ピリピ4:6-7「何も思い煩わないで」

 

今日は月に1回の年間目標に基づく説教ということで、ピリピ人への手紙4章を開いています。はじめに今年の年間聖句を皆さんで読みましょう。週報表面の一番上をご覧ください。「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記31:8)。「先立って進まれる主とともに」、この目標に関連してこれまで様々な御言葉に聴いてきましたが、今日私たちが注目したいのは年間聖句の最後の部分、「恐れてはならない。おののいてはならない」の部分です。先立って進まれる主とともに歩もうとする時、一番大きな障害になるのは、この「恐れ」と「おののき」です。あるいは違う言葉ですと、「心配事」「思い煩い」とも言うことができます。これがあると、私たちはどうしても尻込み、思考停止に陥り、それ以上前に進むことができなくなってしまいます。では私たちは「恐れ」「おののき」「心配事」「思い煩い」にどう立ち向かっていけばよいのか、今日はこのピリピ人への手紙の御言葉からともに考え、教えられていきたいと思います。

 

喜べない状況

このピリピ人への手紙はピリピというところにある教会に送られたパウロの手紙です。この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれることもありますが、その呼び名の通り、この手紙の中でパウロは繰り返し「いつも喜びなさい」と語っています。今日の箇所の直前にある4章4節でも「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」と、しつこいほどに「喜びなさい」と語られています。そういったこともあり、ピリピの教会と言えば、いつも喜びに溢れていて、みんな笑顔で過ごしている素晴らしい教会、そのようなイメージを私は以前もっていました。けれどもこの手紙をよく読んでいくと、実はそうではないということが見えてきます。どういうことか。「いつも喜びなさい」とパウロが繰り返し勧めているということは、喜ぶのが難しい、厳しい状況がそこにはあったということです。

実際にこの手紙を読んでいると、ピリピの教会の人々が抱えていた様々な心配の種が見えてきます。まずは、この教会を生み出したパウロ先生が投獄されてしまったということ。そのパウロ先生の身の回りのお世話をさせるために教会から派遣したエパフロディトという人が、パウロ先生のもとで大病を患ってしまったということ。また教会自体のことに関して言えば、外からは激しい迫害の手が迫っていること。そして内からは十字架の敵である偽教師が教会に分裂の危機をもたらしていること。心配の種だらけです。教会の人々は、この状況を一体どうしたものかと日々思い悩んでいたはずです。

 

思い煩うくらいなら…

けれどもパウロはそのような教会の状況をよく知りつつ、8節の冒頭でこう語ります。「何も思い煩ってはいけません」。これは、「思い煩い続けてはいけません」とも訳すことのできることばです。「たしかに思い煩いの種、心配の種はたくさんあるだろう。私はそれをよく知っている。しかし、それに振り回されてはいけない。思い煩うくらいなら、神に祈りなさい」。パウロはここでそう語っているのです。

「思い煩うくらいなら、神に祈りなさい」。ではそれは具体的にどういう意味かということが続きます。「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。「感謝をもってささげる祈りと願い」。とあります。しばしばこの箇所から、祈りにはまず感謝がなければいけないなど、祈りのルールのようなものが読み取られることがありますが、ここでパウロが言いたいのはそういうことではありません。もちろん感謝は重要ですけれども、ここでパウロが一番言いたいのは、「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ということ。思い煩いに対処する一番の方法は、それを神さまに知っていただくことだというのです。

 

神に知っていただく

そのように聞くと、「神さまは私たちがわざわざ打ち明けなくても、はじめからすべてをご存知なのではないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。それは確かにそうです。例えば、あの有名な山上の説教の中でイエスさまはこうおっしゃっています。「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです」(マタイ6:7)。神さまは私たちに必要なものをはじめからすべて知っておられる。だから心配するのをやめなさい。イエスさまはそう語りました。非常に美しい信仰です。この信仰をもちたい、キリスト者であれば誰しもがそう思うはずです。けれども現実の私たちはなかなかそうなれない、パウロはそのことをよく分かっていました。神さまは私たちの必要をすべて知っておられて、私たちの必要を必ず満たしてくださる。そのことを頭では分かっていても、どうしても明日のこと、将来のことを心配してしまう。思い煩ってしまう。それが私たち人間の弱さです。

