マルコ10:1-12「神が結び合わせたもの」

 序:繊細な問題

今日の箇所のテーマは離婚問題です。今の時代、とても繊細な問題ですが、イエスさまの当時の時代では、また少し違った意味で非常に繊細な問題でした。1節に、「イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた」とありますが、この「ヨルダンの川向こう」という場所が言及されていることには意図があります。聖書巻末の地図を見ていただくと分かるかと思いますが、「ヨルダンの川向こう」は「ペレア」と呼ばれる地方で、ヘロデ・アンティパスという王さまが治めている領地でした。このヘロデ・アンティパスという王さまは聖書の中でもあるエピソードで有名です。それは、離婚・再婚問題でした。マルコの福音書では6章にそのことが書いてありますが、彼は元々結婚していた妻がいたにもかかわらず、異母兄弟のヘロデ・ピリポの妻だったヘロディアと恋に落ち、それぞれの元妻・元夫と離婚し、再婚をしたということがありました。そしてバプテスマのヨハネがその罪を指摘したところ、妻ヘロディアの怒りを買い、殺されてしまった。ですからそのヘロデ・アンティパスとヘロディアがいるこの「ヨルダンの川向こう」の地域で離婚問題を話題にするということは、命の危険が伴うことだったのです。パリサイ人たちはそれを分かっていて、あえてイエスさまに質問しました。2節「すると、パリサイ人たちがやって来て、イエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した」。おそらくイエスさまから王さまへの批判を引き出して、その噂を流し、バプテスマのヨハネのように王さまの手によって処分してもらおうと考えたのでしょう。

 

当時の考え方

そのようなパリサイ人たちの悪意に満ちた質問に対し、イエスさまは問い返します。3節「イエスは答えられた。『モーセはあなたがたに何と命じていますか。』」「あなたたちが律法の専門家なら、律法に書いてあることをもちろん知っているでしょう」。質問の意図を見抜いて、より本質的な問いとして問い直す。イエスさまお得意の手法です。するとパリサイ人たちはこう答えます。4節「彼らは言った。『モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。』」即答するところはさすがパリサイ人というところです。これは申命記241節のことを指しています。ともに開いて確認しましょう(旧356)。「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、…」。イエスさまの時代のユダヤ教ではこの箇所を根拠に、離縁状を書きさえすれば離婚はしてもよいのだと考えられていました。

ただし議論があったのは、ここで言う「恥ずべきこと」とは何を指しているのかという問題です。保守的で厳格な人たちは、この「恥ずべきこと」を不貞、不倫に限って理解していたようです。もし不貞が見つかったら離婚してもよい。しかし多くの人たちは、それよりも広い意味で捉えていました。例えば「シラ書」という当時の文献にはこのような言葉が残っています。「もし女が、お前の指図どおりに歩かないなら、彼女と手を切れ」。もし妻が言うことを聞かないなら離婚しろということです。また他の文献を見ると、この申命記の「恥ずべきこと」には料理を焦がすことも入っているとも書いてあります。そしてさらにひどいのが、ユダヤ教最高の律法学者と言われるラビ・アキバが残した言葉で、彼は「もし妻よりもいい女を見つけたら離婚してもいい」と教えたそうです。今の私たちから考えるとあまりにもひどい教えです。女性が単なる夫の所有物として扱われていた社会だったということです。今日のマルコの箇所でも、パリサイ人たちの頭の中にはそういった教え、考えがあったはずです。

 

心の頑なさ

しかしイエスさまはそれに対しこう言われました。5-9節「イエスは言われた。『モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。』

「モーセは離縁状を書いて妻を離縁することを許した」。パリサイ人たちの答えは間違っていませんでした。確かに申命記にはそう書いてある。しかし、「そうではないだろう。あなたたちはそもそも結婚とは何であるかを理解していない!」イエスさまは言われたのです。イエスさまがそこで引用されたのは創世記2章にある創造の物語です。結婚は単に人間の決断だけでなされるものではない。結婚はそもそも神さまによって定められたもの。すべての夫婦は神さまによって結び合わされた。だからそれを人が勝手に引き離してはいけない。イエスさまははっきりと言われました。

ではなぜ申命記でモーセは離婚を許すようなことを言っているのか。それはあなたがたの「心が頑な」だからだとイエスさまは言われます。「心が頑な」というのは、受け入れることができないということです。「神が結び合わせたものを、人が引き離してはならない」、神さまが定められたこの結婚の戒めを人は受け入れることができないということ。なぜか。それは人が罪の内にあるからです。仮にもし下手に離婚を禁止したら、離婚以上に大きな問題が生まれてしまう。結婚関係にありながらも好き勝手に不倫をする。相手が気に入らないと家庭内暴力を振るう。あるいはそれが行くところまで行ってしまうと、殺人も起こりかねない。家庭が壊れ、子どもの人生も壊れてしまう。そうなると離婚以上に悲惨な事態が起きてしまう。だからせめて、そこまで悲惨な状況が生まれないよう、最低限の秩序として、モーセはあのようなことを命じたのだ。すべてはあなたたちの「心が頑な」だからだ。重い現実です。

