マルコ8:1-10「たとえわずかであっても」

 

今日開かれているのは、一般的に「四千人の給食」と呼ばれる箇所です。七つのパンと少しの小魚で四千人が満腹になり、余りのパン切れを集めると七つのかごになった。「あれ、こんな感じの話前にも聞いたことあるぞ」とみなさん思われることでしょう。たしかにそうです。3月の中旬に説教をしましたが、マルコの福音書632-44節にも似たような、いや、ほぼ同じような話が書いてあります。ただしそこでは数字が違いまして、五つのパンと二匹の魚で五千人の男を養ったとあります。おそらくエピソードとしてはそちらの方が有名だと思います。しかも、前回は五つのパンと二匹の魚で男五千人(女子どもを合わせたらもっとだったでしょう)だったのに対し、今回は七つのパンと少しの小魚で四千人(男だけとはないので、おそらく男女子ども合わせて)。単純に数字だけを比べると、前回の奇跡よりも少々見劣りするような感じがします。しかも前回の「五千人の給食」は四つの福音書すべてに記されているのに対して、今回の「四千人の給食」はマタイとマルコにしか記されていません。本来はすごい奇跡であるはずが、「五千人の給食」の影に隠れてしまっている。どこか地味で、二番煎じのような感じがする。少なくとも私はそのような印象をもっていました。

けれどもこの「四千人の給食」の物語、前後の文脈も含めてよく読んでいくと、「五千人の給食」にはない、この物語固有のメッセージ、意図が込められていることが分かってきます。著者のマルコは明らかに意図をもって、この似通った二つの物語を順番に記しているのです。

 

異邦人への福音の広がり

ではその意図とは何か。一つ目は、異邦人への福音の広がりです。この「四千人の給食」の物語は伝統的に、異邦人への福音の広がりを表す物語として読まれてきました。どういうことか。今日の箇所には明確に書かれていませんが、この前の箇所、731節を見ると、この「四千人の給食」の物語の舞台はガリラヤ湖近くのデカポリス地方の周辺であることが分かります。このデカポリス地方というのはヨルダン川の東側の地方で、主に異邦人、ユダヤ人ではない外国人が住んでいる地方でした(気になる方は聖書の巻末にある地図を見てください)。ですので、今日の箇所でイエスさまのもとに集まっている群衆の多くはユダヤ人ではなく異邦人だったと考えられます。イエスさまがパンをもって異邦人を養う。そこで思い出されるエピソードはないでしょうか。そうです、この前の724-29節に記されている、シリア・フェニキア生まれの女性のエピソードです。そこで女性は、「イエスさまはまず『子どもたち』、ユダヤ人を満腹にさせなければいけない、それはそうだけれども、『食卓の下の小犬』である異邦人もそのパン屑にあずかれるでしょう」と迫り、イエスさまからの祝福を勝ち取りました。それに続く今日の「四千人の給食」のエピソード。前回の「五千人の給食」ではユダヤ人が満腹になりましたけれども、今回は異邦人である群衆が、イエスさまのパンで養われている。パン屑どころではない、満腹になるほどの豊かなパン、神さまの祝福に異邦人はあずかっているのです。まさしくシリア・フェニキア生まれの女性の言ったこと、いや、それ以上のことが、異邦人への神さまの祝福が現実になっている。それがこの箇所に込められている一つ目のメッセージです。

 

弟子たちの無理解

しかしそれだけではありません。この物語に込められているメッセージの中でもう一つ私たちが目を留めていきたいのは、弟子たちの無理解、不信仰です。2-4節をお読みします。「『かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなります。遠くから来ている人もいます。』弟子たちは答えた。『こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができるでしょう。』」前回の「五千人の給食」の時とほとんど同じ返しをしている弟子たちですが、ここで私たち読者はこう思うわけです。「あれ、前回の奇跡のことは忘れてしまったの?」と。前回は1回目でしたから、まだ許されたと思うのです。弟子たちはイエスさまがパンと魚を増やすなんて想像もしていなかったでしょうから。ですが今回は違います。少し前に五つのパンと二匹の魚で五千人の男を養うという偉大な奇跡を目の当たりにしたのに、なぜ弟子たちはそれを思い出さなかったのか。なぜ、「イエスさま、ここにあるパンと小魚を使ってください。あなたならなんでもおできになります」と、自らもっているものを差し出さなかったのか。私たちは不思議に思います。

けれども、この弟子たちの姿は、実は私たち自身のことを写し出しているのではないでしょうか。私たちはイエスさまを神の子キリストと告白しています。イエスさまに不可能なことはないと頭では分かっています。しかしいざ自分自身のことになると、急に自信をなくすことが多いのではないでしょうか。「いやいや、私なんて知識も才能も経験も乏しいですから」「こんな自分には無理です」「イエスさまのお働きに役立つものなんて私は何ももっていません」。日本人的な謙虚さとも言えるかもしれません。しかしそれは果たしてイエスさまが求めておられる謙虚さでしょうか。

あるいは教会的に考えた場合、「この室蘭市8万人、あるいは港南町1,500人、全員にみことばのパンを分け与えなさい」、イエスさまにそう命じられるとき、私たちはなんと答えるでしょうか。「神さま、そんなの無茶です。この教会には20人ちょっとしかいません。お金もエネルギーもあまりありません。新しく来た伝道師も駆け出しで経験がなく、何をしたらいいか分かりません。こんな私たちが室蘭市、港南町の全員にパンを分け与えるなんて無理ですよ」。今日の箇所の弟子たちの姿の中に、私は自分自身の姿を見出します。

 

ありのままささげる

しかし、果たしてイエスさまは弟子たちが何千個ものパン、何千匹もの魚をもっていることを期待しておられたのでしょうか。そうではないでしょう。弟子たちがわずかなパンと小魚しかもっていないことなど、イエスさまは百も承知だったはずです。私たちがもっているものの乏しさをイエスさまはすでによくご存知でおられる。ではイエスさまが私たちに求めておられるのは、自分たちの乏しさを嘆くことでしょうか。「あれがあれば、これがあれば」とないものねだりをすることでしょうか。そうではありません。自分たちがもっているものがどんなに乏しくても、役に立たなさそうに思えても、まずはそれをイエスさまの前に差し出すこと。「わずかしかありませんが、どうかあなたのお働きのためにお用いください」と、イエスさまにおささげすること。それこそが、イエスさまが弟子たちに求めたことであり、私たちにも求められていることです。無理して背伸びする必要は一切ありません。自らの乏しさを取り繕う必要も一切ありません。ただ、自分がもっているこのものを、それがたとえ乏しくても、ありのまま、信仰をもってイエスさまの前に差し出す。その時、イエスさまはそれを用いて、私たちの手の中でそれを何十倍、何百倍、何千倍にもして、ご自身の大きなみわざをなしてくださいます。私たちから奪い取ってお一人でみわざをなされるのではありません。弟子たちを用いて群衆にパンと小魚を配ったように、私たちのことも用いて、私たちを通して奇跡を起こしてくださるお方、それがイエスさまです。このイエスさまの大きなみわざに、私たちも加わっていきたいと願います。たとえわずかであっても、この乏しいものを、信仰をもってイエスさまに差し出す。そこには溢れんばかりの豊かな祝福が待っています。

このブログの人気の投稿

コロサイ3:1-4「上にあるものを思う」(使徒信条No.7)

マルコ8:11-13「十字架のしるし」

マルコ15:33-39「この方こそ神の子」