マルコ8:14-21「まだ悟らないのですか」

 

まだ悟らないのですか」。前回の箇所に引き続き、今回の箇所も厳しいイエスさまのことばで閉じられています。しかも17-18節「まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか」。「イエスさま、そこまで言いますか」と言いたくなるほどに、弟子たちに対して厳しいことばで迫っておられる今日のイエスさま。「一体なぜそこまで」、私たちは思うかもしれませんが、今日の箇所の弟子たちを見ていると、イエスさまがなぜそこまで厳しいことばを発せられたのかが分かってきます。

 

弟子たちの滑稽さ

14-15節「弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、一つのパンのほかは、舟の中に持ち合わせがなかった。そのとき、イエスは彼らに命じられた。『パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい』」。場所は舟の中です。イエスさまと弟子たち、最低13人はいたかと思いますが、食べるパンは一つしかない。その中、イエスさま突如「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」の話を始めます。イエスさまお得意の謎に満ちたたとえ話です。ここでイエスさまは具体的に何を指して「くれぐれも気をつけなさい」と言われたのか、説明はありませんので、正確なところは分かりません。おそらく弟子たちも分からなかったことでしょう。「またイエスさまがよく分からないことを言い出したぞ」、弟子たちはざわついたかもしれません。けれどももしそこで誰かが、「イエスさま、それは一体どういう意味ですか」と尋ねていれば、ことは違ったでしょう。おそらくイエスさまは「これはこういう意味だよ」と、さらに説明をしてくれたはずです。

しかし実際の弟子たちはどうしたか。16節「すると弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて、互いに議論し始めた」。「いや、そこかい」とツッコみたくなるような、全く的外れな議論を始めた弟子たち。おそらくイエスさまが「パン種」と言ったのを聞いて、よく意味が分からないながらも、「きっとイエスさまはここにパンが1個しかないのを怒っているんだろう」と思い、お互いに責任の追求を始め、どうしようかと相談を始めた。そんな場面が想像できます。たしかにパンが1個しかないのは問題です。例えばですが、私たちの教会でどこか山奥にウォーキングに行ったとして、担当者がお弁当を一つしかもっていきていないということが分かったら、おそらく私たちは慌てると思うのです。そう考えると、弟子たちがパンがないと騒ぎ出した理由は分からなくもないと思います。

 

イエスさまの迫り

けれどもイエスさまは、そこに大きな問題を見出しました。17-21節をもう一度お読みします。弟子たちに激しく迫るイエスさまの様子を想像しながらお聞きください。「イエスはそれに気づいて言われた。『なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。』彼らは答えた。『十二です。』『四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。』彼らは答えた。『七つです。』イエスは言われた。『まだ悟らないのですか。』」イエスさまがここで仰っているのは、食べ物のことなどどうでもいいということではありません。「パンが一つしかないのはたしかに問題だ。しかしなぜあなたたちはそれを巡って議論をしているのか。五千人の給食と四千人の給食、二度に渡ってあなたたちはわたしの奇跡を目の当たりにしているじゃないか。どうしてそこから学ぼうとしないのか。『イエスさまなら何とかできるだろう』と少しでも思いはしないのか。まだ悟らないのか」。ここでイエスさまが仰っているのはそういうことです。しかも注目したいのは18節、ここでイエスさまは「目があっても見えないのですか」「耳があっても聞こえないのですか」ではなく、「目があっても見ないのですか」「耳があっても聞かないのですか」と仰っている。弟子たちはそもそもメシヤとしてのイエスさまのお姿を見ようともしていなかったし、聞こうともしていなかったということが明らかにされています。

ある人はこの出来事を教師と生徒の関係に例えていました。ある教師が生徒を教えている。視覚教材もたくさん使いながら、繰り返し工夫して丁寧に何度も教えている。けれども、生徒は一向に理解しない。いや、理解しないどころか、いつも授業中そっぽを向いてよそごとをしている。そもそも学ぼうとしていない。教師はどう思うでしょうか。むなしさ、悲しみ、怒り。教師が感じるのは当然です。今日の箇所で起こっているのはそれと同じことだと言えます。

 

弟子たちの心の頑なさ

そしてさらに問題なのは、これがイエスさまの弟子たちであるということです。今日の前の箇所、11-13節で、イエスさまは「しるし」を一向に受け入れず、イエスさまを認めようとしないパリサイ人たちに対して、その心の頑なさを指摘し、彼らに向けて厳しいことばを発せられました。それに続く今日の箇所。弟子たちはまだマシかと思いきや、その心の頑なさは、霊的な鈍さはパリサイ人たちと何ら変わりがないということが明らかにされます。しかも18節でイエスさまが仰っていることは、実は旧約聖書のイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書からの引用になっています。旧約の時代、その重い罪のゆえに捕囚という神さまの裁きが与えられたイスラエルの民に対するのと同じことばが、イエスさまの弟子たちに向けて語られている。これは恐るべきことです。そこまでひどいのか、私たちは驚きをおぼえます。

