マルコ9:1-8「栄光の主との出会い」

 

今日の箇所は一般的に「変貌山」と呼ばれる話です。山の上でイエスさまの姿が白く輝き、変貌するという箇所。3節には「この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった」とありますが、とても視覚的、ビジュアルな描写がされています。けれどもそれと同時に、この箇所はどこか謎に満ちているような感じがします。印象には残るけれども、実際のところよく意味が分からない。たしかに、この箇所だけを読んでも、このストーリーがもっている意味はあまり見えてきません。このストーリーを理解するためには、この箇所に散りばめられている旧約聖書とのつながりを捉える必要があります。

 

旧約からの響き

まず2節を見ると、イエスさまはペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を連れて「高い山に登られた」とあります。この「山」というのは聖書で特別な意味をもっています。旧約聖書の時代から、神さまは多くの場合、山の上で人々に現れてきました。代表的なのはモーセです。石の板に書かれた十戒が与えられたのはシナイ山という山の上でした。山の上で神さまは人と出会い、ご自身のことを明らかにされる。ですから神さまはここでもまた山の上で、この3人の弟子たちにイエスさまの本当のお姿、メシア、神の子としてのお姿を示そうとされたのです。

するとそこでイエスさまの姿が変わり、エリヤとモーセが姿を現し、イエスさまと語り合います。エリヤとモーセ、この2人は旧約聖書を代表する人物です。律法を代表するモーセ、そして預言者を代表するエリヤ。旧約の最強コンビです。この2人の登場は一体どのような意味をもっているのか。実は旧約聖書の伝統では、このモーセとエリヤによってメシアが来るための道備えがされる、準備がされると考えられていました。それを示している箇所をともに開きたいと思います。祈り会でちょうど読んでいるマラキ書の44-6節です。旧約聖書の一番最後、1635ページです。「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである」。「モーセの律法を覚えよ」、そして「預言者エリヤをあなたがたに遣わす」。モーセとエリヤ、この2人の存在が終わりの時代、メシアによる神の国の始まりのしるしだということです。

そして今日のマルコの箇所では、イエスさまがモーセとエリヤとともにいる。これは何を意味するか。このイエスこそが旧約聖書から預言されてきた終わりの時代、神の国の始まりをもたらすメシアであるということです。3人の弟子たちは旧約聖書のことをよく知っていましたから、この場面を見て圧倒されました。驚きのあまり恐怖に打たれていた。旧約聖書から預言されていたあの出来事が、今自分たちの目の前で、しかも信じられないような方法で現実に起こっているのです。

ペテロは思わず口走ります。5-6節「ペテロがイエスに言った。『先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた」。ペテロの性格がよく表れています。信じられないようなことが目の前で起こっている。その状況に何とかしてついていこうとしたのだと思います。「三つ幕屋を造って、御三方にそこに滞在してもらいましょう」と提案します。そこには色々な意図があったのかもしれませんが、マルコはそのペテロの発言を「何を言ったらよいのか分からなかったのである」と結論づけています。栄光に輝くイエスさまに向かって「あなたこそメシアです」と礼拝すればよかったものを、余計な口を挟んでしまうペテロ。実にペテロらしいと言えます。

すると、その弟子たちをさらに圧倒させるかのように、雲の中から声がします。7節「そのとき、雲がわき起こって彼らをおい、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。』」「雲」とありますが、これは旧約聖書の時代から、目には見えない神さまの臨在を現すものです。神さまご自身が弟子たちに向かって「このイエスはわたしの愛する子だ。彼の言うことを聞け」と語りかけた。イエスさまがメシアであることのこれ以上確かなしるしはありません。マルコの福音書1章、イエスさまがバプテスマを受ける場面では、イエスさまだけに向かって「あなたはわたしの愛する子」と語りかけられましたが、ここで神さまは弟子たちに対してそれを明らかにされたのです。

 

神の国の前味

一体なぜこの不思議な出来事がここで起こったのか。なぜ神さまはここで弟子たちに対して「これはわたしの愛する子」と語られたのか。それはこの箇所に至るまでの流れを見るとよく分かってきます。この直前の8章で、ペテロが「あなたはキリストです」と告白した後、イエスさまはご自身の受難を予告されます。そして弟子たちもイエスさまに続いて自分を捨て、十字架を負わなければならないということが語られます。殉教の可能性も示唆される。弟子たちはどのように思ったでしょうか。「あれ、思っていたのと違うな」。そう思ったことでしょう。自分たちが思い描いていたのは、ローマ帝国を追い出してイスラエルを独立に導いてくれる勝利のメシア、キリストであって、途中でローマ軍に殺されるようなメシアではない。しかもイエスさまについていったら自分たちも死ぬかもしれない。本当にこの人についていっていいのだろうか。不安が沸々と湧いてきます。

