マルコ7:31-37「主のなさることはみなすばらしい」

 序:「普通」の癒しの奇跡?

今日私たちが開いているマルコの福音書7:31-37は、情景描写がとても印象的な箇所です。このマルコの福音書は基本的にテンポよく物語が進んでいくのですが、時折今日の箇所のように、細かく情景を描写しながらイエスさまのみわざを語るという場面があります。イエスさまがご自分の指を聾唖(ろうあ)の男性の両耳に入れ、唾を付けて彼の舌に触り、天を見上げ、深く息をした後、「エパタ(開け)」と言われる。非常にリアルな描写です。しかも、この「エパタ」というのはイエスさまが実際に話されていたアラム語のことばです。それをギリシャ語に訳さず、あえてアラム語の音のまま記録したマルコ。マルコの福音書は使徒ペテロの証言をもとにマルコが記したと伝統的に言われますが、今日の箇所はまさに、この出来事を間近で見たペテロの生き生きとした証言が残っている箇所と言うことができます。

けれども、情景描写が印象的という点を除けば、この箇所は一見「普通」の癒しの物語であるように思えます。もちろん聾唖の男性が癒されるというのは決して「普通」ではないのですが、福音書に慣れ親しんでいる方の場合、「あぁ、また癒しの奇跡か」と、この箇所を数多くある癒しの奇跡の中の一つとしか見ない。私自身も含めて、そのようなところがあるのではないかと思います。

 

神の国の「しるし」

しかしこれまでも何度か申し上げているように、福音書に記されている「癒し物語」を単なる「奇跡物語」として読んでしまうのは、あまりにももったいないことです。イエスさまは単に自分がすごい神さまであることを証明するために奇跡を行われたのではありません。イエスさまが数多くの奇跡を行われた理由、それは、旧約聖書の預言、神の国がもたらされるという預言がご自身において成就していることを示すためでした。イエスさまの奇跡は、神の国の「しるし」としての奇跡だったわけです。

では今日の箇所はどうか。ここで私たちが注目したいのは、32節の「耳が聞こえず口のきけない人」という表現です。特に「口のきけない人」ということば。これは新約聖書の中でこの箇所でしか使われていない珍しいことばです。そして当時人々がよく用いていた旧約聖書のギリシャ語版を見ても、このことばは一箇所にしか出てきません。その箇所はどこか。32節の脚注にもあります、イザヤ35章(旧1222)をともに開いて確認したいと思います。本当であれば35章すべて読みたいところですが、時間の都合上、3-7節のみをお読みします。「弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。』そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ」。

「耳の聞こえない者の耳は開けられ…口のきけない者の舌は喜び歌う」、イエスさまの癒しの奇跡は、この預言の成就のしるしでした。ではこのイザヤ35章は何を預言しているのか。それは、4節の最後にあるように、神さまがこの世界に来られて、救いをもたらしてくださるということです。その救いのとき、「耳の聞こえない者の耳は開けられ、口のきけない者の舌は喜び歌う」という奇跡が起こる。そして、「荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れる」、これは万物が新しく造り変えられる、新しい創造が起こるということです。イザヤ35章は、神さまがこの世界に救いをもたらすために来られるとき、すべてのものが新しく造り変えられる、新しい創造が始まる、そのような素晴らしい神の国の姿を預言しています。

 

開かれた耳、解かれた舌

この旧約聖書の背景を意識しながら今日のマルコ7:31-37を読むと、この出来事が今を生きる私たちにも迫ってきます。もしこれが単なる癒しの奇跡であったら、今を生きる私たちにはあまり関係がなかったでしょう。しかしこの癒しの奇跡は、一人の病んだ人がイエスさまに触れられて新しく造り変えられる出来事を私たちに示しています。イエスさまに触れられて、新しく造り変えられる。私たちもこの出来事を経験しているのではないでしょうか。霊の耳が塞がれ、神さまの御声が聴こえない。神さまの側は一生懸命私たちに語りかけてくださっていたにもかかわらず、そのこと自体に気づかない。自分を活かす本物のことばを求めているのに、耳に入ってくるのは偽りのことばばかり。求めているものが聴こえない。

すると当然、それは私たちの口・舌にも影響を与えます。通常、人は耳から入ってくることばを通して話すことを学んでいきますから、耳が聞こえない場合、話すことにも難しさが出てきます。それと同じように、霊の耳が塞がれ、神さまの御声が聴こえなかった私たちは、そもそも神さまをほめたたえるということ自体を知りませんでした。この耳は神さまの御声を聴くため、この口・舌は神さまをほめたたえるために造られたのに、それができない。人に対してもそうです。愛のことばを語りたい、人を活かす真実なことばを語りたいのに、舌がもつれて、どうしても口籠もってしまう。語りたいことが語れない。それが罪人の姿です。

しかし、イエスさまに触れられたとき、私たちは新しく生まれ変わりました。「エパタ」、イエスさまの御声とともに、私たちの霊の耳は開かれた。私たちを活かす本物のことばが、救いのことばが、愛のことばが聞こえてくるのです。そしてイエスさまが舌のもつれを解いてくださるとき、私たちの舌は神さまへの賛美へと解き放たれます。神さまをほめたたえるために造られたこの舌が、本来の役割を取り戻すのです。そしてそれだけではありません。今度は私たち自身が、人を活かす本物のことばを語る者へ、救いのことばを語る者へ、愛のことばを語る者へと造り変えられていきます。そして736節「彼らは口止めされればされるほど、かえってますます言い広めた」とあるように、もはや内に留めることができないほど、私たちの内から神さまへの賛美が溢れ出てくるようになるのです。

 

新しい創造の御業

この様子を見て、人々はこう言いました。37節「人々は非常に驚いて言った。『この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口のきけない人たちを話せるようにされた』」。ここで「すばらしい」と訳されていることば、これは「良い」とも訳されることばです。「この方のなさったことはみな良い」、これは創世記1章の天地創造の御業を思い出させることばです。一人の人の霊の耳が開かれ、舌のもつれが解け、神をほめたたえる者へと新しく造り変えられる。これは天地創造の御業に匹敵する、まさに新しい創造の御業です。新しい創造の御業が、イエスさまに触れられたことによって、私たちの内にもたしかに始まっている。「この方のなさったことは、みなすばらしい」、私たちも今まさに、そのすばらしい神さまの御業のど真ん中に置かれているのです。ですから私たちは、開かれた耳をもっていよいよ主のみことばに聴き、解かれた舌をもっていよいよ主をほめたたえ、主のすばらしい御業を証しし続けていきたいと願います。そのような私たちを見て、人々は非常に驚いて、このように言うでしょう。「主イエス・キリストのなさったことは、みなすばらしい」。私たちはキリストの証し人となっていくのです。

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