マルコ8:22-26「はっきりと見えるように」

 序:聖書の読み方

みなさんは聖書を読むときにどんなことを大切にされているでしょうか。祈りをもって読み始めること、姿勢を正して読むこと、じっくり一つひとつのことばを丁寧に追っていくこと、色々とあると思います。その中で今日私たちが大切にしたいのは、文脈に注目するということです。聖書の解釈に関してよく言われることで、英語ですけれども、 “Context is King” というものがあります。 “Context” とは「文脈」のことですが、「文脈が王様である」、つまり聖書を解釈するときには文脈を読むことが非常に大切なのだということです。たとえば分かりやすい例を挙げますと、創世記3章6節にはこのようなことばがあります。「女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた」。この文章だけを読むのであれば、「へー、そうなんだ」だけで終わってしまうと思います。あるいは、「この文章は、夫婦間で食べ物を分け合うことを教えている」という解釈をする人が出てくるかもしれません。けれどもこの文章をその文脈の中で読むとどうなるか。夫婦が食べた実は、実は神さまが食べることを禁じたもので、夫婦はそれを食べることによって蛇の誘惑に屈してしまったということが分かるわけです。このように、その文脈を見ることによって、その文章、あるいは出来事がもっている本来の意味をはじめて理解することができる。逆に文脈を見なければ、自分の好きなようにその箇所を読めてしまう。場合によっては、先程のようにとんでもない解釈をしてしまう可能性がある。ですから「文脈が王様」ということが言われるわけです。

 

霊の目が開かれる

少し前置きが長くなりましたが、今日私たちが開いている箇所は、まさにその「文脈」がとても重要になってくる箇所です。先週の説教の後半で少しだけ触れましたが、今日改めて確認したいと思います。今日の箇所だけを抜き取って読むのであれば、この物語は福音書によく出てくるイエスさまの癒しの奇跡の中の一つとして理解できます。けれどもその文脈を見るとどうでしょうか。この前の箇所には、イエスさまがキリストであることを一向に悟らない弟子たちの姿が描かれています。「目があっても見ない、耳があっても聞かない」、それが弟子たちの現状でした。しかし今日の箇所の後の文脈を見るとどうか。29節でイエスさまが弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねると、ペテロは見事「あなたはキリストです」という信仰の告白を口にするのです。弟子たちの無理解から信仰告白へ、その間にあるのが、目の見えない人の目が見えるようになるというイエスさまの奇跡です。これは何を意味しているかというと、今日の箇所の奇跡は、単なる数多くの奇跡の中の一つである以上に、固く閉じられていた弟子たちの霊の目がイエスさまによって開かれるという象徴的な意味ももっているということです。弟子たちの心の頑なさは、自分たちだけで解決できるものではありませんでした。彼らにはイエスさまの助けが、奇跡が必要だったのです。イエスさまによって霊の目が開かれてはじめて、弟子たちは救い主キリストなるイエスさまのお姿を見ることができたのです。

 

リアルな描写

それにしても今日の箇所は色々な点で興味深い出来事です。何よりも印象的なのは、この出来事の何とも言えない「リアルさ」「生々しさ」ではないでしょうか。まずはこの、唾を両目につけるという方法。今の私たちからしたら少し「うげっ」と思いますけれども、当時の人々からすればこのような治療方法はあり得るものだったようです。そして唾をつけた上に両手を当て、「何が見えますか」と聞くイエスさま。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と答える男。おそらくまだぼんやりとしか見えていなかったのでしょう。すると再び両手を両目に当てるイエスさま。そして男がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。非常にリアルな描写です。目の見えない人とイエスさまのやり取りの細かい部分まで記されています。

けれどもそこで疑問が湧いてきます。なぜイエスさまはここまで手間をかけてこの男を癒したのかということです。これまで何度も見てきたように、イエスさまはその気になれば相手に触れずとも、ことば一つで、あるいはことばなくても、その思い、意志一つで人を癒すことのできるお方です。それをなぜ今回、ここまで懇切丁寧に男と関わりをもたれたのか。しかも一回触れて完全に癒せばいいところを、二回も触れている。二段構えの癒しです。イエスさまですから、「一回目はちょっと失敗したから、もう一回トライさせて」ということではないのは明らかです。一体なぜイエスさまはここまで丁寧に時間をかけて癒しのみわざをなされたのか。

