マルコ10:46-52「恵みを受け取る信仰」

 

マルコの福音書は大きく分けて三つの部分に分けられます。一つ目がガリラヤでの宣教、二つ目がエルサレムへ向かう途上、そして三つ目がエルサレムでの出来事です。今日私たちが開いているのは、第二幕、エルサレムへ向かう途上の最後の部分です。46節は「さて、一行はエリコに着いた」ということばから始まりますが、このエリコという町はエルサレムの手前にある町です。そして次のマルコ11章からは、いよいよエルサレム入城の話に入っていきます。十字架が間近に迫っている、そのような中での今日の箇所になります。

登場するのは「バルティマイ」という目の見えない物乞いです。バルティマイの「バル」というのは「息子」という意味ですから、バルティマイという名前そのものが「ティマイの子」という意味をもっていることになります。

これまでもマルコの福音書にはイエスさまが病んでいる人を癒すという話がたくさん出てきましたが、実はその中で唯一病んでいる人の個人名が出てくるのが今日の箇所です。なぜこの話にだけ個人名が出てくるのか。おそらくですが、このバルティマイという男は、マルコの福音書が書かれた当時の教会でよく知られていた人物だったと思われます。そしておそらく彼自身によって、「昔イエスさまがこんなことをしてくださったんだよ」と、このエピソードが証しとして語り続けられていた。ですからこのマルコの福音書の最初の読者たちはこの話を読んで、「あぁ、あのバルティマイさんのことね」と、本人の顔が思い浮かんだのだと思うのです。福音書の中で個人名が出てくるときには、そのような想像力を働かせて読むと、聖書の世界がさらに色鮮やかに見えてきます。

 

バルティマイの叫び

さて、そのバルティマイですが、彼が道端に座っていたところ、イエスさまがおられるという話を耳にしました。47-48節「彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、『ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください』と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、『ダビデの子よ、私をあわれんでください』と、ますます叫んだ。」通り過ぎざまに、道端に座っている目の見えない物乞いが叫び始めた。かなりびっくりする出来事です。多くの人たちが彼をたしなめたというのも理解できることです。「ほら落ち着いて。みんなびっくりするだろう」と。あるいは「ダビデの子」というワードが公の場で叫ばれるのを阻止したかったのかもしれません。「ダビデの子」というのはイスラエルをローマ帝国から救う王さまを指していますから、ローマ軍に聞かれでもしたら、イエスさまが危険人物として逮捕されてしまうかもしれない。ですから人々はこの男を黙らせようとした。その可能性も高いでしょう。

しかし、誰も彼の叫びを止めることはできませんでした。彼はそれほどに強くイエスさまを求めていた。彼にとっては自分のいのちがかかっている瞬間、たましいの叫びだったからです。すると49-50節「イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい』と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる』と言った。その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」そのまま映画のワンシーンになるような、鮮やかな描写です。「上着を脱ぎ捨て」とありますが、この上着はおそらく物乞いのために使われていたものです。地面に広げて、そこにお金を落としてもらっていた。けれども彼はある意味自分の唯一の商売道具、生きる術を脱ぎ捨て、喜び躍り上がってイエスさまのもとにやって来た。これまでの生き方を捨てて、イエスさまの恵みを受け取りにやって来ました。

 

最も小さな者

するとイエスさまは尋ねました。51節「わたしに何をしてほしいのですか」。聞き覚えのある問いではないでしょうか。実は先週私たちが開いた箇所で、イエスさまは同じ問いを自分のもとに来たヤコブとヨハネに尋ねていました。すると彼らはどう答えたか。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人があなたの左に座るようにしてください」。彼らが求めたのは、権力、地位、名声でした。「私たちは全てを捨ててあなたに従って来ました。さあこんな私たちを見てください」と言わんばかりの誇り、プライドをもってイエスさまの前にやって来た。