その後の10-12節で言われていることも基本的には同じです。この後半部分に書かれていることはより直接的なヘロデ王批判になるので、イエスさまは家の中で弟子たちだけに語るということを選ばれました。ここでは再婚の問題が扱われていますが、そもそも再婚とは離婚とセットになるものです。先ほどの申命記の箇所では「離縁状」というものが出てきましたが、これは再婚するのに必要になるものです。再婚をする際に、もうこの女性は前の夫のものではないということを証明するために「離縁状」は用いられていました。しかし申命記にそう書いてあるからと言って、再婚が正当化されるわけではないとイエスさまは言われる。離婚が神さまのみこころに反することなら、離婚を前提にした再婚も当然そうだ、ということです。ですからここでイエスさまが言われているのは、再婚をしてはいけないということよりも、そもそも離婚をしてはいけないということです。

 

戒めをどう捉えるか

ここで私たちが問われているのは、神さまの戒めをどう捉えるのかということです。パリサイ人たちに代表される当時のユダヤ人たちの考えは、「どこまでなら許されるのか」という方向に向かっていました。「あれはいいのか」「これはどうだろうか」「ここまではいいだろう」。ギリギリまで行けるラインを探す。この離婚規定に限らず、あらゆる律法に関してそのような方向で考えていました。もちろんそこには、「神さまの律法を決して破りたくない」という強い思いがありました。律法に対して非常に真剣でした。しかし考えてみてください。「どこまでなら許されるのか」という方向で考えるということは、裏を返せば、「どこまでなら神さまから離れても大丈夫なのか」ということと一緒ではないでしょうか。許されるギリギリのラインを探す。どこまでなら自分の思い、自分の欲を優先してもいいのかを探る。

イエスさまが求めておられるのは、それとは逆の方向性です。どうやったら神さまのみこころに近づいていけるか。どうやったらより神さまの願われる生き方ができるか。イエスさまが求めておられるのはその方向性です。そしてその方向性に向かっていくならば、「あれはどうか」「これはどうか」と考える必要はありません。目指すべきところは至ってシンプルです。今日の箇所で言えば、「神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません」、この一点です。私たちが目指すべきところ、向かっていくべき方向は明確に示されている。

 

罪の現実

けれどもそこに向かっていくとき、私たちは人間の罪の現実に直面します。日本では、結婚した夫婦の3組に1組が離婚していると言われます。離婚は非常に身近な問題です。もちろん、初めから離婚を願って結婚する人などいません。だから結婚式で誓約するわけです。どの夫婦も必ず互いに愛を誓い合う。しかし結婚生活を送る中で、その誓いを守ることができない罪の現実に直面します。相手のことを愛することができない。それが言葉、暴力、支配、不倫、様々な形で現れてきます。原因は自分の罪かもしれないし、相手の罪かもしれないし、お互いの罪かもしれない。様々な事情があることでしょう。けれどもいずれにせよ、そこで夫婦は自分達を覆う罪の現実に直面します。その結果、「神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません」という神さまの戒めに従うことができなくなり、離婚に至ってしまう。

多くの場合、それは避け得ないことかもしれません。それ以上一緒にいては、自分が、あるいはお互いが壊れてしまう。これ以上悲惨な状況を生まないために、離婚を選択する。そうなってしまった以上、それがその状況においては最善の選択だからです。けれどももしそこで、「こういう場合の離婚は罪ではない」「ではああいう場合はどうか」という方向性で考えていくならば、それはパリサイ人たちと同じ過ちを犯すことになってしまいます。神さまのみこころは一つです。「神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません」。もしそうせざるを得ない状況にあったとしたら、それは人の罪のゆえなのだ。厳しいイエスさまのお言葉です。厳粛な神さまのお姿がそこにあります。

大事なのは、そこで罪の現実を認識することです。「バツ1」「バツ2」「バツ〜」のように、あたかも離婚の経験が何か武勇伝であるかのように誤魔化すことを神さまは望んでおられません。離婚の経験を、大きな痛み、悲しみ、罪の現実としてしっかりと受け止め、神さまの御前に悔い改めること。その中で、罪の赦しの恵みが見えてきます。

今日の箇所の1節には、「イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた」とあります。これは、イエスさまがガリラヤでの活動を終えられて、いよいよエルサレムへ、十字架に向かい始めたことを意味しています。イエスさまは何のために十字架に向かわれたのか。それは、この離婚という重く苦しい罪の現実をも背負い、それを贖い、赦すためです。イエスさまはそのために十字架にかかってくださった。このイエスさまの十字架のゆえに、私たちの罪は赦されている。この赦しの確信があるからこそ、私たちはこの重く苦しい罪の現実と正面から向き合うことができる。十字架の恵みを心に刻んでいきましょう。

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