 

イエスさまとの触れ合い

私たちはここに、イエスさまがどういうお方であるのかを見ることができます。ことば一つでポンと癒すのではなく、この男を外に連れ出し、一対一で関わり、患部に直接手を触れて、「何が見えますか」と優しくことばをかけたイエスさま。イエスさまはここでこの男と徹底的に関わろうとされたのです。人をアッと驚かせるような一発ものの「神業」によってではなく、深い人格的な触れ合いの中で男の目を開こうとされた。これが私たちの主イエス・キリストです。そして、その御業は一回きりではありませんでした。イエスさまは男の目が完全に開かれるまで、とことん彼と関わり続けたのです。それは弟子たちに対しても同じでした。先週もお話ししましたが、29節の信仰告白の直後に早速ペテロが叱られているように、弟子たちの目は一発で完全に開かれたわけではありませんでした。弟子たちの目がキリスト・イエスのお姿をしっかりと捉えられるようになったのは、十字架と復活の後のことです。この時点で弟子たちはまだイエスさまのお姿をぼんやりとしか捉えられていませんでした。けれどもイエスさまはそんな弟子たちを見捨てず、徹底的にとことん彼らと関わりました。深い人格的な交わりの中でご自身のキリストとしてのお姿を示していきました。イエスさまの大きな愛と豊かな憐れみがここにあります。

そしてそれは私たちに対しても同じです。自分がどのようにしてイエスさまに対して目が開かれていったか、それぞれ思い起こしてみてください。そこには、イエスさまとの深い人格的な触れ合いがあったはずです。私たちを決して諦めない、私たちと徹底的に、とことん関わり続けてくださるイエスさまのお姿がそこにはあったはずです。

私自身もそうでした。私はクリスチャンホーム生まれで、小さい頃から聖書の話をたくさん聞いてきましたが、最初に神さまに対して目が開かれるという経験をしたのは、小学校4年生の頃でした。ふとしたことで友だちを怒らせてしまい、なかなか許してもらえないなか、生まれて初めて本気で神さまに祈りました。「神さま、どうかあの友だちと仲直りできるようにしてください」、必死に祈りました。すると、祈りが聞かれたのです。この出来事を通して、「あぁ、神さまは本当にいるんだ!」と、頭だけでなく心ではじめて実感することができました。神さまに対して目が開かれる経験をしたのです。ただもちろん、それで神さまのすべてを知ったわけではありませんでした。それはまだぼんやりとしたものでした。むしろそこから、神さまに対して目が開かれ続けていく歩みが始まったのです。その後も私は、神さまに対して目が開かれるという経験を何度もしてきています。その多くは、困難にある時です。自分の周りを暗闇が覆っているような、そんな思いをしている時、イエスさまは私の手を取り、心の奥深くに触れてくださり、ことばをかけてくださる。多くの場合、困難はすぐには解決されません。あるいは、問題自体は解決しないこともあります。けれどもイエスさまはその中にあって、懇切丁寧に、とことん私に関わり、私とともに歩んでくださるのです。そのイエスさまとの関わりの中で、これまで見えてこなかったものが見えるようになっていきます。問題の解決だけでなく、問題の解決以上に素晴らしいもの、変わらない神さまの愛が、神さまの大きなご計画が見えてくるようになるのです。イエスさまとの深い関わりの中で、神さまに対して目が開かれていく、これほど幸せな経験はないということを今も実感しています。

 

完全に知る時

神さまに対して目が開かれ続けていく。それがキリスト者の歩みです。その歩みの中で私たちは少しずつ神さまのことが見えるようになっていきます。そして神さまのことが見えるようになってくるということは、神さまが造られたこの世界のことが、自分自身のことが見えるようになってくるということです。そしてやがて、完成した神の国で神さまにお会いする時、私たちの目は完全に開かれるようになります。パウロはこのように語っています。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」(1コリ13:12)。顔と顔を合わせて、神さまを完全に知るようになる。その時を私たちは待ち望んでいきたいと願います。そしてその途上に私たちは今あることをおぼえつつ、霊の目を開いていただき、新しい神さまの一面を日々知り続けていきたいと願います。

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