出エジプト記13:21-22「雲の柱・火の柱」

6月が終わり、2021年も半分が過ぎました。この2021年、私たちは「先立って進まれる主とともに」という目標を掲げて、教会の歩みを進めています。せっかくですので、今日ははじめに年間聖句をみなさんで声を揃えて読みたいと思います。週報の表面の上の方に書いてありますので、そちらをご覧ください。「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない」(申命記31:8)。

今日は7月の第1主日ですので、この年間目標に関連するみことばにともに聴いていきましょう。今朝開かれているのは出エジプト記1321-22節、エジプトの地で奴隷となっていたイスラエルの民が、神さまの偉大な奇跡によってエジプトの圧政から解放され、約束の地を目指して進み出したという箇所です。もう一度お読みします。「主は、昼は途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった」。聖書物語でも有名な「雲の柱」と「火の柱」が出てきます。私たちのイメージに強く残る、印象的な場面です。昼は雲の柱、夜は火の柱と、その時々に一番相応しい方法で神さまは民を導かれた。また他の箇所を見ると、イスラエルの民は雲が上るのを毎回の出発の合図にしていたということも書いてあります。イスラエルの民は約束の地に入るまでの間ずっと、自分たちに先立って進んでいく雲の柱と火の柱に導かれながら、旅を続けていったのです。

 

神さまの臨在

ここでまず確認したいのは、この雲の柱と火の柱というのは、単なる物質としての「雲」、あるいは単なる物質としての「火」ではないということです。どういうことでしょうか。21節に「主は…雲の柱の中に、…火の柱の中にいて」とあるように、雲の柱・火の柱というのは、神さまご自身がそこにおられるということ(これを「臨在」といいますが)の「しるし」だったわけです。実際に聖書の中で「雲」や「火」という言葉が使われている箇所を見ていくと、多くの場合、この二つは神さまのご臨在、そして栄光の象徴として使われています。例えばソロモンが神殿を完成させた時、神殿は雲で包まれましたが、それは神殿に神さまの臨在が満ちたということを象徴的に表しています。つまりイスラエルの民は、昼は雲の柱、夜は火の柱を見るたびに、「あぁ、神さまは目には見えないけれど、たしかに私たちとともにいて、私たちを導いてくださっている」ということをその目で確認することができたのです。そしてこの次の14章を見ると、エジプト軍が後ろから追いかけてきた時には、雲の柱が後ろに移動して、エジプト軍の攻撃を阻んだという出来事が書いてありますが、これも、神さまご自身がエジプトの攻撃からイスラエルの民を守ってくださったということを表しているわけです。

 

うらやましい・・・?

この出来事について読みながら、みなさんはどのように思われるでしょうか。私は正直、「うらやましいな」と感じました。神さまご自身が、私たちの目にはっきりと見える形で導いてくださる、これほど心強いことはありません。何か大きな決断をする時、どちらに進めばいいのか自信がもてない時、目の前に雲の柱・火の柱が現れて「こっちだよ」と目に見える形で示してくれたら、どんなにありがたいだろうか。そう思ってしまうわけです。みなさんはいかがでしょうか。

また、このように問うこともできます。聖書は「神さまご自身が先立って進んでくださる」と言うけれども、それは今を生きる私たちにとって、具体的に何を意味しているのだろうか。今日の箇所のイスラエルの民のように、雲の柱・火の柱が目に見える形で現れるわけではありません。もちろん時として何か目に見えるしるしが示されることもあるかもしれませんが、多くの場合、私たちは神さまの導きをこの目ではっきりと見ることはできないのではないでしょうか。だから私たちは悩むわけです。一体神さまは私たちをどこへ導こうとされているのか。神さまは何を願っておられるのか。はっきりと私たちにも分かるように示してほしい。その点、雲の柱と火の柱を示したりなんかして、神さまはイスラエルの民に少し甘いんじゃないか。うらやましい。いいなぁ。私の正直な思いです。

 

