マルコ10:32-45「仕えられるためではなく」

 

教会のカレンダーでは、今の期間は「レント」と呼ばれます。日本語では「四旬節」あるいは「受難節」と呼ばれます。イースターの前の6回の主の日(日曜日)を除いた40日の期間、今年ですと32日の水曜日から始まりましたが、その間、キリストの十字架での苦しみ、受難を特別におぼえるということを教会は伝統的にしてきました。

今日はそのレントに入ってからの第二主日になりますが、開かれている箇所はちょうど、イエスさまの十字架と復活の予告から始まります。この前の8章と9章でもそれぞれ1回ずつ受難の予告がありましたが、今回の3回目の予告はこれまでで一番詳しく語られています。32節の冒頭に「一行はエルサレムに上る途上にあった」とあるように、エルサレムに近づくに連れて、十字架での死が近づくに連れて、イエスさまはいよいよ十字架と復活という神の国の奥義を弟子たちに明かし始めたのでした。

 

ヤコブとヨハネの願い

35節からは、ゼベダイの息子たちのヤコブとヨハネが登場します。35-37節「『先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。』イエスは彼らに言われた。『何をしてほしいのですが。』彼らは言った。『あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。』」ここには、弟子たちの間に存在していたライバル心があらわれています。イエスさまの十二弟子の中では、このヤコブ、ヨハネ、そしてペテロの三人が中心格でした。9章でイエスさまと一緒に山に連れていってもらえたのもこの三人でした。しかし今日の直前の箇所で、ペテロが一人抜け駆けのようなことをします。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました」(28節)。もちろん「私たち」とありますので、弟子たちを代表して言っているのでしょうが、「なぜお前が代表なんだ」と周り、特にヤコブとヨハネは面白くなかったに違いありません。ですから今日のところで、「イエスさま、ペテロのことはいいですから、あなたがイスラエルを復興し、王になられる時、自分たち兄弟をあなたの右と左に座らせてください」とお願いした。日本風に言うと右大臣、左大臣ということになるでしょうか。いずれにせよ、「来るべき神の国での重要ポストを保証してください」とイエスさまに迫った、というのがこの箇所です。少し可愛く思えてしまうほどの分かりやすい願いです。

しかしイエスさまはその願いに対してこう答えました。38節「『あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。』」「杯」と「バプテスマ」。謎めいた表現ですが、これはどちらも「苦しみ」「死」を意味しています。例えば「杯」に関して、イエスさまは十字架の前の晩、ゲッセマネの園で「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」と祈りました。明らかに十字架での苦しみのことを指しています。また「バプテスマ」に関して、パウロはこのように言っています。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」(ロマ6:4)。「キリストとともに葬られる」「キリストとともに死ぬ」、それが「バプテスマ」だということです。

しかし、「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません」、イエスさまは言います。これまでも何度も見てきたように、弟子たちがイメージしていたのは、ローマ帝国を打倒する力のメシア、勝利のメシア、栄光のメシアでした。しかしイエスさまは今日の箇所に限らず、これまでも繰り返し何度も、「そうではない。真のメシアは苦しみのメシア、へりくだりのメシア、十字架のメシアなのだ」と語ってきました。ですから、「わたしの右と左に座るということは、わたしとともに十字架につけられ、わたしとともに苦しむということなのだ。あなたたちはそれを分かっているのか」、そのようにヤコブとヨハネに問い返したのです。

するとヤコブとヨハネは39節「できます」と答えます。本当に理解して答えているのか、かなり怪しいところです。しかしイエスさまは続けます。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります」。ヤコブとヨハネの理解の程は確かではありませんが、それでも実際に彼らはイエスさまの苦しみにともに与ることになるとイエスさまは予告しました。実際、使徒の働きを見ると、イエスさまが復活して天に昇られた後、ヤコブはヘロデ王に殺されたという記録が残っています。またヨハネの黙示録の冒頭を読むと、ヨハネも迫害に苦しんでいたということが読み取れます。実際に彼らはイエスさまと苦しみをともにすることになったのです。

