マルコ8:27-30「あなたはキリストです」

 

「あなたはキリストです」。この信仰告白をもって、マルコの福音書は一つのターニングポイント、折り返し地点を迎えます。マルコの福音書全体を見ても、この8章はちょうど真ん中に位置していますが、この箇所を境に、イエスさまはガリラヤでの宣教活動からエルサレムに向かう道のり、十字架に向かう道のりへとご自身の働きをシフトさせていくことになります。「あなたはキリストです」というこの短くシンプルな信仰告白のことばは、このマルコの福音書にあって、非常に重要な意味をもっているのです。

 

イエスとは何者

今日の箇所は、弟子たちに対するイエスさまの問いかけから始まります。27節「さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。『人々はわたしをだれだと言っていますか。』」。この箇所に至るまでの流れを私たちはすでに見てきました。イエスさまの様々な御業を目の前で見ておきながら、イエスさまがどなたであるかを一向に悟らなかった弟子たち。けれども、この直前の箇所で目の見えない人の目を癒したように、イエスさまはこの問いかけによって、弟子たちの固く閉ざされた霊の目をいよいよ開こうとされています。

すると弟子たちは答えました。28節「『バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。』」当時の人々はイエスさまをどのように見ていたかがこの答えから分かります。ある人たちは、バプテスマのヨハネの生まれ変わりだと言っている。あるいはある人たちは、あの旧約の偉大な預言者エリヤが再びこの世界にやって来たのだと言っている。また、群衆の中には特定の預言者と結びつけることはせずに、イエスさまは神さまが遣わした新しい預言者の一人だと考えていた人々もいたようです。いずれにせよ、「このイエスという男は一体何者なんだ」、そのような問いが当時の人々の間には満ちていました。

すると、イエスさまはこう続けました。29節「『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』」「あなたがたは」、これが強調点です。イエスさまが先に「人々はわたしをだれだと言っていますか」と問いかけたのは、人々の評判を気にしていたからではありません。すべては「『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか』」、この問いを発するためにありました。「周りの人々はわたしについて色々なことを言っている。ではあなたがたはわたしをだれだと言うのか」。決定的な問いです。ごまかしは許されません。「周りがああ言っているから私もそう言う」ではない、あなた自身はどう答えるのか。

 

「キリスト」とは

弟子たちを代表して、ペテロはこう答えました。「『あなたはキリストです。』」非常にシンプルな答えです。しかし、私たちはこのシンプルな信仰の告白に込められた深い意味を読み取らなければいけません。「キリスト」とはどのような意味でしょうか。よくある誤解だと思いますけれども、「キリスト」は決してイエスさまの名字ではありません。また「キリスト」という言葉は「神」という意味でもありません。イエスさまには色々な呼び方がありますが。「イエス」というのは名前です。「神の子」というのは父なる神との関係性を言い表した呼び方です。他にも「主」という呼び方もありますが、これは「主権者」、主人としもべの関係における「主(あるじ)」という意味です。では「キリスト」は何でしょうか。「キリスト」というのは簡単に言えば、イエスさまの「役職」「職務」を言い表したことばです。「キリスト」、ヘブル語ですと「メシア」ですが、これは「油注がれた者」という意味です。ルーツは旧約聖書にあります。旧約聖書において、「油注がれた者」というのは、神さまの働きのために特別に選ばれた者のことを指しています。具体的には、「王」「祭司」「預言者」、この三つの職務に就く者のことです。「油」というのは主の霊、つまり聖霊を象徴していまして、「王」「祭司」「預言者」に任命される際には、聖霊が注がれることの象徴として油注ぎが行われた、そのような記録が旧約聖書に残っています。そして任命された者は、聖霊の力によって神さまの働きに邁進していくことが求められたのです。

「王」「祭司」「預言者」、この三つの中でも、特に人々から待ち望まれていたのは「王」としての「キリスト」「メシア」でした。そのことを示している聖書箇所はたくさんあるのですが、その中の一箇所を実際に開きたいと思います。エレミヤ書235-6節です(旧1332)。6節の前半までお読みします。「見よ、その時代が来る。—主のことば—そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住むこれこそが、神の民が待ち望んでいた王なる「キリスト」「メシア」でした。この時代、イスラエルはその罪ゆえにバビロンという外国の奴隷になろうとしていました。そしてその時代の後も、イエスさまの時代に至るまで、様々な外国の支配の下で苦しい生活を強いられていました。その中にあって旧約の預言者たちは、やがて神さまはダビデのような王さまを、「キリスト」「メシア」を再びこの世界に起こし、イスラエルの国を、神の国を確立してくださる、そのような素晴らしい将来を語ったのです。「王」なる「キリスト」「メシア」はやがて来て、この苦しい世界を、不正に満ちた世界を根底から変えてくださる。神さまの公正と義をこの世界にもたらしてくださる。それが人々の希望でした。

弟子たちは、その希望がこのイエスという人物において現実となったことを悟りました。「あなたこそが、旧約聖書からずっと約束されてきた真の王『キリスト』『メシア』です」。弟子たちの目はようやく開かれたのです。

 

