マルコ10:17-27「神の支配の自由」

良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」。真剣な問いをもって今日の箇所は始まります。「永遠のいのち」ということばは聖書の中によく出てきますが、これはいわゆる「不老不死」の意味ではありません。聖書が語る「永遠のいのち」というのはそのまま「神の国」とも言い換えることのできることばです。「神の国でのいのち」と言うこともできます。おそらく真面目で信仰熱心だったこの男は、イエスという人物が神の国について宣べ伝えているということを聞き、イエスのもとに駆け寄り、「神の国に入るためには何をしたらよいのか」という問いをぶつけた。それが今日の箇所です。

 

切実な問い

しかしイエスさまはこう答えます。18節「イエスは彼に言われた。『なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。』」イエスさまお得意の謎めいた答えです。ここだけを読むと、「イエスさまはここで自分は神ではないということを言っているのか」と捉えることもできますが、おそらくイエスさまがここでイエスさまが意図しておられたのは、この男の目を神さまに向けるということです。「『永遠のいのちを受け継ぐためには何をしたらよいか』とあなたは『良い先生』に向けて聞いているが、その答えは『先生』からは決して得られない。その答えを知りたいのであれば、『先生』ではなく神さまご自身に問いなさい」。おそらくイエスさまはそのように意図されたのだと思います。

そしてイエスさまが続けて、神さまがすでに与えてくださっている戒めを列挙します。19節で挙げられている戒めのリストはモーセの十戒の後半部分に基づいています。「『永遠のいのちを受け継ぐためには何をしたらよいのか』、その問いに対する答えを神さまはすでに与えてくださっているではないか。あなたもそれは知っているだろう」。イエスさまはそう返しました。

しかし20節「その人はイエスに言った。『先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。』」この男はおそらくガッカリしたはずです。「このイエスという男は他のラビ、先生とは何か違うと思って聞いたのに、十戒を守るというありきたりな答えしか返ってこない。そんなのとっくのとうに知っているし、小さい頃からずっと守ってきている。もっと違う答えが欲しい。」この男はさらなる何かを求めていました。自分はこのままではいけないのではないか。何かが足りない。この何とも分からない、満たされない部分を何とかしてしてほしい。切実な思いがあったのかもしれません。

 

イエスの答え

するとイエスさまはそれを全て見透かしているかのように続けました。21節「イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。『あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従ってきなさい。』22節「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

大変印象に残る場面です。ここでイエスさまは二つのことをしました。一つ目は、この男の罪を明らかにするということです。この男は自分から「永遠のいのちを受け継ぐためには何をしなければいけないか」と問いました。もし「110時間祈ることです」などとイエスさまが答えていれば、この男も喜んでそれを実践したことでしょう。しかしイエスさまが命じたのは、「持っている財産を全て売り払う」ことだった。もちろん貧しい人に施しをするというのが良いことであるというのはこの男もよく分かっていたはずです。しかしいざそのように言われると、素直に「はい、分かりました」と答えることのできない自分の姿がある。自分の内にある財産、お金への執着に気付いたのです。それだけは捨てることができない。それだけは頼むから勘弁して欲しい。お金に支配されている、自分のありのままの姿が暴露された。ですから男はイエスさまのことばに顔を曇らせ、悲しんだのです。

けれどもそれだけではありません。イエスさまはそこから二つ目、生き方の転換を求めました。それが21節最後の「わたしに従ってきなさい」という部分です。お金に支配されているこの男の現実を指摘したイエスさまは、その支配から抜け出し、神さまの支配の下に移りなさいとこの男を招いたのです。しかし男はその招きにどう応えたか。自分の罪を暴露され、その罪と決別することのできない弱い自分を知ったこの男は、悲しみに暮れたまま、イエスさまのもとを立ち去っていったのでした。

 

財産の支配

するとイエスさまは今度は弟子たちに向かって言われました。23-26節「イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。『富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。』弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。『子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。』弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。『それでは、だれが救われることができるでしょう。』」弟子たちの驚きが二度記されています。当時、富、裕福さというのは神さまの祝福の表れだと信じられていました。ですから神さまの祝福をたくさん受けている裕福な人、お金持ちというのは、神の国に入る人リストのトップにいたわけです。しかしイエスさまはそれを完全に否定されます。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」、イエスさまはユーモアをもって言われていますが、これはつまり不可能ということです。ユーモアの中でイエスさまは非常に厳しいことをここでおっしゃっています。これまでも何度か申し上げてきましたが、神の国というのは神さまの支配のことです。ですから、財産、お金に支配されている限り、人は神さまの支配に入ることはできません。二人の主人に仕えることはできないからです。イエスさまは妥協なくはっきりとそう言われました。