けれどもイエスさまはこう続けます。40節「しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです」。これまた謎めいたイエスさまのことばですが、この後マルコの福音書を読んでいくと、イエスさまが言われていたことの意味が見えてきます。マルコの福音書1525-27節「彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。イエスの罪状書きには、『ユダヤ人の王』と書いてあった。彼らは、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に、一人は左に、十字架につけた」。これはある意味壮大な皮肉です。ヤコブとヨハネはイエスさまが神の国の王として栄光をお受けになる時に右と左に座らせてくださいと願いました。しかし実際はどうなったか。イエスさまが「ユダヤ人の王」として十字架にかけられたとき、イエスさまの右と左にいたのは二人の強盗でした。当のヤコブとヨハネはどうしていたか。恐れのあまり逃げ隠れていたのです。壮大な皮肉です。

 

世の権力者

41節「ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた」。ペテロの抜け駆けに反応したヤコブとヨハネでしたが、今度はヤコブとヨハネの抜け駆けに対して、他の弟子たちも腹を立て始めます。この問題はヤコブとヨハネだけのものではありませんでした。結局弟子たちはみな等しく、イエスさまのことばを何も理解してなかったのです。

42節「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。』」力による支配。これはイエスさまの時代も、今の時代も変わりません。特に今この時、この御言葉が与えられていることに大きな意味を感じます。力による現状変更。暴力によって人々を意のままにしようとする支配者たち。ロシアを見ていると、2000年前から何も変わらない国家、支配者の姿を思い知らされます。

けれども、それは決して教会にとって他人事ではありません。教会はそのような国家に力を貸してきた、いや、教会がそれを率先して行ってきたという大きな負の歴史を抱えています。4世紀、キリスト教がローマ帝国の国教になって以降、教会と国家は一つになり、布教、宣教という大義名分のもとに、多くの国々を武力で侵略してきました。中世に行われた悪名高い十字軍、教派・宗派間での血生臭い戦争、中南米・アフリカ・アジア諸国の植民地支配、あげていけばキリがありません。もちろん良心的なクリスチャンはたくさんいたはずです。素晴らしい宣教師たちもたくさんいました。しかし教会がそのような大きな罪に加担してきたという歴史は決して見過ごされてよいものではありません。

日本の教会も同じです。戦時中、武力によって大東亜共栄圏、東洋の世界を作り上げるという国家の姿勢に多くの日本の教会、クリスチャンが賛同しました。当時の資料を見ると、例えば「日本基督教団戦時布教指針」という文書の中では、大東亜戦争が「聖戦」と呼ばれています。武力で他国を侵略していくことによって、日本を通して神の国がアジアに広げられていく。それこそが神さまの御心だ。今考えると信じられないようなことが当時の教会では語られていました。たった80年前の出来事です。今を生きる私たちも心に刻まなければならない、大きな罪の歴史です。

 

神の国の姿

しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません」。イエスさまは語ります。43-44節「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」。これこそが神の国の姿です。富、権力、栄誉、名声ではない。へりくだりこそが勝利。弱さこそが勝利。互いにしもべとして仕え合い、愛し合う。それが神の国。なぜか。神の国の王であるイエス・キリストがそうだったからです。45節「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」。「贖いの代価」とは要するに身代金のことです。悪魔に、罪に支配されていた私たち。その私たちを買い取り、贖い、キリストのものとするために、神の国、神の支配に移すために、ご自分のいのちをささげてくださった。それが神の国の王であるイエス・キリストです。はたから見たらただの惨めな敗北でした。十字架にかかって死ぬ。そんなメシア、救い主など弟子たちも誰も想像していませんでした。しかし、その敗北の象徴、弱さとへりくだりの象徴である十字架こそが、イエスさまが神の国の王であることの確かな証、栄光と勝利の証となったのです。

もちろん私たちはイエスさまのように「多くの人のための贖いの代価」となることはできません。「贖い」に関しては、私たちはただ一方的にイエスさまの恵みの業を受け取るだけです。しかしイエスさまに贖っていただいたらそれでおしまいではありません。私たちが移されたのは、イエス・キリストを王とするしもべの王国、神の国です。その神の国に移されたものとして、キリストのものとされた者として、十字架にかかられたキリストのように生きる。力と権威によってではなく、しもべとして、へりくだりによって互いに仕え合い、愛し合っていく。時には苦しみの杯を飲まなければいけないこともあります。「ここまでしなければいけないのか」と思い悩み、葛藤することもあるかもしれない。しかし、その苦しみの杯は、キリストの杯であること、キリストがこの苦難をともにしてくださっていることに気づく時、私たちは自分たちがすでにキリストによって神の国に移されていることを知るのです。神の国に生かされている自分を知る。「仕えられるためではなく仕えるために」、この神の国の生き方へと、イエス・キリストは今日も私たちを招いておられます。

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