまが教えてくださった祈りの内容の全体を見ていきたいと思います。まず、「主の祈り」と呼ばれる祈りは聖書の中で2回記されています。一つはこのルカの福音書11章で、もう一つがマタイの福音書6章です。ただこの二つを見比べると、若干の違いがあることに気づきます。ここで詳しく見比べることはしませんが、簡単に言えば、ルカのバージョンの方が少しだけ短くなっています。これは何もどちらかが正確でどちらかが間違っているということではなく、イエスさまがこの祈りを何度も教えられたということを表しているのだと思います。ですから大事なのは、この祈りを一言一句間違いなく正確に覚えることではなく、この祈りの内容を自らの心と体に染み込ませていく、自らの祈りとしていくということです。ただ今年1年間は、「主の祈り」として一般的に普及しているマタイバージョンの祈りを中心に学んでいきたいと思います。週報の裏面にも掲載されているので、そちらをご覧になるのもいいかと思います。

さて、毎週祈っているこの「主の祈り」ですが、皆さんはどのような印象をもっておられるでしょうか。今年1年間「主の祈り」の説教をしていくに当たって、「主の祈り」に関する書籍を色々と集めているのですが、その中で、日本基督教団で牧師をしておられる平野克己先生のことばが大変印象に残りました。平野先生は、「主の祈りは実に祈りにくい祈りです」と書いておられます。「祈りにくい祈り」。なぜかというと、「祈りの言葉のひとつひとつが、わたしたちの自然な心の動きに逆らってくる」からだ言うのです。どういうことか。そこで先生は、「主の祈りが次のような祈りであったら、もっとなじみやすかったでしょう」と、「主の祈り」の真逆とも言える祈りを記しておられます。実際の「主の祈り」の言葉と比べながらお聞きください。

 

そばにいてくださるわたしの神よ

わたしの名を憶えてください

わたしの縄張りが大きくなりますように

わたしの願いが実現しますように

わたしに一生糧を与えてください

わたしに罪を犯す者をあなたが罰し、わたしの正しさを認めてください

わたしが誘惑にあって悪におぼれても、わたしだけは見逃してください

国と力と栄えとは、限りなくわたしのものであるべきだからです

アーメン

 

いかがでしょうか。「わたし」「わたし」「わたし」。この祈りの中心にあるのは「わたし」です。しかしそれが人間の自然な心の動きだと平野先生は言うのです。それを読んで、確かにそうだなと思いました。例えば、神社の賽銭箱の前に行くと、人はお賽銭をチャリンと投げ入れ、鈴をガラガラと鳴らし、手を叩いて願い事をしますが、そこで「稲荷様、あなたの御名があがめられますように」と口にする人がいるでしょうか。そんな人はいないわけです。実際に神社参拝の案内などを見ると、神頼みよりも神への感謝を口にするべきだということが一応あるそうですが、ほとんどの人は「合格祈願」であったり、「商売繁盛」であったり、いわゆる「神頼み」しかしないわけです。それが人間の自然な心の動きだからです。

クリスチャンも例外ではありません。もちろん、自分の心の願いを神さまに打ち明けることは決して悪ことではありません。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に…あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)、聖書は確かに語っています。私たちの心の願いを正直に打ち明けるとき、天の父なる神さまはそれを喜んでくださいます。それは確かなことです。ただし、そこだけに留まり続けるのであれば、成長は起こりません。私たちはいつまで経っても、自分のこの小さな世界から抜け出すことができません。自分の狭い視点でしか物事を、この世界を見ることができない。そこにはいつも不安と思い煩いがつきまといます。

 

祈りを通して変えられる

そんな自分の小さな世界に閉じこもっている私たちを解放し、神さまの世界、神の国へと私たちを引き上げてくれるのがこの「主の祈り」です。この「主の祈り」を祈ることによって、私たちの心は天に引き上げられ、神さまの視点から、神の国の視点からこの世界を見ることができるようになります。どういうことか。マタイの福音書68節をお開きください(新9頁)。イエスさまはこう言われています。「ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです」。そして9節「ですから、あなたがたがはこう祈りなさい」。「願いが叶えられるためにはこう祈りなさい」ではありません。「主の祈り」は決して「こうすればあなたの願いは叶えられる」というための祈りではありません。むしろその逆です。神さまは私たちの必要をすでに、すべて知っておられる。「ですから、あなたがたはこう祈りなさい」。「主の祈り」の根底にあるのは、私たちは父なる神さまの世界で生かされているという信頼です。私たちは父なる神さまの御手の中で守られている。必要が備えられている。だからこの「主の祈り」は、自分自身のことからではなく、まず天のお父さまと呼びかけ、御名が聖なるものとされること、御国が来ること、みこころが行われることを祈り求めるのです。天のお父さまのみこころが実現されるとき、私自身の必要も必ず満たされる、その信頼があるからです。その上で、私たち自身のこと、日毎の糧、罪の赦し、悪からの救い、天のお父さまはそれらをすべて与えてくださるという信頼をもって祈り求めていく。そして最後に、自分の栄光を求めるのではなく、国と力と栄えはすべて永遠に天のお父さまのものであることを告白し、「アーメン」、天のお父さまはこの祈りをすべて聴いてくださっているという信仰をもって祈りをとじていく。これが、イエスさまが私たちに教えてくださった「主の祈り」です。自分の願いを神さまに打ち明ける、それを超えた祈りがここにあります。自分自身の必要しか見えない、この小さな自分の世界から私たちを解放してくれる祈り。天のお父さまの愛のご支配の中へと私たちを招き入れてくれる祈り。私たちの生き方、視点を変えてくれる祈り。それが「主の祈り」です。

「主よ。私たちにも祈りを教えてください」。この弟子たちのことばを私たち自身のことばとしながら、最後に「主の祈り」をもって説教を終えたいと思います。

 

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください。

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン。

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