マルコ10:28-31「キリストのために」

 

キリストのため、福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てる。先週の「財産をすべて売り払って貧しい人たちに与えなさい」という教えに続いて、大変ショッキングなイエスさまのことばが記されています。イエスさまはこんなことまで言うのか、少し驚いてしまう箇所かもしれません。一昔前、オウム真理教という宗教団体、テロ組織がありましたが、その中には出家した信者がいて、その人たちは現世との関わりを一切絶って、財産を全て教団に寄附しなければいけないという教えがありました。おそらく日本で「宗教」というとそういったイメージが強いと思いますので、キリスト教もそれと同じなのか、今日の箇所を読んでそのように感じてしまう人がもしかしたらいるかもしれません。

 

イエスさまが望まれていること

しかし私たちはまず一度冷静になって、この箇所でイエスさまは一体何を語っておられるのかについて考えていきたいと思います。まず注目したいのは、28節のペテロのことばです。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました」。この前の箇所で、財産に支配されている金持ちは神の国に入ることができないということを聞いて、「イエスさま、自分たちは違いますよ!」と言いたくなった、そのような場面です。ここでペテロは「すべてを捨てて」と言っていますが、実際にペテロは財産・家族をすべて文字通り「捨てた」わけではありません。マルコの1章を読むと分かりますが、ペテロはイエスさまに従うと決意した後も、自分の家を持ち続けていて、家族もそこにいたと書かれています。イエスさまはおそらくこのペテロの家を拠点に、ガリラヤでの宣教を行ったと考えられています。また、福音書にはイエスさまが舟に乗られる場面が多く描かれていますが、その舟もおそらくペテロをはじめとする元漁師の弟子たちの持ち物だったと考えられます。

聖書全体にも目を向けると、旧約の十戒では「あなたの父と母を敬いなさい」と明確に命じられています。また1テモテ58節にもこのように記されています。「もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです」。

つまり何が言いたいのかと言いますと、イエスさまは決して家族や財産を捨てること、それ自体を求めておられるわけではないということです。イエスさまは私たちに孤独に貧しく生きろと命令しておられるわけではない。いわゆる「出家」の教えとは明らかに違います。カトリック教会にも、家を離れて、財産をすべて捨てて修道士になるという古くからの伝統があります。自らの信仰の実践としてその道を選び取るのはすばらしいことです。けれども大事なのは、イエスさまはそれ自体をすべてのキリスト者に命じておられるわけではないということです。

ここで決定的に大事なのは、29節にもあるように、「わたし(キリスト)のため」「福音のため」ということです。つまりは優先順位の問題です。キリスト・福音か、あるいは自分の家・兄弟・姉妹・母・父・子ども・畑か。そのどちらかの選択を迫られたときに、あなたはどちらを選ぶのか。どちらを第一とするのか。それがここで語られていることです。第一があるということは、第二、第三も当然あるということです。家、家族、財産、どれも神さまから与えられたすばらしい贈り物です。家族を心から愛し、大切にし、また与えられた財産を賢く管理する、とても大切なことです。しかし、それが第一になってしまっては本末転倒です。やはり、第一はキリスト、福音。その中心がブレてしてまってはならない。もし第二、第三のものが私たちの第一を揺るがしてしまうようなことがあるのであれば、私たちはそれを手放す覚悟をもたなければいけない。

 

イエスさまのお姿

何もない時にこのように言うのは簡単ですが、いざ選択を迫られる時になると、このイエスさまのことばは私たちに重くのしかかってきます。新約聖書が書かれたこの時代は特にそうでした。当時は血縁、「お家」が非常に重視されていた社会でしたので、そのような中にあって家を離れる、家族を離れるというのはなかなか受け入れ難いことでした。当然、周りの人々からは理解されません。「一体なぜお前は私たち家族を見捨ててイエスという得体の知れない男についていくのか。家族のことはどうでもいいのか」。弟子たちの中にも、そのように非難された人がいたかもしれません。社会からは薄情者、親不孝者と罵られることがあったかもしれない。ですから30節では「迫害とともに」と言われています。キリストを第一として生きようとする中で、私たちは時として迫害に遭うことがある。周りからは理解されないことがある。