それに対してバルティマイはどうでしょうか。51節後半「すると、その目の見えない人は言った。『先生、目が見えるようにしてください。』」切実で率直な願いです。そこに自尊心や誇り、プライドは一切ありません。あるのは、「自分は何者でもない。ただイエスさまの恵みを受け取るだけの存在だ」という徹底的なへりくだりです。そして、このお方だけが自分を救うことができるという切実な信仰です。

そして、イエスさまはその彼の信仰に目を留めました。52節「そこでイエスは言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。』」「あなたの信仰があなたを救った」。マルコの福音書では3回この表現が出てきます。一度目は2章の中風の男、二度目は5章の長血の女、そして三度目がこの目の見えない物乞いの男です。イエスさまが信仰を認めたのは、当時のエリートだったパリサイ人、律法学者たちではなく、祝福をたくさん受けていると思われた金持ちの男でもなく、あるいはイエスさまの一番近くにいた弟子たちでもなく、はたから見ると何ももっていないような、自分の力では何もできないような、最も小さな者たちでした。この最も小さな者たちの中にこそ、イエスさまは真の信仰を見たのです。「自分はこれだけのことをしました」とイエスさまに誇れるものは何もない。自分にできるのはただ、「イエスさま、私をあわれんでください」とイエスさまのお名前を呼び、イエスさまのもとに行くことだけ。ただそれだけ。それこそが真の信仰だとイエスさまはおっしゃるのです。

そしてこのバルティマイ、恵みを受けてそれで終わりではありませんでした。52節後半「すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った」。イエスさまの真の弟子がここに生まれました。「永遠のいのちを受け継ぐためには何をしたらよいでしょうか」とイエスさまのもとにやって来た金持ちの男は、「財産をすべて売って私に従って来なさい」というイエスさまのことばを受け入れることができず、悲しみながら去っていきました。あるいは弟子たち。「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と再三イエスさまから招かれていたにもかかわらず、十字架を前にして、イエスさの元から去っていきました。しかしこのバルティマイは、見えるようになった後、自らイエスさまに従いついて行ったのでした。「道を進むイエス」、これは十字架の道です。彼はまさに、自分の十字架を負い、イエスさまが飲む杯を飲み、イエスさまが受けるバプテスマを受けることを覚悟し、信仰をもってイエスさまに従っていった。イエスさまが求めていた信仰がついにここに現れたのです。

 

神の乞食

マルチン・ルターという宗教改革者をご存知でしょうか。1519年、彼が起こした改革によってプロテスタント教会が生まれたという、世界史の教科書にも載っている大変有名な人物です。私たちプロテスタント教会の信仰のルーツでもあります。彼は62歳で天に召されたのですが、天に召される二日前に記したメモが残っています。その最後に彼はこのように記したそうです。「私たちは神の乞食である。これはまことだ」。「自分はこれだけの働きをしました。どうか栄光のうちに私を迎え入れてください」ではなかった。むしろその真逆です。「私たちは神の乞食である。これはまことだ」。徹底的に神さまの恵みに生きたルターの信仰の姿をよく表しています。自分は何ももっていない。誇れるものは何もない。ただ神さまの御名を呼び、手を差し出し、神さまからの恵みを受け取るだけの乞食である。卑屈ではありません。いやらしい謙遜でもありません。ただ、彼はそれほどに自分の罪深さ、弱さを知っていた。そしてそれを補って余りある神さまの恵みの大きさを心の底から知っていたのです。神の恵みによって今日も私は生かされている。それが彼の信仰の姿でした。

今のこの時代もバルティマイのように、人々から蔑まれ、除け者にされ、心と体において深い傷を抱えている人がどれほど多いことでしょうか。そのような世界にあって、私たちは神さまの恵みを受けている者として、ただの乞食ではない、神の乞食として生きることの幸いを証ししていきたいと願います。「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」。弟子たちがバルティマイをイエスさまのもとに導いたように、私たちもこの世の傷んでいる人々をイエスさまのもとにお連れしていきたいのです。そこには、イエスさまの豊かな恵みの世界が待っています。私たち自身、その恵みによって今日も生かされているのです。

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