ここから私たちがおぼえたいのは、イエスさまの近くにいるからといって、イエスさまのことがよく分かっているとは限らないということです。24時間365日イエスさまと行動を共にしていた弟子たちがこうだったのですから、私たちはなおさらです。信仰生活がいくら長かろうと、クリスチャンホーム生まれであろうと、教会の集会・行事に全参加していようと、牧師・伝道師であろうと、神学生であろうと、イエスさまの大事なこと、本質的なことは何も分かっていない、そういうことがあり得るということです。イエスさまの近くにいる人が、実は一番遠いところにいる、そういうことがあり得るのです。すべては、私たち人間の心の頑なさ、霊的な鈍さ故です。その現実を私たちはまず受け止めたいと思います。

 

決して見捨てない

では私たちはどうすればいいのか。ただ自分の霊的な鈍さを嘆き悲しむしかないのか。そうではありません。注目したいのは21節「まだ悟らないのか」ということばです。この「まだ」ということばに私たちの希望があります。パリサイ人たちの場合、前の13節に「イエスは彼らから離れ」とあるように、もう手のつけられないほど心が頑なになってしまった彼らを、イエスさまはある意味諦めて行かれました。けれどもイエスさまは弟子たちに対しては「まだ」と言われたのです。弟子たちにはまだ可能性がある。それは彼らがパリサイ人たちより優れているからではありません。イエスさまが彼らを選び、彼らがイエスさまに従ったからです。イエスさまはご自身が選んだ者、そしてご自身に従おうとする者を決して見捨てることはなさいません。いくら心が頑なであろうと、霊的に鈍かろうと、必ず最後まで面倒を見てくださるのです。

そう考えると、今日のイエスさまの厳しいことばは単なる怒りのことばではないことが分かります。「まだ分からないのか、悟らないのか、心を頑なにしているのか、目があっても見ないのか、耳があっても聞かないのか、覚えていないのか」、一気に迫ることによって、イエスさまは弟子たちの固く閉ざされた霊の目を今ここで開こうとされているのです。そしてその結果はこの後の文脈を見れば分かります。22-26節では目の見えない人の目が開かれる奇跡が記されていますが、これは単なる奇跡ではなく、弟子たちの霊の目がイエスさまによって開かれていくということを表しています。そして続く27-30節で、弟子たちはついに、「あなたはキリストです」(29節)という信仰の告白に至るのです。なんと驚くべきことでしょうか。もちろん、彼らの信仰告白は決して完全なものではありませんでした。続く32-33節でペテロは早速イエスさまに叱られていますし、マルコの福音書は終わりまで弟子たちの無理解、弱さをここまでかと思えるほどに描き出しています。彼らは生涯を通してイエスさまに対して目が開かれるという出来事を何度も経験したことでしょう。彼らはその人生を通して、救い主イエス・キリストを知り続けていったのです。

 

イエスさまを知り続ける歩み

私たちも同じです。キリスト者の人生は、救い主イエス・キリストを知り続ける旅路です。出会った瞬間からイエスさまのことがすべて分かる人はいません。私たちはたくさん失敗をします。イエスさまに悲しい思いをさせたり、叱られたりすることもあるかもしれません。全然成長できない自分にがっかりすることもあるでしょう。しかし大事なのは、イエスさまは決してご自身が選んだ者、ご自身に従おうとしている者を見捨てないということです。私たちの霊の目がどれだけ鈍かろうと、何度失敗を犯そうと、辛抱強く私たちの傍らにいて、私たちとともに歩み続けてくださいます。そしてふさわしいタイミングで私たちに迫り、私たちの固く閉ざされた霊の目を開き、頑なな心をほぐし、新たな信仰の告白へと導いてくださるのです。私たちの人生はその繰り返しです。その繰り返しの中で、少しずつ救い主イエス・キリストのことが分かっていく。その偉大な御力、あふれるほどの愛、豊かな憐れみを私たちは日々新たに知り続けていくのです。そしてやがて天の御国で、イエスさまと顔と顔を合わせ、イエスさまを完全に知る日を心待ちにしていく。これほど幸いな人生があるでしょうか。

「まだ悟らないのですか」。このイエスさまの叱咤激励のおことばに応えて、ともに歩んでくださるイエスさまを知り続ける歩みを送っていきたいと願います。

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