イエスさまもまさしくそうでした。いや、イエスさまはそれ以上でした。イエスさまは神の国の使命のためにご自身の肉の家族、安定した生活を捨てただけではありません。イエスさまは「神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリピ2:6-7)。神としてのあり方を捨て、十字架の死に至るまで、徹底的に父なる神さまに従われた。徹底的に福音のために生きた。それがイエス・キリストです。そのイエス・キリストを人々は理解せず、迫害し、罵り、鞭打ち、侮辱し、死にまで追いやった。今日の箇所のイエスさまのことばの中に、私たちはイエスさまご自身のお姿を見出します。神さまを、福音を第一として生きる。私たちはその決断を一人で孤独になすのではありません。イエスさまが私たちとともにその決断をなしてくださっている。その決断が周りから理解されなくても、周りから非難されようと、イエスさまがその苦難の中でともにいてくださる。そのことをおぼえたいのです。

そしてそれだけではありません。30節「今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来るべき世で永遠のいのちを受けます」。家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑。29節と見比べると、「父」への言及がないことにお気づきでしょうか。この30節で描かれているのは、天の神さまを父とする、神の家族なる教会の姿です。イエスさまご自身も、マルコ335節で言われました。「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです」。キリストを第一として生きる時、神さまは血縁による家族を超えて、信仰による神の家族を与えてくださる。苦難の中でもともに支え合い、励まし合い、来るべき世の永遠のいのちをともに目指す神の家族を与えてくださる。それが神さまの約束です。そして私たち教会は互いに対してそのような祝福の存在、神さまの愛と恵みを体現する共同体、そのようになっていきたいのです。

 

先にいる者、後にいる者

最後に目を留めたいのは、31節です。「しかし、先にいる者が後になり、後にいる多くの者が先になります」。このイエスさまのことばは神の国の原則を表しています。これまでも何度も聴いてきたように、神の国というのは、権力者、富、名声のある人など、この世の基準で「先にいる者」のためにあるのではない。この世の基準でで「後にいる者」、弱い立場に置かれている者、罪人、取税人、そのような人たちのために神の国はある。それこそが神の国の姿だ。イエスさまはこれまでもずっとそう語ってこられました。

この箇所でもその神の国の原則が語られています。しかしここで注目したいのは、冒頭の「しかし」ということばです。この「しかし」がとても大事です。30節でイエスさまは、ご自身のために、また福音のために家、家族、土地を捨てた者に対する豊かな報いを約束してくださいました。私たちにとって大きな慰めであり希望です。しかし私たち人間はそのような報いを約束されると、逆に自分自身がしたことを誇りたくなるという弱さが出てきます。28節のペテロはまさにそうでした。「見てくださいイエスさま!自分たちはあの金持ちの男とは違うんですよ!僕たちを褒めてください!僕たちこそが神の国に入るのにふさわしいはずです!」本来であれば、イエスさまに従うためにすべてを捨ててきた弟子たちは「後にいる者」だったはずです。しかしそれを誇った途端、彼らは「先にいる者」になってしまった。これが人の弱さです。私たちは神さまに対して誇れることは一切ありません。ここで誇っている弟子たちも、十字架を前にしたときにイエスさまを見捨てて逃げたのです。私たちは神さまの前に何も誇ることができない。神さまが望まれている通りに、完全に生きることのできない、弱い罪人なのです。

その自分の弱さ、罪を神さまの前に素直に認め、悔い改めること。それがイエスさまの求めておられる「後にいる者」の姿です。27節でイエスさまが言われたように、人には何もできない、しかし神にはどんなことでもできる、この一点を堅く信じ、ただ神さまにすがっていくのです。神さまはそのような弱い罪人の私たちを、大きな愛と憐れみをもって、両手を広げて神の国に招き入れてくださいます。なんと感謝なことでしょうか。私たちはその感謝をもって、内におられる聖霊さまに依り頼みながら、キリストを第一とする歩みを送っていくのです。

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