ローマ14:7-9「私たちは主のもの」

 序:古い価値観?

今日は先程朗読された聖書のことばを通して、イエス・キリストを信じるクリスチャンは何を確信して生きているのか、そしてすでに天に召された私たちの信仰の先輩方は、何を確信して天に召されていったのかについてお話しします。

聖書にはこうあります。「私たちは、生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」。「主のために生き、主のために死ぬ」。大層なことばだと思われるかもしれません。現代社会では忌み嫌われる考え方かもしれません。これと似たような考え方は、日本の歴史を振り返っても多く存在してきました。江戸時代であれば、「お殿様のために生き、死ぬ」。戦中であれば「天皇陛下、あるいはお国のために生き、死ぬ」。高度経済成長期であれば「会社のために生き、死ぬ」。日本人の美徳として存在していた考え方です。けれどもその考え方の中で、多くの犠牲が生まれてきました。集団のために、より大きな存在のために犠牲にされる個。捨て駒のように扱われ、命を落とした人々。そのような考え方への反省から、現代社会では「個」、自分のために生きるということが尊重されるようになってきています。

けれどもそのような時代にあっても、聖書は変わらず語り続けます。「私たちは、生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます」。「なんだ、キリスト教も結局は古い価値観から脱却できていないじゃないか」、そう思われるかもしれません。しかしたとえそのように思われたとしても、「少し待ってください」と私は言いたい。この聖書のことばは、「古い価値観」と一蹴されるようなものではない。時代を超えて私たちに語りかける本物のことばなのだということをお伝えしたいと思います。

 

二つの生き方

まず目を留めたいのは、このことばは命令ではないということです。「あなたは主のために生き、死になさい」という命令ではない。そうではなく、「主のために生き、主のために死ぬ」、キリストを信じる者の歩みはそういうものなのだと説明しているのです。「決意の表れ」とも受け取ることができます。

そこで対比されているのは、「自分のために生き、自分のために死ぬ」歩みです。自分のために生き、自分のために死ぬ。何にも支配されない。自分の生き方、あるいは死に方を決めるのは自分自身。最終的に頼れるのは自分だけだから、自分だけを信じて生き、死ぬ。とても強い考え方です。一本の筋が通っている。今の社会ではこのような生き方が人からの賞賛を集めるのかもしれません。

しかし、聖書はこう言います。7節「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです」。ここで言う「私たち」とは、キリストを主と信じる者、キリスト者のことです。「自分のために生き、自分のために死ぬ」、キリスト者はそのような生き方はしないと言うのです。そうではなく、「主のために生き、主のために死ぬ」、これこそがキリスト者の生き方だ。聖書はそう語ります。

「主のために生き、主のために死ぬ」。このことばは「主へと生き、主へと死ぬ」と訳すこともできます。生きている時も、死ぬ時も、主に向かって進んでいく。主の方向を向いて生き、死んでいく。8節の後半は、それを別のことばで、「主のもの」として生きる、あるいは「主のもの」として死ぬ歩みだと語っています。キリスト者は自分の人生を自分自身のものとして生き、死んでいくのではない。自分の人生は主のもの、神さまの手の中にあることを信じ、歩んでいくということです。

 

主の御手の中で

自分の人生は神さまの手の中にあると言うと、恐ろしく思われる方がいらっしゃるかもしれません。私たちの人生は結局、神の手の平で踊らされているだけなのだ、そのようなイメージです。あるいは冒頭でお話ししたような、より大きな存在、国や会社のために個人が犠牲にされていく、キリスト教の神も結局同じなのか、そのように思われるかもしれません。しかし、そうではないと聖書は語ります。9節「キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです」。神さまはご自身の好き勝手のために人間を犠牲にして利用するお方ではありません。むしろその逆、私たちが神さまのために生き、死ぬ以前に、まず神さまの方がイエス・キリストにおいて、私たちを救うために死んで、よみがえってくださったのです。生まれつき悪の支配のもとにいた私たち、悪の奴隷だった私たちを救い出すために、イエス・キリストはこの世界に来られて、十字架の上で私たちの罪を全て背負い、私たちが悪に対して負っていた負債を全て支払い、神さまの愛の支配のもとへと移してくださった。「主のもの」としてくださった。そして、私たちがもう悪に脅かされることがないように、悪を討ち滅ぼし、死からよみがえられた。神さまご自身が私たちを救うために死んでよみがえられた。そうまでして私たちを愛し、救おうとしてくださった神さまの手の中で生かされている。神さまのものとされている。それを知った者は、自分のために生きることをやめます。「私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます」。強制されてではなく、命令されてでもなく、神さまの愛に突き動かされて、自ずとこの信仰の告白へと導かれていくのです。

 

ただ一つの慰め

最後に一つ、皆さんに紹介したいことばがあります。16世紀、宗教改革の時代のドイツで書かれた「ハイデルベルク信仰問答」という文書の中の一節です。この文書は今でも世界中の教会で愛され、用いられているものです。「信仰問答」とあるように、この文書は問と答が順に並べられているのですが、その一番はじめの問と答えをお読みします。

 

生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。…

 

「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」。この「慰め」というのは、一時的な気休めでも、痛みを和らげる鎮痛剤のようなものでもありません。「ただ一つの慰め」とあるように、私たちの人生の確かな拠り所になるものです。加えて、「生きるにも死ぬにも」とあります。生きている時は慰めになるけど、死に際になったら何の役に立たないものではありません。逆に、死に際の時だけの慰めで、元気に生きている間はどうでもいいものでもありません。生きている時でも、死に向かっている時でも、確かな慰め、確かな拠り所として私たちが握ることができるもの。それは、「わたしがイエス・キリストのものであること」だと言うのです。

今日お配りしている召天者リストに載っている信仰の先輩方は、「わたしはイエス・キリストのものである」、この一点を拠り所にし、確信をもって神さまのもとへと召されていきました。「この地上のどんな痛みも苦しみも、そして死さえも、私をキリストの愛から引き離すことはできない。私は死んでもなお、神さまの愛の手の中で生き続けることができる。生きるにも死ぬにも、私は主のものなのだ」。これが、キリスト者の確信です。この揺るがない確信をもって、この地上を生き、やがては天に召されていく。これほど幸いな人生があるでしょうか。

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