しかし、そこで今日の冒頭の9章1節が語られます。「またイエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない人たちがいます。』」これは希望の約束です。神の国は必ず到来する。あなたたちの中には必ずそれを目にする人たちがいる。だからわたしに従ってきなさい。イエスさまは力強く約束します。

そしてその直後に今日の出来事です。栄光に輝くイエスさまのメシアとしての姿が明らかにされる。1節でイエスさまが約束された、「神の国が力をもって到来する」ということ。その本番は十字架と復活後のことになりますが、その前味を3人の弟子はここで経験するのです。そして極め付けは神さまご自身の天からの声です。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」。このイエスさまこそが自分たちの救い主、メシアである。間違いなかった。自分たちはこのイエスさまに従っていけばいいのだ。イエスさまの言うことを聞いていればいいのだ。弟子たちは改めて確信をもつことができたのです。

 

栄光の主に出会う恵み

栄光の主との出会い。この恵みは今を生きる私たちにも与えられています。本当にイエスさまについて行っていいのだろうか。弟子たちが抱いたこの不安は、私たちが抱く不安と同じです。教会にいる時は周りがみんなクリスチャンだから、信仰に自信をもつことができる。イエスさまに一生従っていきたいと心から思う。けれども月曜日になり、教会の交わりから離れて過ごす中で、その確信が少しずつ弱くなっていく。イエスさまのことを全く気に留めていないこの世の中に身を置く中で、少しずつ不安が心をよぎる。本当に自分は教会に行っていていいのだろうか。イエスさまは本当に自分の人生を預けるに値するお方なのだろうか。もし、仮に、イエスさまがただの幻想に過ぎないのなら、自分は人生を台無しにしていることにならないだろうか。もっと違うものに、現実世界のものに目を向けていくべきじゃないのか。信仰を失うまでには至らずとも、そのような小さなモヤモヤ、不安、迷い、疑いが心の中を渦巻いていく。正直なところ、私は時折そう思ってしまうことがあります。生涯を通して神さまに仕えていくと決意した。けれども、もし自分が毎週語っているこの聖書がただの昔の本に過ぎないのなら、自分がやっていることには何の意味があるのか。もっと分かりやすく世の中のためになることをした方がいいのではないか。本当に自分はこのままイエスさまに従って行っていいのだろうか。意識はせずとも、そのような思いが心をよぎってしまうことがどうしてもある。私自身の弱さです。

けれども、私は毎週日曜のこの礼拝を通して、栄光の主に出会います。みことばの中に、祈りの中に、賛美の中に立っておられる、栄光の主を、光り輝くイエス・キリストを見るのです。そして、そこで神さまの御声を聴く。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」。この御声を聴いて、確信をもつのです。「あぁ、このイエス・キリストについて行って間違いはないのだ。このお方に生涯従っていきたい」。信仰の確信を新たにさせられるのです。

毎週日曜日のこの主日礼拝とは一体何でしょうか。ただの人間の集まりでしょうか。聖書を勉強する時間でしょうか。そうではありません。この主日礼拝は、生ける神さまとの出会いの場です。天の御座についておられる、光り輝く栄光の主との出会いの場です。もちろん主日礼拝でしか神さまに出会うことはできないということではありません。日々の生活の中で私たちは神さまに出会っていく。しかしイエスさまが復活されたこの主の日に神の家族がともに集まり、ともにみことばに聴き、祈り、賛美する中で、私たちは栄光の主の輝きを、素晴らしさをいよいよ仰ぎ見ていくのです。神の国の前味を味わっていくのです。そしてここで私たちは神さまの御声を聴く。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」。神の子イエス・キリストこそが私たちの主であることをともに確信していくのです。そしてその確信をもって、新しい1週間の歩みに、この世界での歩みに遣わされていく。遣わされた先で、神の国の現実を、栄光に輝く主を証しし、宣べ伝えていく。そして翌週の礼拝で、今一度栄光の主に対する確信を新たにさせられる。その繰り返しの中で、神の国は確かに前進していくのです。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」。神さまの御声は今日もこの礼拝の場で鳴り響いています。

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