出エジプト記32:1-14「先立って進まれる主に従う」

 

今日は6月の第一主日ということで、年間テーマ「先立って進まれる主とともに」について、みことばに聴いていきましょう。今日開かれているのは、出エジプト記321-14節です。ここに記されているのは一般的に「金の子牛事件」と呼ばれる出来事ですが、この箇所から私たちは、「先立って進まれる主とともに」と掲げる時、そこに潜んでいる罪の危険性について教えられていきたいと思います。

 

犯した罪の大きさ

この「金の子牛事件」と呼ばれる事件は、聖書全体を読んでいくと、繰り返し何度も言及されていることが分かります(申命記、ネヘミヤ記、詩篇、使徒の働き、1コリントなど、気になる方は脚注から探してみてください)。この事件はそれほど神の民の歴史のなかで大きな意味をもっている出来事、神の民が犯し得る罪について非常に重要なことを教えている出来事ということになります。

この箇所を正しく理解するためには、この前の文脈をよく押さえておく必要があります。エジプトで奴隷状態だったイスラエルの民は、モーセの導きのもと、主の奇跡によって見事出エジプトを果たします。そして出エジプト記19章、シナイ山に辿り着いたイスラエルの民の前に神さまは現れ、このように語りかけます。195-6節「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」ある人はこの箇所を、「神さまからイスラエルの民へのプロポーズ」だと説明します。すると民はどう答えたか。8節「民はみな口をそろえて答えた。『私たちは主の言われたことをすべて行います』」。「すべて行います」、イスラエルの民ははっきりと神さまのプロポーズを受け入れました。ここに神さまとイスラエルの民との間の特別な関係が成立したわけです。そしてそれをもって、続く20章では十戒が示され、「あなたは、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない」という戒め、神の民としての生き方が明確に語られました。イスラエルの民はそれを喜んで受け入れたのです。しかしその40日後、たった40日後です、今日の「金の子牛事件」が起こる。ある学者はこれを、「結婚式の夜に不貞を働くのと同じような行為である」と言っています。それほど恐ろしい、信じられないような罪をイスラエルの民はここで犯しているのです。

 

目に見えない神に従う不安

なぜこのようなことが起きたのでしょうか。321節を見るとその理由が分かります。「民はモーセが一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。『さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったか、分からないから。』」民の内に生じたのは、目に見えない神さまを信じることへの不安です。神さまは目に見えないお方、それはイスラエルの民もよく分かっていたことです。その分、これまではモーセが民の先頭に立って、神さまとの間を取り次ぎ、神さまのことを指し示していてくれていました。しかし、そのモーセが山に上ったきり、帰ってくる気配を見せません。目に見えない神さまを指し示してくれる存在がいない。神さまとの間を取り次いでくれる存在もいない。このままモーセが帰ってこなかったら自分たちはどうすればいいのか。民は不安に陥りました。

ここでイスラエルの民は決して唯一真の神さまを忘れてしまっていたわけではなかったと思うのです。むしろ忘れられるはずがありません。あれだけ強烈な奇跡をもって自分たちを救い出してくれた神さまですから、その神さまを意図的に裏切ろうとしたということではなかったはずです。その証拠に今日の箇所で「神々」と訳されていることば、これは翻訳上「神々」と訳されているだけで、ことば自体は唯一真の神さまを指すときに使われる「神」と同じものです。ですから恐らくイスラエルの民がここで求めているのは、全く新しい「神々」ではなくて、自分たちをエジプトから救い出してくださったあの「神さま」を目に見えるかたちにしてほしい、ということでした。ですから民の要求に応えたアロンは4節で「これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と言って、唯一真の神さまに対するのと同じように祭壇を築き、全焼のささげ物をささげ、礼拝をしたのです。

 

「われわれ」のための神

彼らは神さまを忘れたわけではなかった…では何が問題だったのか。彼らの問題は、信仰の中心に自分たち自身を置いていたところにありました。それは1節のことばによく表れています。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい」。「われわれのために」、ここに問題の根幹があります。彼らが求めていたのは要するに、「われわれのための」、自分たちのための「神」だったのです。自分たちを日々養ってくれる「神」。自分たちを敵から守ってくれる「神」。自分たちに進む道を示してくれる「神」。自分たちの不安を解消してくれる「神」。自分たち、自分たち、彼らの信仰の中心にあったのは、「われわれ」、自分たちでした。「われわれに先立って行く神」と言いながら、彼らが実際に求めていたのは、自分たちが従う神ではなく、自分たちに従ってくれる、自分たちの思い通りになる都合のいい番犬代わりのペットとも言えるような「神」だったのです。

ここに、人間の罪が表れています。神のかたちとして造られた人間は、本能的に自分に先立って進んでくれる存在、自分自身を預けられる存在を求めています。それが唯一真の神さまの方向に向かえば問題はないのですが、罪のゆえに神のかたちが歪んでしまっている人間は、目に見えない神さまに信頼しきることができずに、自分たちに都合のいい偶像を造り出してしまいます。様々な宗教の偶像はもちろんそうです。現代人にとっては「お金」も大きな存在でしょう。あるいはある人にとっては人間関係、ある人にとっては名誉、名声が偶像になっているかもしれません。

あるいはイスラエルの民のように、自分は唯一真の神さまを礼拝していると思いながら、実は自分に都合のいい「神さま像」を造り出し、それを礼拝している、そのようなことも大いにあり得ます。「先立って進まれる神さまについていきます!」と声高らかに宣言しながら、実際には自分の理想、願望を投影した「神さま像」をペットのように自分に従えているだけではないか。自分が礼拝しているこの「神さま」は、本当に聖書が教えている天地万物を創造した唯一真の神さまなのか。この「金の子牛事件」は、そのような偶像をもっていないか、造り出していないかということを、私たちに鋭く迫ってきます。非常に重く、痛い問いです。私たちは、自分自身の内に潜んでいるこの罪を深く省みなければなりません。

 

一筋の福音の光

しかし最後に私たちは、この重く暗い罪の現実の中に差し込んでいる一筋の希望の光に目を留めていきたいと思います。それは、仲介者モーセの存在です。今日お読みした箇所の後半では、罪を犯したイスラエルの民のために必死にとりなしをしているモーセの姿が描かれています。そして少し先の箇所になりますが、3232節を見ると、そこでモーセはイスラエルの民の罪を赦していただくために、自身の永遠のいのちまでをも差し出しています。イスラエルの民の罪のために自身のいのちをかけてまでとりなしをするモーセ。このモーセの姿は、やがて現れる、神と人の間の唯一の仲介者、イエス・キリストを指し示しています。

新約聖書の1ヨハネ21節にはこうあります。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます」。私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられる。モーセが民の先頭に立って、民の罪のためにとりなし、神さまに従う道へと民を導いたように、いや、それ以上に、イエスさまは私たちの先頭に立って、私たちの罪のためにとりなし、父なる神さまに従う道へと私たちを導いてくださいます。人間の罪の醜さ、恐ろしさをここまでかと思えるほどに描き出しているこの「金の子牛事件」の中にも、福音の光は確かに差し込んでいるのです。この光を、イエス・キリストのお姿を、私たちは仰ぎ見ていきたいと願います。そして与えられているこの福音の光に感謝しつつ、私たちの先頭に立って導いてくださっているイエス・キリストに従う歩み、先立って進まれる主とともに歩む人生を送っていきたいと願います。

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