旧約聖書の限界

けれどもよくよく考えていくと、この雲の柱と火の柱は、神さまの豊かな導きを現しているのと同時に、神さまとイスラエルの民の関係性の限界も実は指し示しているということが分かってきます。どういうことか。イスラエルの民は決して自分たちを導いてくれる神さまを直接見たり、神さまと直接話したりすることは許されなかったのです。それが許されたのは、モーセただ一人でした。モーセ以外の民は、神さまがあまりにも聖なるお方であるがために、神さまを直接見たら死ぬとまで言われていました。ですから、イスラエルの民はあくまでも雲の柱と火の柱という神さまの臨在の「しるし」を通してでしか、神さまと関わることができなかったのです。時代劇などでよく見るように、家臣は簾を通してでしかお殿様の前に出ることができなかったのと似ています。聖なる神さまと罪にまみれた人間、その間には決定的な断裂、超えられない溝があったのです。

 

聖霊の内住

では、今の私たちはどうでしょうか。今の私たちには、雲の柱や火の柱は与えられていません。目にはっきり見える形で神さまの導きが与えられることはなかなかないかもしれません。けれども私たちには、旧約の時代のイスラエルの民は決して経験することのできなかった、決定的な恵みが与えられています。その恵みとは何でしょうか。私たちの内に住んでおられる、聖霊さまの存在です。あのペンテコステの日、キリストを主と信じる者に天から火が降って、神さまご自身が私たちの内に住んでくださるようになった。雲の柱や火の柱を通してではなく、神さまご自身が直接、私たちの内にあって導いてくださるようになったのです。

この大きな恵みについて語っている新約聖書の箇所をともに開きましょう。ヨハネの福音書1613節です(新218)。「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます」。ここで言う「真理」は、そのまま「キリスト」と言い換えてもいいかもしれません。聖霊さまは私たちの内にあって、私たちをキリストへと導いてくださる。しかもここにはその方法も書かれています。13節後半「御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます」。「聞いたこと」というのは、イエスさまがすでに語られたこと、イエスさまのみことばのことです。そして「これから起こること」というのは未来のことではなくて、この16章の後に起こる十字架と復活の出来事を指しています。聖霊さまは何か突拍子もない新しいことを語るのではありません。聖書に記されているキリストのみことばを通して、私たちをキリストのもとへと導いてくださいます。聖霊さまがいるからこそ、私たちは聖書のことばを通して、キリストのことを知り、神さまのみこころを知り、私たちの進むべき道を知ることができるのです。

 

聖霊との二人三脚

私たちの内に住んでおられる聖霊さまとともに歩む祝福。これは聖霊さまとの二人三脚にたとえることができます。聖霊さまと足を紐で結んで、肩を組んで、約束の地、神の国の完成を目指して進んでいる私たち。時には聖霊さまと足並みが揃わず、救いの道から外れてしまいそうになることがあるかもしれません。自分勝手に動いて、足がもつれ、転んでしまいそうになることがあるかもしれません。けれども、私たちの横におられる聖霊さまは、決して私たちを見捨てません。見捨てるどころか、転びそうになっている私たちの肩をガッチリと掴み、「しっかりしろ」と励ましの声をかけてくださいます。道を外れそうになっている私たちに向かって、「こっちだよ」と肩を引き寄せてくださいます。出エジプトの時、神さまが昼は雲の柱、夜は火の柱と、その時々に一番相応しい方法で民を導かれたように、私たちのことも、その時々にいちばんふさわしい方法で、一番ふさわしいペース、一番ふさわしい掛け声で導いてくださいます。そして、「雲の柱と火の柱が民の前を離れることはなかった」とあるように、どんな時も私たちを離れずに、この生涯をともに歩んでくださるのです。なんという祝福、なんという恵みでしょうか。

この後、516番「主にすがるわれに」をともに歌います。「主にすがる我に悩みはなし。十字架のみもとに荷を降ろせば。歌いつつ歩まん、ハレルヤ、ハレルヤ。歌いつつ歩まん、この世の旅路を」。二人三脚でともに進んでくださる主の恵みに感謝しつつ、ハレルヤ、ハレルヤと、主を賛美するこの世の旅路を歩んでまいりましょう。

このブログの人気の投稿

マルコ14:27-31「羊飼いイエス」

コロサイ3:1-4「上にあるものを思う」(使徒信条No.7)

マルコ8:11-13「十字架のしるし」