ヨハネの黙示録21:1-5「新しい天と新しい地」

 

本日は2月の第一主日ということで、年間目標に関連する御言葉に聴いていきます。次週の教会総会で年間目標と年間聖句が切り替わりますから、今回の年間目標に基づく説教は本日が最後になります。はじめに年間聖句をともに読みましょう。週報の表面をご覧ください。「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見離さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記31:8)。「先立って進まれる主とともに」、この年間目標、年間聖句とともにこの1年間私たちは歩んできました。1年間の歩みを振り返りながら、この御言葉が、「先立って進まれる主」がどのように私たちを導いてくださったのか、しばし思いを巡らせる時間をもちたいと思います。それぞれで短く黙想のときをもちましょう。

そこまでといたします。本日はその最後の説教ということで、「先立って進まれる主」は私たちをどこへ導こうとされているのか、私たち教会のゴールはどこにあるのかについて、ヨハネの黙示録の御言葉に教えられていきたいと思います。

 

新しい天と新しい地

教会の、クリスチャンのゴールはどこにあるのか。みなさんはどのように思われるでしょうか。しばしば聞かれるのは、クリスチャンのゴールは死んだ後この地上を離れて天国に行くことだということです。それこそがクリスチャンが目指すべきゴール。たしかに聖書を読むと、人はこの地上での生涯を終えた後、天の神の御許に召されるということが教えられています。聖書はその場所を「パラダイス」と呼んでいます。そしてパラダイスには、キリストとともにある平安と安らぎと喜びがある。聖書が確かに教えていることです。しかし教会の、クリスチャンの「ゴール」という時、聖書はそのさらに先のことを教えています。そのことが明確に示されているのがまさに今日私たちが開いている箇所です。

1節「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」。これこそが聖書の語る「ゴール」、新しい天と新しい地、新天新地と呼ばれるものです。私たちが死んで、たましいがパラダイスにあげられて、それで終わりではありません。パラダイスにあげられたたましいはキリストのもとで復活の時を待っている、まだ途中の段階です。中間の状態。そしてやがてキリストが再臨される時、この世界全体が神さまによって新しくされる。そしてすでにパラダイスにあげられたたましいは、新しい栄光のからだをもって復活し、新しい天と新しい地で永遠のいのちを生きるようになる。それこそが聖書の語る「ゴール」です。

ではその新天新地とはどのようなところなのか。黙示録は様々な象徴表現を使いながら、色鮮やかにその様子を描いています。1節の最後には「もはや海もない」とあります。この「海」が何を表しているのかは、直前の2013節を見ると分かります。「海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した」。この箇所にも表れているように、「海」という言葉は聖書の中でしばしば「悪」や「死」の象徴として用いられています。今のこの世界には「悪」や「死」が存在している、それは誰しもが実感していることです。しかし神さまがもたらす新天新地にはもはや「海」はない、黙示録は語ります。死と悪魔に支配されていた以前の天と以前の地が過ぎ去るからです。この世界は神さまの御手によって完全に新しくされるのです。

 

新しいエルサレム・神の幕屋

続いて2節「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た」。「聖なる都、新しいエルサレム」、これは旧約と新約を通じた真の神の民を表す表現です。聖書の中には、神の民、教会は花婿キリストとの婚礼を控えている花嫁であるという表現が何回も出てきます。しかしみなさんご存知の通り、地上の教会、神の民は完全ではありません。多くの欠けがあります。私たちの内にはまだ「古い人」、罪の性質が残っている。ですから私たちは今、キリストの花嫁としてふさわしい、キリストに似た者となるために、聖霊の力によって、この地上で訓練の時を過ごしている。昔で言う「花嫁修行」をしている、そのような状態です。そして新天新地がもたらされる時、私たちは「花嫁修行」を終え、「夫のために飾られた花嫁のように整えられた」状態で、新しい復活の栄光のからだをもって、キリストとの婚礼の時を迎える、それがこの2節で語られていることです。私たちは夫であるキリストとともに、永遠の愛の内を歩むようになる。愛の完成がここにあります。

