Ⅱコリント4:16「日々新たに」

 

「今年こそは新しい自分になりたい」。年が変わるとよく聞く言葉です。心機一転、新しいことに挑戦していきたい。自分を変えていきたい。そういう方にとって、今朝開かれている聖書のことばはまさにピッタリです。「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」。非常に前向きなことばです。クリスチャンではなくても、このことばに励まされるという人は多いのではないでしょうか。人は誰しも「変わりたい」という思いを心のどこかにもっています。現状の自分にはどこか満足のいかない部分があって、そこを変えたえい、新しい自分になりたい。誰しもがもつ自然な思いです。けれども私たちは今朝、そのような自分の思いを一旦静め、聖書は何を語っているのか、神さまは何を語っておられるのかについて、耳を傾けていきたいと思います。

 

御霊の働き

まず私たちが目を留めるべきは、この「内なる人は日々新たにされる」ということが何によって起こるのかということです。私たちは通常「新しい自分になりたい」というとき、自分の意志で、自分の力で自分自身を変えようとします。まずは見た目から変えてみる、周囲の環境を変えてみる、普段の習慣を変えてみる、色々とあります。けれども聖書はなんと言っているか。「内なる人は日々新たにされる」。「される」、これは受け身のことばです。私たちは自分の意志や力で「新たにする」のではなく、「新たにされる」。徹底的な受け身の出来事です。

では私たちは一体何によって「新たにされる」のでしょうか。聖書にはそのことが明確に示されています。ともに開きましょう。エペソ人への手紙316節です。「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように」。私たちの内なる人は御霊の働きによって新たにされる、これが答えです。聖霊なる神さまというのは三位一体の神さまの中でお働きが一番分かりにくいお方かもしれませんが、この箇所はその聖霊さまのお働きを明確に語っています。聖霊さまは私たちの内に住み、私たちの内なる人に働きかけ、私たちを内側から強め、新たにしてくださる。ある意味私たちに一番近い存在、それが聖霊さまです。

聖霊さまが私たちの内なる人を日々新たにしてくださる。そこで私たちが気をつけなければならないのは、聖霊さまのお働きを妨げないということです。そのことをはっきりと語っている箇所を開きましょう。ガラテヤ人への手紙516節から17節の途中まで。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。ここで言われている「肉の望むこと」の内容はこの後の19-21節に詳しく書いてありますが、こういった「肉のわざ」は御霊に逆らうものであると言われています。聖霊さまのお働きを邪魔するものです。私たちは決してそのようなことをしてはならない。そうではなく、御霊によって歩みなさいと聖書は語ります。これは、御霊に自分の主導権を明け渡すということです。それは具体的に言えば、御言葉と祈りを通して神さまのみこころを知り続けるということ。そして自分の欲や思いではなく、神さまのみこころに沿った歩みをしていこうと日々決意するということ。この「決意」というのが大切です。私たちは自分の力では神さまのみこころに完全に沿った歩みをすることができません。それを可能にするのは聖霊さまのお働き、ただそれだけです。ですから大切なのは、悔い改めつつ、神さまに従いたいという決意を日々新たにし、聖霊さまに主導権を明け渡し続けることです。すると聖霊さまは私たちの内でその御業を豊かになしてくださいます。私たちの内なる人を日々新たにしてくださる。これが聖霊さまの恵みです。

 

「新たにされる」

さて、ここまで、私たちは何によって「新たにされる」のかについてみことばに聴いてきました。私たちは聖霊さまによって新たにされる。では次に、聖書が言う「新たにされる」とは何を意味しているのかについて考えていきましょう。2コリントの箇所に戻ります。「内なる人は日々新たにされる」、これは単に私たちの性格が変わるとか、考え方が変わるとか、それだけのことではありません。聖書が語る「新たにされる」ということには明確な一つのゴールがあります。ページを一枚戻って2コリント318節を見ましょう。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」。「御霊なる主の働き」ということで先ほどとの接点が見えますが、それが向かう先は何か。「主と同じかたちに姿を変えられる」、キリストのようになっていくということです。私たちは御霊の働きによってキリストに似た者へと日々新しくされている。ここではすごいことが言われています。

また、それは単なる内面の変化だけではありません。もう一度ページを戻って、517節前半をお読みします。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」。「新しく造られた者」、これは「新しい創造」ということばです。聖書では、キリストの再臨とともに新しい創造、新しい天と新しい地が完成すると言われています。けれどもそれは遠い将来に起こることではありません。その新天新地は、新しい創造の御業は、今すでにキリスト者の中で起こっているのです。「内なる人は日々新たにされる」、それは私たちが日々キリストに似た者へと変えられているということと同時に、新しい創造が私たちの中で日々起こっているということでもあるのです。このスケールの大きさをぜひ感じ取ってください。神さまは日々、御霊を通して、私たちの中で新しい創造の御業をなしてくださっている。驚くべきことがここで言われているのです。

 

日々前進していく

私たちの内なる人は日々新しくされている。それは、今日の自分は昨日までの自分とは違うということ、この2022年の自分は2021年の自分とは違うということです。「たとえ私たちの外なる人は衰えても」とあるように、私たちの体は刻一刻と衰えていきます。歳を重ねるにつれて、去年まではこれができたけど、今年はこれができなくなったということも増えてくるかもしれません。私たちの体は、外なる人は日々衰えていく。弱くなっていく。抗うことのできない現実です。しかし私たちの内なる人はそうではない。御霊によって日々新たにされていく。昨日までの悲しみが喜びに変わるかもしれない。昨日までの苦しみが平安に変わるかもしれない。昨日よりも少し家族に優しくなれるかもしれない。昨日までは愛せなかったあの人を愛せるようになるかもしれない。すべては御霊の働きによってです。御霊の働きによって私たちは日々キリストに近づいていく。新天新地、神の国の完成に向けて前進してく。それがキリスト者の歩みです。

そしてそれは教会も同じです。教会も目に見えるところ、「外なる人」においてはちっとも前進していないように思えるときがあるかもしれない。年を越しても、教会の平均年齢がまた一歳上がるだけ。奉仕を担当できる人が減っていくだけ。できることが少なくなっていくだけ。「昔はあんなに色々できたのに」とため息が出てくる。前進するどころか、後退しているように見える。そのように感じることがあるかもしれません。しかし決してそのようなことはありません。「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」。目に見えるところでどんなに衰えようと、私たちは落胆しない。内なる人が御霊によって日々新しくされているからです。先週の日曜日の礼拝と今日の礼拝、見た目は全く変わらないかもしれないけれども、私たちは確かに新しくされている。新天新地、神の国の完成に向けて前進している。先週から今週、今週から来週、去年から今年、今年から来年、御霊によって前進し続けていく。それが主の教会です。

「先立って進まれる主とともに」、2021年度の年間目標です。2月の総会までこの目標は続きます。私たちはこの新しい2022年も、先立って進まれる主と共に前進していく。私たちだけでではありません。向かう先には父なる神さま。目の前には、いつも私たちの先頭を進んでくださっているイエスさまがおられる。そして聖霊なる神さまが私たち教会の内にあって、私たちを内側から導いてくださる。この三位一体の神さまが私たちを取り囲み、私たちとともに前進してくださる。この大きな幸いをおぼえながら、この2021年も御霊によって日々新たにされる歩みを送っていきましょう。

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