しかし神さまはそんな私たちを、「信仰の弱い者」と言って切り捨てることはなさいませんでした。信仰の弱い私たちを助けるために、「祈り」を与えてくださいました。そしてその「祈り」を通して、神さまは私たちのすべてをご存知でおられるということを教えてくださるのです。これは、私たちが誰かに悩みを相談するときのことを思い浮かべるとよく分かります。人に悩みを相談するとき、私たちは何を第一に求めるでしょうか。問題の解決ということはたしかにあります。けれどもそれ以上に私たちが求めるのは、自分の悩みが理解されることではないでしょうか。私たちは、自分を理解し、ありのままの自分を受け止めてくれる存在を求めている。

私は小さい頃から人に悩みを打ち明けるのが苦手で、誰かに悩みを打ち明けるということをほとんどしてきませんでした。けれども大学時代に出会った一人の友人には不思議と、自分の思っていること、悩んでいることを正直に打ち明けることができました。一体なぜだろうと考えたのですが、それは彼が私のことを何でも理解してくれたからだったと思うのです。言葉がうまく出ず、まとまりのない話になっても、「あぁ、こういうことが言いたいんだね。分かるよ」と、私が言いたかったことをしっかり理解してくれる。「一」言えば「十」理解してくれると言うと言い過ぎになりますが、とにかく自分の悩み、思い煩いを受け止め、理解してくれた。すると、心の中に何とも言えない安心感が湧いてくるのです。自分を理解してくれる存在がいる、これは私たちにとってとても大きなことではないでしょうか。

ましてやここで相手は全知全能の神さまです。人間の比ではありません。自分のことで頭がいっぱいいっぱいになり、心が思い煩いに満ちていても、神さまの前に出て、神さまに自分の思いのすべてを打ち明けるなかで、私たちは生ける神さまに出会います。言葉では説明し尽くすことのできない神秘です。私たちは生ける神さまの声を聴きます。そして、「あぁ、やっぱり神さまは私の思い煩いの一切をご存知でおられた」、そのことに目が開かれるのです。人は誰も理解してくれないかもしれない。人にはこんなに無様な姿、情けない姿を見せられないかもしれない。けれども神さまはどんなことがあっても、ありのままの私を受け止め、すべてを理解してくださる。自分を完全に理解してくださるお方がいる、それだけで生きるのがどれだけ楽になることでしょうか。

 

神の平安

そしてそれだけではありません。7節「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。神さまは私たちのすべてを理解してくださるだけではない。全知全能の創造主であられる神さまは、私たちの理解を遥かに超える方法で最善をなしてくださる。私たちの心と思いをあらゆる思い煩いから守り、平安をもたらしてくださる。それは時に、私たちが思い描いていたような解決ではないかもしれません。周りからすれば何も解決していないよう見えることがあるかもしれません。けれども、人間が思い描くことではない、神さまがなしてくださること、それこそが最善なのだ、この視点の転換を、神さまは祈りを通して与えてくださるのです。すべては神さまの御手の中にある。だから私たちは安心してこの世界を生きていい。それこそが、祈りを通して与えられる神の平安です。

思い煩いに対処する方法は「祈り」。そして思い煩いへの解決は、祈りを通して注がれる「神の平安」。だから思い煩うくらいなら祈りなさい、それが神さまから私たちへの招きです。たとえ思い煩いの種が満ちていようと、キリストに繋がっている私たちは、思い煩わなくてもよい世界に生かされている。思い煩う必要のない世界に生かされている。日々祈りを通して、この素晴らしい恵みを受け取っていきましょう。

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