聞いていて耳の痛くなる話です。「いやいや、自分は金持ちではないから」と私たちは言いたくなるかもしれません。しかしもし、イエスさまが21節のような命令を今自分にしてきたら、それに従うことができるかと問われたならば、私たちはなかなか首を縦に振ることはできないのではないでしょうか。中にはこのイエスさまの命令を割り引いて読もうとする人がいるかもしれません。当時とは時代状況が違うから、このイエスさまの命令は現代の自分たちにはそのまま適用されない。聖書の中にはアブラハムやヨブみたいな金持ちの信仰者もたくさんいるじゃないか。だからこのイエスさまの命令はこの男だけに向けられたものであって、自分には当てはまらない。

たしかそれはその通りでしょう。例えばお金がなくて毎日ギリギリで暮らしている人に向かってイエスさまが同じ命令をされるかと言われれば、そうは考えられません。たしかにそれはそうでしょう。しかしそこで問いたいのは、そもそもなぜ私たちは「これは自分には当てはまらない」という読み方をしたくなるのかということです。その背後にはどのような思いがあるのか。イエスさまはマタイの福音書の山上の説教の中で、「あなたたちは空の鳥、野の草よりも尊い存在なのだから、何を食べるか、何を着ようかと心配するのはやめなさい」と言われました。自分は果たしてその御言葉と真剣に正面から向き合っているか。神さまが全てを備えてくださる、本当に心の底からそう信じているか。

イエスさまがここで私たちに求めておられるのは、いかに自分がこの命令に当てはまらないかを考えることではなく、自分は財産、お金に支配されていないだろうかと真剣に自分自身に問いかけることです。このイエスさまの命令に自分は応えることができるだろうかと問うこと。そしてもし、そうすることのできない自分の姿に気づいたのであれば、その罪を素直に認め、悔い改めること。イエスさまは私たちに迫っておられます。

 

イエスの眼差し

そしてその中で私たちは、私たち罪人を見つめるイエスさまの眼差しに気づいていくのです。21節には「イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた」とあります。この「いつくしんで」は直訳すると「愛した」ということばになります。「イエスは彼を見つめ、彼を愛した」。ここに、罪人を愛するためにこの世界に来てくださったイエスさまのお姿があります。イエスさまは怒りながら「持ち物を全部売り払ってわたしに従ってこい」とこの男を脅したのではありません。大いなる愛をもって、この男を罪の支配から神の支配へと招き入れようとされた。イエスさまの豊かな憐れみがここにあります。

私たちはそのイエスさまの憐れみにすがっていくのです。この男のように、罪の悲しみに覆われたままイエスさまのもとを立ち去るのではありません。罪にまみれたまま、ただイエスさまの愛と憐れみにすがっていくのです。弟子たちが言うように、そのままでは誰も救われることができません。「しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです」、イエスさまは宣言されました。それが十字架です。財産、お金の支配から抜け出すことのできない私たちの罪を負い、私たちをお金の支配から買い戻し、神さまの支配の下へと移してくださった。この十字架の御業によって私たちは救われたのです。ですから私たちはその十字架の御業がなかったかのように、再びお金の支配の下に戻ってはいけません。今なお私たちの内に残っている古い性質に引っ張られることはあるかもしれません。しかし私たちはすでに神さまの支配の下に移された者として、誘惑を断ち切り、必要のすべてを備えてくださる神さまに信頼して生きていくことが求められるのです。

 

自由と喜び

最後に、罪の支配から解放され、神さまの支配の下で生きるようになったキリスト者の姿を確認したいと思います。使徒の働き244-47節をお開きください(新236)。「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」初代教会では互いに財産を共有し、貧しい人たちに施し、裕福な人は家を開放して、使徒たちを経済的に援助しました。もちろん今とは社会の仕組みが違いますから、これをそのまま実践することが重要なのではありません。重要なのは、お金の支配から解放され、神さまの支配の下で生きるようになった人々の自由と喜びです。お金に支配される人生には自由がありません。この裕福な男もそうでした。小さい頃から敬虔な生活を送ってきたけれど、何かが足りない。何か満たされない。お金があれば好きなことはできるかもしれない。欲しいものが買えるかもしれない。しかし、このお金がなくなったらどうしよう、不安が尽きることはありません。お金を巡る人とのトラブルのなんと悲しいことでしょうか。しかし、私たちはイエスさまの十字架の御業によってすでにそのような罪の支配からは解放されています。すでに解放されている!私たちは神さまの支配に移されているのです!ですから、神さまの支配、神の国に生かされている者として、日々の必要を備えてくださる神さまに信頼して歩んでまいりましょう。そこには主にある真の自由と喜びがあります。

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