3節ではそれが「神の幕屋」という別の表現を使って描かれます。「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」。神さまは聖なるお方ですから、罪人の内に住むことはできません。しかし、この世界から罪と悪が消え去り、神の民が美しく整えられた花嫁のように完全にされる時、この世界は神さまのご臨在であふれるようになります。神さまは私たちとともに住み、私たちは神さまと顔と顔を合わせて交わることができるようになる。

4節はそれをさらにドラマチックに描いています。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである」。「死」「悲しみ」「叫び」「苦しみ」、これらはすべて今の古い世界に属するものです。今のこの世界にある限り、私たちは死の恐怖、愛する人を失う悲しみ、悲痛の叫び、老いの苦しみから逃れることはできません。この世界全体を見てもそうです。今この時も、平和の祭典であるオリンピックが行われている背後で、アメリカ・西側諸国とロシア・中国が一触即発の事態を迎えている。矛盾だらけのこの世界です。しかし、新天新地がもたらされる時、死も悲しみも叫び声も苦しみも、すべてが消え去ります。神さまの完全な愛がこの世界を満たすようになります。そして私たちの目を覆っていた涙を、神さまご自身がことごとくぬぐい取ってくださる。なんという慰めでしょうか。

 

慰めと希望の手紙

このヨハネの黙示録は将来のことを指し示す「預言」が多く記されていますが、それ以前にこの書は、ローマ帝国の迫害下にある教会に送られた手紙です。この手紙を受け取った人々はまさにこの世界の「死」「悲しみ」「叫び」「苦しみ」のただ中にありました。いつローマ兵に見つかるか分からない。いつ捕まえられて、拷問され、殺されるか分からない。大きな苦難の時にありました。その教会に向けて、この新天新地の幻が語られたのです。彼らにとって、この幻がどれほどの希望になったことでしょうか。今のこの世界には希望のかけらもないけれど、神さまに目を向ければ、そこに確かな希望がある。その希望があったからこそ、彼らはどんなに厳しい迫害の中にあっても、信仰に堅く立って歩み続けることができました。この希望が彼らに生きる力を与えたのです。

冒頭で、私たち教会、クリスチャンが目指す「ゴール」についてお話ししました。ゴールが見えないレースというのは辛いものです。マラソンであっても、ランナーはみんなゴールテープを切る時の喜びを味わいたいがために、ただそれだけを目指して、42.195キロという辛く苦しい道のりを走り切ります。その道のりがいかに困難であろうと、この先には必ず栄光のゴールが存在しているという確信があるからこそ、ランナーは数々の困難を乗り越えることができます。私たち教会、クリスチャンの歩みも同じです。この地上でクリスチャンとして歩むことは決して楽ではありません。他の人との軋轢を生むこともあれば、忍耐を強いられることもあります。クリスチャンだからこそ戦わなければいけない戦いも多くあることでしょう。しかし、私たちは決してゴールの見えないレースを走っているのではありません。私たちには新しい天と新しい地という、栄光に輝くゴールが約束されています。しかも神さまは、「このレースを走り切りなさい」と、高いところから私たちのレースを見物しておられるのではありません。私たちがこのレースを走り切ることができるように、神さまご自身がイエス・キリストという一人の人となり、私たちの先頭を自ら走ってくださいました。そして今は聖霊さまを通して私たちに走るエネルギーを注ぎ続けてくださっています。ここに先立って進まれる主のお姿があるのです。

最後に、その主ご自身が語られた約束の御言葉に聴きましょう。5節「すると、御座に座っておられる方が言われた。『見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。『書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。』」「これらのことばは真実であり、信頼できる」。この神さまの約束を私たち自身の希望としながら、先立って進まれる主に従い続けてまいりましょう。

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