マルコ9:9-13「キリストの苦しみ」

 

「聖書が語るイエス・キリストってどんなお方?」と聞かれたらみなさんはどう答えるでしょうか。優しいお方、頼もしいお方、強いお方、正義のお方、様々な答えがあると思います。どれもその通りです。人には様々な側面があるように、人となられた神の子イエス・キリストにも様々な側面がありました。その中で、今日の聖書箇所が語っているのは、「苦しむお方」としてのイエス・キリストのお姿です。神さまが苦しむ、これは一般的な神のイメージからは出てこない姿だと思います。古代の神話などでは、神が人を苦しめるという場面は多く出てきます。しかし、神ご自身が人のために苦しみを受ける、この聖書の神観は非常に特殊です。一体聖書は、「苦しむお方」としてのイエスさまを描くことによって、何を私たちに伝えようとしているのか。しばらくの間、聖書のことばに聴いていきたいと思います。

 

弟子たちの疑問

先ほど9-13節を読んでいただきましたが、今日特に注目したいのは後半の11-13節です。まず11節「また弟子たちは、イエスに尋ねた。『なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのですか。』」先週私たちは、この前の2-8節に書かれているいわゆる「変貌山」の話をともに聴きました。山の上で突如旧約聖書のモーセとエリヤが現れ、イエスさまと語り合ったという話です。その出来事を理解するために、先週は旧約聖書のマラキ書を開きました。そこでは、神さまはキリスト、救い主をこの地上に遣わす前に、その先駆者として、その道備えをする者としてエリヤを遣わすということが書いてありました。キリストの前にエリヤが遣わされるということ。その旧約聖書の箇所を、当時のユダヤ人たちはよく知っていました。ですから弟子たちはここでイエスさまにこう尋ねたのです。「イエスさま、あなたが救い主キリストであることは段々分かってきましたが、旧約聖書にはキリストが来る前にエリヤが遣わされると書いてあります。そして旧約聖書の専門家である律法学者たちは、エリヤはまだ来ていないのだから、キリストもまだ来ていないはずだと言っています。そのことについて、どう考えたらいいのですか」。

それに対して、イエスさまはこう答えました。12-13節「イエスは彼らに言われた。『エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです。それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。わたしはあなたがたに言います。エリヤはもう来ています。そして人々は、彼について書かれているとおり、彼に好き勝手なことをしました』」。情報がごちゃごちゃしていてなかなか分かりにくい答えですが、ここでイエスさまが言っているのは要するにこういうことです。「エリヤが先に来て、キリストの先駆者としてキリストのために道備えをする、それはその通りだ。だがエリヤはもうすでにこの地上に来ている。それはバプテスマのヨハネのことだ。そしてあなたたちは、バプテスマのヨハネが人々から苦しめられて殺されたのを覚えているだろう。実はヨハネが受けたあの苦しみは、キリストを指し示していたのだ。旧約聖書には人の子、救い主キリストは多くの苦しみを受け、人々から蔑まれると書いてある。バプテスマのヨハネは、キリストの先駆者として、後に来るキリストが受ける苦しみを指し示しながら殉教の死を遂げていったのだ」。

 

苦難のしもべ

ここでテーマになっているのは、キリストが受けなければならない苦しみです。この「苦しみ」というものは、イエス・キリストのこの地上での生涯を理解するために必要不可欠なものです。教会には使徒信条というものがあります。週報の裏面に記載されているものです。この使徒信条には世界の教会が古くから信じてきた信仰の告白が記されていますが、イエス・キリストのこの地上の生涯に関しては、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」という部分でしか触れていません。これは何を意味しているか。「苦しみ」を抜きにイエス・キリストを語ることはできないということです。聖書が語るイエス・キリストとはどのようなお方かと問われた時、私たちはまず十字架の上で苦しまれたキリストを指し示す必要があります。

この「キリストの苦しみ」ということは、イエスさまがご自分で考え出されたものではありません。今日のマルコ9:12で「多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてある」とあるように、これは旧約聖書で預言されていたことでした。いくつか箇所がありますが、その中でも代表的な箇所をともに開きたいと思います。イザヤ書53章です(旧1259)。1-3節をはじめにお読みします。「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった」。悲劇的な1人の人の歩みが描かれています。この箇所が語る人物が将来の救い主、キリストであるとは到底思えない。一体なぜこの人物はこれほどまでの苦しみを背負わなければならないのか。その答えが続いて示されます。4-5節「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された」。なぜこの人物は苦しみを負わなければならないのか。悲劇的な人生を送らなければならないのか。それは、私たちの病を負うためであり、私たちの痛みを担うため。彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれる。彼の苦しみこそが私たちに平安と癒しをもたらす。全ては私たちのためであると聖書は語ります。

私たち人間は、神さまとともに生きる存在として造られました。神さまとともに生きるのが本来の私たちの生き方です。しかし、あるものが神さまと私たちとの間の関係を壊してしまいました。それが聖書の語る罪です。そして神さまとの関係が壊れてしまった結果、私たちは様々な苦しみや痛みをこの身に招くことになりました。4節と5節で語られている「私たちの病」「私たちの痛み」「私たちの背き」「私たちの咎」とはそういうことです。けれども、神さまはそんな私たちを放っておこうとはされませんでした。関係が断絶してしまった私たち人間をなんとかして救いたいと願われた。なんとかして私たちの傷を癒し、平安を与えたいと願われた。このイザヤ書に書かれているのはそのための神さまのご計画です。やがて神さまは1人の人を送り、彼が私たちの抱えている全ての苦しみを身代わりとして引き受け、その身に負ってくださる。そして私たちと神さまとの関係を本来あるべき関係に回復させてくださる。私たちが神さまとともに再び生きることができるようにしてくださる。

 

わがためなり

この預言が、2000年前、イエス・キリストによって現実となったのです。しかもなんと、神さまご自身が、イエス・キリストという人のかたちをとり、この地上に来て、私たちの全ての苦しみを背負ってくださった。神さまとともに生きる道を再び開いてくださった。それこそが新約聖書が証していることです。神さまにとって人の苦しみなんて大したことないだろうと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、そうではありません。神さまはイエス・キリストという完全な人のかたちをとって来られましたから、苦しみを苦しみとして味わわれました。人々から蔑まれました。我慢のならないことです。しかしイエスさまは私たちを救うために、神さまとともに生きる道を再び開くために、その苦しみを自ら進んで引き受けてくださったのです。

キリストの苦しみはこの私を救うためであった、この事実を受け入れるかどうかが私たちに問われていることです。この後歌う讃美歌「カルバリやまの十字架」の折り返し部分はこのような歌詞になっています。「ああ十字架、ああ十字架。カルバリの十字架、わがためなり」。キリストの十字架、キリストの苦しみは私のためであった。教会とは、それを心から信じている者たちの集まりです。そして、そのキリストとともに生涯を歩んでいきたいと願う者たちの集まりです。だからこそ教会はこの十字架をシンボルとして掲げているのです。この十字架は単なる飾りでなく、キリストの十字架、キリストの苦しみはわたしたちのためであったという信仰の告白です。「カルバリの十字架、わがためなり」、この信仰に堅く立ちながら、十字架のキリストを日々仰ぎ見ていきたいと願います。

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