危険な信仰告白

しかし、それを聞いてイエスさまは「よく分かってくれた。さあそれを今からみんなに伝えるんだ!」とは言われませんでした。30節「するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒めた」。せっかく弟子たちが悟ったのに、なぜそれを大っぴらにしようとしないのか、私たちは疑問に思うかもしれません。けれどもイエスさまがこのように戒めた理由は、先ほど申し上げた「キリスト」の意味を考えると分かってきます。「あなたはキリストです」、ことばを換えれば、「あなたは真の王です」。これは当時のイスラエルにあって、非常に危険な信仰告白でした。ローマ帝国に支配されていたイスラエル。しかも今日の箇所の舞台であるピリポ・カイサリアは、ローマ皇帝アウグストゥスを神として祀る神殿があった場所です。そのピリポ・カイサリアにあって、「真の王がここにいる!」と宣言することは、つまり革命を意味しました。「あなたはキリストです」という信仰告白は、弟子たちの心の中の信仰だけの問題ではなかったのです。それは、自分たちを支配しようとするこの世界の権力に対して「NO」ということ、私たちの真の王はローマ皇帝ではなく、ヘロデ王でもなく、イエスさまなんだと宣言することだったのです。

もちろんイエスさまはクーデターを起こそうとしていたわけではありません。イエスさまが建てようとしておられた神の国は、この世の国とは違う目に見えない国、武力によらない愛と平和の国でした。しかし周りはそう見ません。ローマ帝国からの解放を望んでいた群衆は、「キリスト」が現れたと聞けば、革命軍のリーダーがついに現れたと、イエスさまを担ぎ出そうとしたでしょう。そしてもしそのようなことが起これば、ローマ軍はすぐにイエスさまを反乱分子として処刑したはずです。弟子たちも革命軍の一味としてすぐに殺されてしまったでしょう。するとイエスさまはご自身の働きを全うできなくなってしまう。ですからイエスさまは、然るべきときが来るまでは、十字架のときが来るまでは、ご自身が「王なるキリスト」であることを公にしないようにと弟子たちを戒められたのです。実際に福音書を読み進めていくと、イエスさまが捕まった場面では、もはやイエスさまは自身がキリストであることを隠しておられないことが分かります。けれど現時点でまだ時は来ていなかった。ですからイエスさまはご自身がキリストであるというこの大スキャンダルを公にしようとはされなかったのです。

 

日本の教会の罪

私たちがここから覚えたいのは、「あなたはキリストです」という信仰告白は、この地上にあって、ときとして非常に危険な信仰告白になり得るということです。かつての日本もそうでした。今日は奇しくも815日、終戦記念日です。戦時中、日本の教会は、「あなたはキリストです」、この信仰告白に立ち続けることの困難を経験しました。19426月、ホーリネス系の教職者97人が治安維持法違反の疑いで全国で一斉に検挙されるという事件が起こりました。翌年4月に行われた第二次検挙を含めると合計124人が逮捕され、その内の何人かは獄中死を遂げました。彼らが逮捕された一番の理由は、再臨の教理にあったと言われています。やがてキリストは栄光の王として再びこの世界に来て、神の国を完成させる、その教理が国体、つまり天皇による統治を否定するものだとして逮捕されたのです。また、岐阜県にある美濃ミッションという教会では、教会学校の子どもたちが学校で行われた神社参拝を拒否した結果、教会自体が「非国民」「敵性宗教」として地域から大弾圧を受けたという事件もありました。

そんな中、他の多くの教会はどうしたか。迫害された教会をかばい、彼らと同じようにキリストのみへの信仰を貫こうとしたか。そうではありませんでした。むしろ多くの教会は、自分たちにまで迷惑がかかると言って迫害された教会を切り捨て、「天皇に頭を下げること、神社を参拝することはキリスト教的に何の問題もないことだ」と主張したのです。当時の政府が推し進めていた「神社非宗教論」(神社は宗教ではないという考え方)をそのまま受け入れたのです。同盟教団の教会も例外ではありません。多くの教会では、日曜礼拝のはじめに「宮城遥拝」(皇居の方向に向かって敬礼をすること)が行われ、君が代が歌われました。当時の週報の式次第を見ると、はっきりと書いてあります。もちろん教会はキリストへの信仰を捨てたわけではありませんでした。教会が生き延びるためにはそうするしかなかったのでしょう。苦渋の決断だったはずです。けれども今を生きる私たちは、それを「仕方がなかった」で終わらせてはいけません。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」、イエスさまの問いかけに対して、当時の教会は「あなたはキリストです」と胸を張って答えられたのだろうか、そのことを考えなければいけません。「いや、今は仕方なく宮城遥拝とか神社参拝をしていますけど、心の中ではあなただけがキリストだと信じていますよ」、そのような答えを果たしてイエスさまは喜ばれるでしょうか。

 

結:信仰告白に立ち続ける

私たちは、日本の教会が負っているこの過去の罪を決して忘れてはいけません。この罪は、決して当時の教会だけの罪ではなく、キリスト者誰しもが犯し得る罪です。今日の箇所では立派な信仰告白をした弟子たちも、いざイエスさまが捕まった時には、「わたしはその人を知らない」と、あっさりとその信仰告白を取り下げてしまいました。私たちは弱いのです。だからこそ、私たちは聖霊さまの助けを祈り求めていきたいと願います。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」、イエスさまの問いかけに対して、「あなたはキリストです」というシンプルな信仰を、どんな状況にあっても、言い訳することなく、胸を張って、大胆に告白していく。この信仰の告白の上に、教会は立ち続けていくのです。

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