Ⅰコリント15:20-28「眠った者の初穂」

 

早いもので2021年も残りわずか3ヶ月となりました。今日は10月の第一主日ですので、年間目標に関連するみことばにともに聴いていきましょう。はじめに、恒例となっていますが、年間聖句をみなさんで声を合わせて読みたいと思います。「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」(申命記31:8)。「先立って進まれる主とともに」。この年間目標について、次はどの箇所からみことばを語ろうか。森川兄の葬儀を終え、祈りの内に黙想する中で、今日私たちが開いているこのⅠコリントのみことばが迫ってきました。先立って進まれる主はキリストを通して、私たちの最後の敵である死に打ち勝つ道を、復活への道を切り開いてくださった。この希望のみことばに、しばしの間ともに聴いていきましょう。

 

神の国の完成に至る順序

今日の箇所でまず興味深いのは、神の国の完成に至るまでの順序が23節以降で記されていることです。その順序をまず確認したいと思います。まずは23節「しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです」。ここでは復活の順序について言われています。終わりの時がきたら、まずキリストが初穂として復活される。これは2000年前に現実になりました。そして次に、キリストの来臨の時、イエスさまが再び来られる再臨の時に、キリストに属している人たちが復活する。これは将来のことです。ここで言われている「キリストに属している人たち」というのは、この前の18節にもあるように、「キリストにあって眠った者たち」、つまりすでに召されたキリスト者のことです。キリスト者は肉体の死を迎えた後、その肉体は土に帰り、そのたましいは天におられるキリストのもとにあげられます。聖書ではその場所が「パラダイス」と呼ばれています。森川兄の記念会でお話しした「天上の教会」というのも同じことです。キリストにあって召されたたましいは、天のキリストのもとで神を礼拝しながら安らぎの時を過ごしている。

けれども、そこで終わりではありません。キリストが再臨される時、再び事が起こります。それが23節で言われていることです。キリストがこの地上に再び来られる時、すでに天に召されたキリスト者のたましいは、新しい栄光のからだをもって復活します。よくある誤解として、からだというのは悪だから、人のたましいはからだから解放されて初めて自由になるのだと言われることがあります。けれどもそれは聖書の考え方ではありません。神さまはからだをもった存在として私たちを創造し、それを「非常によい」と言われたわけですから、キリストが再臨される時、私たちは再びからだをもった存在として、しかもこの欠けの多いからだではなく、新しい栄光のからだをもった存在として復活するのです。それが聖書の約束です。

そしてその後、終わりが来ます。24節「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます」。キリストが再びこの地上に来られ、復活が起こった後、キリストは神の国の王としてこの地上に残っているあらゆる悪の力を滅ぼします。キリストの十字架と復活によってはじまった神の国がついに完成するのです。そして神の国が完成した後、キリストは神の国を父なる神さまにお渡しする。イエスさまのメシアとしての働きがそこで完成するからです。そして28節の最後にあるように、「神が、すべてにおいてすべてとなられる」、神さまの臨在が、神さまの栄光がこの世界すべてを満たすようになる。それこそが聖書の語るこの世の終わり、神の国の完成です。

 

最後の敵

とてもスケールの大きな話をしました。スケールが大きすぎてなかなか実感が湧かない、いまいちピンと来ない、そのような方もいらっしゃるかもしれません。けれどもここでは同時に、今を生きている私たちにも深く関わることが語られています。注目したいのは26節です。「最後の敵として滅ぼされるのは、死です」。キリストが再臨される時、死が最後の敵として滅ぼされる、聖書はそう語ります。

ここで私たちは、死が「敵」であるということを今一度確認したいと思います。死は「敵」である。これは一見当たり前のように思えて、実は私たちがしばしば忘れてしまっていることであるように思います。「死」は人間誰しもが経験しなければならない事柄です。私たちは「死」が当たり前の世界に生きています。人間はみないつか死ぬ。それはしょうがないこと。「死」に対する諦めを私たちはどこかでもっているかもしれません。

そう思わなければやっていられない、確かにそうです。けれども、死は「敵」であると聖書が言う時、私たちがおぼえたいのは、「死」は当たり前のことではないということです。今日の21節に、「死が一人の人を通して来たのですから」とあるように、死は本来、神さまが創られたよい世界には存在していなかったものでした。「一人の人」、アダムの罪によって、初めて死がこの世界に入ってきた。だから死は「敵」なのです。しかも生半可な敵ではありません。強力な敵です。「最後の敵」、ラスボスです。人間は自分の力ではどう足掻いてもこの敵に打ち勝つことも、抵抗することもできません。しかも、この「死」という敵は、人間同士の間にも敵意をもたらします。あらゆる争いや妬み、それを引き起こす理由は様々ですが、その根っこを辿っていくと、自分のいのちを死から守らなければならない、そのような死への恐れがあると思うのです。自分を死から守るために、相手を死に貶める。そのようにして人類は死に支配されるのです。死は恐ろしい。大きな苦しみ、痛み、悲しみをもたらす。死は私たちの敵である、そのことを今一度おぼえたいと思います。

 

死に打ち勝った人

けれども聖書は、2000年前、人類史上はじめて「死」に打ち勝った一人の人がいると語ります。20-22節「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです」。人としてこの地上に来てくださった神の子キリストは、アダム以来、すべての人が惨敗を喫してきた「死」に立ち向かい、勝利された。それがキリストの復活の意味です。復活とは死に対する勝利です。しかも、その勝利はイエスさまだけに留まるものではありません。20節に「眠った者の初穂として」とあります。「初穂」というのは、一番初めに収穫される作物のことですが、それが意味するところは、その後に豊かな収穫が待っているということです。キリストの復活もそうなのだと聖書は言います。キリストの復活は、キリストだけで終わるものではない、その後に続くキリスト者たちの復活をももたらすものなのだということです。

あるいは「敵」というイメージで考えてみましょう。人生という旅路を歩む中で、私たちは「死」という強大な敵に出くわします。最後の敵、ラスボスです。誰もその敵に勝てる人はいませんでした。しかしイエス・キリストは私たち人類の代表として、私たちの先頭に立ち、私たちに先立って進み、「死」と戦い、「死」を倒してくださった。「死」の向こう側にある道、復活の道を切り開いてくださったのです。ですから、キリストを信じ、キリストに結び合わされた者は、キリストとともに、キリストの後に続いて、「死」の向こう側にある道、復活の道へと進んでいくことができるのです。

 

私たちの希望

「先立って進まれる主とともに」、私たちはこの1年間、この年間目標に関連する様々なみことばに聴いてきています。祈り、信頼、平安、勇気、様々なテーマがありました。今日私たちは、先立って進まれる主とともに歩むというのは、私たちにとっての大きな希望なのだということをおぼえたいと思います。「死」は恐ろしい。愛する人の「死」は辛く悲しい。「死」は私たちの敵です。最強の敵です。けれども、先立って進まれる主とともに歩むのであれば、私たちはその最強の敵である「死」に打ち勝つことができる。「死」の向こう側にある復活の道へと歩みを進めることができる。「人は皆死ぬ。それはしょうがないこと」と、死に対して諦めの心をもつのではなく、死の恐れ、悲しみの先にある勝利に目を向けることができる。これが私たち教会の希望です。この希望を胸に、この地上の人生を、先立って進まれる主とともに歩んでいきたい。そう願います。

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